後悔だけが私を大人にした。
涼風琉生
第1話 春の教室は、静かすぎた
白石莉乃が命を断ったと知らされたのは、
午後の授業がすべて終わったあとだった。
職員室の空気は、いつもより重かった。
誰も大きな声を出さず、
コピー機の音だけが、場違いなほどはっきりと響いていた。
「……篠宮先生」
呼ばれたとき、
ひとみはすぐに立ち上がれなかった。
名前を呼ばれただけで、
胸の奥が、ひどく嫌な形でざわついた。
「白石さんが……」
それ以上の言葉を、
管理職は続けなかった。
続ける必要が、なかった。
ひとみの視界が、わずかに揺れた。
白石莉乃。
静かな生徒だった。
騒がず、反抗せず、
いつも「大丈夫です」と答える子だった。
――困っていることはない?
ひとみは、何度もその言葉を思い出す。
放課後の教室。
窓から差し込む夕方の光。
机にきちんと揃えられた手。
――特にありません。
その声は、落ち着いていて、
嘘をついているようには見えなかった。
だから、信じた。
だから、待った。
それが教師として正しい距離だと、思い込んでいた。
けれど、
それはただの逃げだったのかもしれない。
ひとみは、その日のうちに教室へ向かった。
誰もいない放課後の教室。
白石莉乃の席だけが、
まだ、彼女の形を残しているように見えた。
ノートは、机の中にきれいに入っていた。
プリントも、折れ一つなく揃っている。
まるで、
最初から、ここにいなかったみたいに。
「……ごめんね」
声に出した瞬間、
それが、あまりにも遅すぎる言葉だとわかった。
謝る相手は、もういない。
取り消すことも、やり直すこともできない。
あのとき、
もう一歩踏み込んでいれば。
疑うべきだったのは、
生徒の言葉ではなく、
何も起きていないように見える教室の空気だった。
ひとみは、教室の中央で立ち尽くし、
初めて、教師であることが怖くなった。
救えなかった。
その事実だけが、
この先ずっと消えないことを、
このとき、はっきりと理解してしまった。
――後悔は、時間が経てば薄れるものじゃない。
――人を、大人にしてしまうものだ。
その後、どれくらいの時間が過ぎたのか、
ひとみにはわからなかった。
ただ、
教室を出るとき、
彼女は一つだけ、心に刻んだ。
二度と、同じ後悔はしない。
たとえ、
それが教師として嫌われる選択だったとしても。
教室の引き戸を開けた瞬間、心臓の奥が薄氷を履んだように冷えた。
四月の湿り気を帯びた風、ワックスの匂い、そして十代特有の、熱を孕んだ無関心。
そこにあるすべてが、私の記憶の底に沈んでいた「あの春」と、一分一秒の狂いもなく重なっていた。
四段目の出席簿を握る指先が、かすかに震える。
「……おはようございます。今日からこのクラスの担任になる、篠宮です」
顔を上げ、教壇から教室を見渡す。窓際の後ろから二番目。そこだけが、切り取られたように温度が低い気がした。陽だまりの中で、一人の少女が伏せ目がちにノートを広げている。
白石莉乃――。
呼ぶはずのない名前が、喉のすぐ裏側までせり上がっていた。
新品の制服が放つ、糊の効いた硬い匂い。
緊張に固まった三十人の吐息。
それらが混じり合い、目に見えない膜となって部屋を覆っている。
教壇に立つひとみは、穏やかな笑みを浮かべながら、教卓に置いた名簿に指を這わせた。
視線の先では、生徒たちが探り合うような視線を交わしている。
誰がリーダーで、誰が傍観者で、誰が標的になるのか。
彼らは本能的に、この教室という箱の中の「空気」を編み上げようとしていた。
国語教師という職業は、言葉の裏側にある「沈黙」を読み解く仕事だと思っていた。
あの子を失うまでは。
四十歳になった私に、新しいクラスが割り当てられる。
名簿には三十名の見知らぬ名前が並び、私はそれらを記号として処理することに慣れてしまった。
大人になるということは、おそらく、そうやって感情に蓋をするのが上手くなることと同義だ。
けれど、三年B組の教室に足を踏み入れた瞬間、その「大人の余裕」は呆気なく崩壊した。
空気が、あまりにうるさ過ぎる。
私を見上げる生徒たちの視線の中に、かつて私が読み解き損ね、あの子を死に追いやった「絶望の予兆」が混じっているような気がして、私は咄嗟に呼吸の仕方を忘れた。
その中で、一際目を引く少女がいた。
窓際の席に座る、佐伯 結衣。
春の陽光を背負った彼女がふわりと微笑むだけで、周囲の温度が数度上がったように錯覚する。
「先生、よろしくお願いします!」
透き通るような声。非の打ち所のない礼儀正しさ。
彼女はこの空間の正解をすべて知っている。
そんな振る舞いだった。
「……じゃあ、最初の時間は恒例の作文を書いてもらいます」
ひとみはプリントを配り終えると、黒板にチョークで大きく題題を書いた。
『今の自分について』
原稿用紙に向かう生徒たちのペン先が、カリカリと音を立て始める。
ひとみはゆっくりと机の間を歩いた。
視線は、一人ひとりの手元へと向けられる。
国語教師としての癖だ。
文字の筆圧、行間の空け方、迷う指先。
それらには、言葉になる前の感情が宿る。
ふと、一人の生徒の前で足が止まった。
朝比奈紬。
小柄で、目立たない。
髪型も制服の着方も、きちんとしている。
騒がしくもなく、かといって孤立しているようにも見えない。
それは、既視感という生易しいものではなかった。
教壇から見渡す三十名の生徒たち。
その中央に座り、
取り巻きに囲まれて艶やかに笑う佐伯結衣。
彼女が放つ、
クラスを完全に掌握した者にしか出せない
傲慢なほどの熱。
それが、かつてこの教室を支配していた
「目に見えないルール」を
私に思い出させた。
けれど、私の指先を凍りつかせたのは、
彼女の熱ではない。
その熱気から弾き出されるように、窓際の後ろから二番目の席に座る少女。
やはり朝比奈紬だ。
喧騒の中にありながら、
彼女の周りだけが
真空のように静まり返っている。
その拒絶の色、
周囲と自分を切り離すための
絶望的なまでの透明感。
(ああ、温度が同じだ……)
十五年前、私が救えなかった白石莉乃。
彼女が飛び降りる直前、
教室で放っていたあの「凍えるような孤独」が、
今、紬の背中に重なって見えた。
佐伯結衣が、
ふと笑みを止めて紬を、そして私を見た。
試すような
あるいはすべてを見透かしたような
冷ややかな視線。
「……篠宮先生? これ、回収しないんですか?」
結衣の声が、鋭いナイフのように教室の空気を切り裂いた。
ひとみは、次の授業の説明を簡単に済ませ、
チャイムと同時に「今日はここまで」と告げた。
彼女のペンは、
一度も止まることなく動いていた。
けれど、その横顔には、
中学生らしい瑞々しさも、
新しい環境への不安も、何一つ浮かんでいない。
まるで、
精密な機械が淡々と
タスクをこなしているような、不自然な静寂。
放課後。
誰もいなくなった準備室で、ひとみはその作文を手に取った。
朝比奈紬の文章は、美しかった。
誤字脱字もなく、文法も完璧。起承転結も整っている。けれど、読み進めるうちに、ひとみの指先が微かに震え始めた。
『私は、今の生活に満足しています。友達も親切で、勉強も楽しく、特に困っていることはありません。明日も今日と同じような一日であればいいと願っています』
「……ない」
ひとみは呟いた。
この文章には、「私」がいない。
書かれているのは、教師が喜び、親が安心し、クラスメートが納得する「正解」だけだ。
その時、脳裏に一人の少女の姿が重なった。
白石莉乃。
数年前、同じように整った文字で「私は大丈夫です」と書き残し、この学校から、そしてひとみの前から消えてしまった少女。
教室の隅に溜まる埃のような、微かな違和感。
かつて、ひとみはそれを「青春の些細な悩み」だと思い込み、踏み込むことを躊躇った。
彼女が「信じて待つ」という名の怠慢を選んでいる間に、空気は刃物となって莉乃を切り裂いたのだ。
「篠宮先生、まだ残っていたのか」
背後から声をかけられ、ひとみは肩を揺らした。学年主任の木下だった。
彼はひとみの手元にある作文に目を向け、小さく嘆息した。
「……また、あの子のことを考えているね」
「木下先生。この子の文章、あの子と似ているんです。色が、ないんです」
木下は穏やかな、けれどどこか線を引くような口調で言った。
「慎重になりなさい。新学期早々、教師が過敏になりすぎると、せっかくの安定した空気が乱れることもある」
空気。
また、その言葉だ。
ひとみは窓の外を見た。
校庭の桜はもう散り始め、若葉が顔を出している。
春の教室は、静かすぎた。
その静寂の下で、誰かが窒息しかけているかもしれないという恐怖が、ひとみの胸を鋭く刺した。
「今度は、見逃さない」
閉め切られた準備室で、ひとみの決意だけが、重く湿った空気を切り裂いた。
笑い声。
誰かを呼ぶ声。
それらが廊下へ流れていくのを見届けてから、
ひとみは教卓に腰を下ろし、集めた作文に手を伸ばした。
一枚目。
無難な文章。
二枚目。
少し背伸びした言葉遣い。
三枚目、四枚目――
どれも、想定の範囲内だった。
そして、
朝比奈紬の作文。
ひとみは、紙を手に取った瞬間、指先に冷たいものを感じた気がした。
文章は、整っていた。
誤字も少なく、文法も正しい。
けれど、そこには奇妙なほど、感情がなかった。
それだけ。
不満も、期待も、戸惑いもない。
まるで、感情という要素を意図的に削ぎ落としたような文章。
ひとみは、息を止めていたことに気づき、ゆっくりと息を吐いた。
脳裏に、別の教室が浮かぶ。
少し古い机。
色あせた掲示物。
そう。白石莉乃。
あのときも、作文はきれいだった。
「大丈夫です」
「問題ありません」
そう書かれた文字だけが、今もはっきりと残っている。
ひとみの胸の奥に、鈍い痛みが走る。
教室は、今も静かだ。
誰かが泣いているわけでも、怒鳴っているわけでもない。
けれど、この静けさは、安心のそれではない。
空気が、整いすぎている。
ひとみは、ゆっくりと立ち上がり、窓の外を見る。
校庭では、別のクラスの生徒たちが笑っていた。
その音が、ガラス一枚隔てただけで、ひどく遠く感じられた。
――同じには、させない。
心の中で、そう呟く。
それが誓いなのか、願いなのかは、まだわからない。
ただ一つ確かなのは、
この教室の静けさが、
彼女にとって、決して無関係ではないということだった。
黒板に残る自分の名前を、ひとみは一度だけ見つめ、
そっとチョークを手に取った。
春の教室は、静かすぎた。
だからこそ、彼女は目を逸らさなかった。
放課後の廊下は、まだ明るかった。
部活動に向かう足音が重なり、窓の外では運動部の掛け声が響いている。
篠宮ひとみは、職員室へ戻る途中で立ち止まった。
教室の前。
中には、まだ一人だけ残っている生徒がいた。
朝比奈紬。
机に向かい、ノートを整理している。
帰り支度を急ぐ様子も、誰かを待つ様子もない。
ひとみは、一度だけ深く息を吸い、教室に入った。
「朝比奈さん」
名前を呼ぶと、紬は少し驚いたように顔を上げた。
「はい」
声は落ち着いている。
必要以上の緊張も、不満も見えない。
「作文、読ませてもらいました」
ひとみは、意識して柔らかい表情を作る。
刺激しないように。
追い詰めないように。
「きれいな文章でした。読みやすかったです」
それは、褒め言葉だった。
少なくとも、ひとみはそう思って口にした。
紬は、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その反応を見た瞬間、
ひとみの胸の奥で、何かがひっかかった。
――違う。
続けて、ひとみは言った。
「新しいクラス、困っていることはありませんか?」
声の調子。
言葉の選び方。
距離の取り方。
そのすべてが、
あのときと、同じだった。
紬は少し考えるように視線を落とし、
やがて、はっきりと答えた。
「……特に、ありません」
その言葉を聞いた瞬間、
時間が、ほんの一瞬だけ巻き戻った。
白石莉乃。
放課後の教室。
同じ質問。
同じ答え。
――大丈夫です。
――困っていません。
ひとみの背中を、冷たいものが流れ落ちる。
「そうですか」
そう返してしまった自分の声が、
あまりにも自然で、あまりにも慣れていて、
ひとみは心の中で歯を食いしばった。
まただ。
また、同じことをしている。
信じて、待つ。
相手の言葉を、そのまま受け取る。
踏み込まないという選択。
それが、どんな結末を招いたのかを、
自分は知っているはずなのに。
「……あの」
ひとみは、一歩だけ、机に近づいた。
距離を詰めすぎない。
でも、引かない。
「何かあったら、いつでも言ってください、じゃなくて」
紬が、不思議そうにひとみを見る。
ひとみは、一度言葉を切り、
ゆっくりと続けた。
「私のほうから、また声をかけます。
それが嫌だったら、そう言ってください」
紬の目が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
それでも、ひとみは見逃さなかった。
「……はい」
その返事は小さかったが、
確かに届いた。
紬が教室を出ていったあと、
ひとみは一人、立ち尽くした。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
怖かった。
同じ過ちを繰り返すことが。
そして、今度こそ踏み込みすぎて、
誰かを傷つけるかもしれないことが。
それでも。
ひとみは、はっきりと自覚していた。
待たない。
信じるだけで終わらせない。
あの春に、選ばなかった選択を、
今度は選ぶ。
教室を出る前に、
ひとみはもう一度だけ、空になった席を見た。
静かすぎる教室。
でも、この静けさに、目を逸らすつもりはなかった。
篠宮ひとみは、決意を固めて職員室へ向かった。
それが、後悔から逃げないということだと、
ようやく理解しながら。
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