第12話 虹

 触れるだけで熱くなっていた体は、淋しさで震えそうになる夜になると、強がりと恥ずかしさの服を着て、平気だよ、そんな風に強がった。

 大人になるにつれ、ただひたむきに好きだという気持ちが恥ずかしくなり、あれほど純粋だった心が、嘘や誤魔化しで塗りつぶされていく。


 あんなに楽しみにしていた春が、大きな竜巻が全てをさらったように、何もなくなった。

 

 遥は決まっていた保育園にも就職せず、近くの養護学校で、臨時教員として働いていた。 

 ピアノも水泳もやらなくていいんだし、軽い気持ちでこの職場を選んだ。

 就職した学校は、思っていた毎日とはぜんぜん違った。授業の途中で、パニックを起こした生徒が、遥にむかってく噛みつく事もある。


「渋谷さん、なんであの子が、あなたに噛みつこうとしたのか、よく考えてみて。」

 施設長はそう言った。


 仕事がうまくいかなくても、自分はまだ生きている。もう、死んでしまった徹也は、何かを伝えたいと思っても、それができない。

 少しずつ、遥の体に擦り傷が増えていった。

 仕方ない。それが自分が背負ったものなんだから。


 学校が夏休みに入った7月の終わり、渉が叶太のところにやってきた。

「遥なら、いないよ。」

 叶太が言った。

「なんか飲む?」

 叶太は冷蔵庫から、コーラを出して渉に渡した。

「渋谷は?」

「きっと実家にいると思うから、話すことがあるなら、そっちへ行って。」

 叶太はそう言った。

「渋谷と別れたのか?」

「出て行ったのは、遥の方。」

「なんでこんな事になってんだよ。」

「遥はあの事故があってから、自分を責めている。」

「事故は渋谷のせいなんかじゃないって。」

「そんな事、俺だってわかってるよ。」

「このままでいいのか?」

「良くはないさ。だけど、遥が苦しんでる気持ちもわかる。両親が揃っている冴木くんには、理解できないだろうけど、誰かを不幸にしたって事は、自分はそれ以上の罰を受けなきゃならないんだ。」

「渋谷は誰も、不幸になんかしてないよ。」

「俺もそう思うけど、遥が出した答えだからさ。」

「林さんに渋谷を紹介した事、俺だって後悔してるんだ。あの人、いろんな人と遊んでたみたいだからさ。」 

「氷、いる?」 

 叶太は聞いた。グラスに氷を入れて渉に渡す。

 コップを受け取った渉は、それにコーラを注いだ。

「たくさん入れたと思っても、泡が消えたら少ししか入ってないんだよな。」

 叶太は残りコーラを、渉のグラスに注ぐ。

「藤原くん、俺達まだ23だよ。この先ずっと、悲しいまま、生きて行くつもり?」

「遥が1人でいるなら、俺もずっと1人でいるだけの事。」

「キレイ事言ってないで、すぐに迎えに行けばいいだろう。」

「俺は冴木くんのように起点がきかないし。遥は頑固だし。」

「渋谷、転校してきた藤原くんの教科書は、本当はすぐに届いていたのに、ずっと隣りで、自分の教科書を見ていたって言ってたよ。どうしたら、渋谷の隣りに座れるかなんて、藤原くんが一番よくわかってるはず。」

「あいつ、やっぱり知ってたのか。」

「ねえ、藤原くん。高校ってここから遠い?」

「そんなに遠くはないよ。」

「連れて行ってくれないか、今度俺も、練習に参加したいから。」


 叶太と渉は、町を歩いていた。

 手を繋いで散歩している保育園児の色とりどりの帽子が、2人の前に近づいてきた。

 列の最後には、1人の女の子を真ん中に、2人の男の子が手を繋いでいる。

「先生、これじゃあ、横断歩道で手を上げられないよ。」

 その女の子が前を行く保育士に言った。

「大丈夫、代わりに僕が上げるから。」

「僕も代わりに手を上げるから大丈夫。」  

 2人の男の子は、横断歩道をそれぞれの右手を左手を上げて渡って行った。

「離れたらダメだよ。早く渡ろう。」

 少し足早に横断歩道を渡っていく3人。

 園児達が通り過ぎた後、さっきの女の子が叶太と渉に振り返って、にっこり笑った。


「藤原くん、俺がもし、この町で生まれて育ったなら、渋谷とあんな風に手を繋いでいたんだろうな。」

「そうだね。」

「そのまま大人になれたのなら、渋谷の隣りは、ずっと俺が座っていたかもよ。」

 渉はそう言った。

「それは困るよ。」

 叶太は笑った。

「高校はまだ遠い?」

「ほら、あの交差点を越えたところ。」

 

 遥は夏休みに実家へ帰らないで寮に残る子供達と、散歩に出掛けるために玄関にいた。

 なかなか靴を履きたがらない男の子に、時間だよ、そう言って足を履かせようとした。

 穏やかだった男の子は、突然暴れ出して遥を突き飛ばした。

 下駄箱に体をぶつけた遥の右の手首から、鈍い音がなる。

 

 起き上がれないでいる遥を、突き飛ばした男の子が、頭を撫でにきた。にっこり笑っている男の子の優しい笑顔に、遥は呆気にとられた。

「なんなの、本当。」

 遥がそう言うと、

「渋谷先生、病院に行きましょう。」

 施設長が遥を車に乗せた。


 診察室から出てきた遥を見て、

「やっぱり折れてましたか。」

 施設長が言った。

 ギプスを巻く順番を待っている間、施設長は遥にペットボトルのお茶を渡した。

「ありがとうございます。」

 蓋を開けられない自分に、施設長は意地悪でお茶を渡したのかと思い、遥は黙って左手でペットボトルを握りしめた。 

「これ、どうやって飲みますか?」

 施設長が言った。

「えーっと、」

「開けてほしいとか、あとで飲むとか、この味じゃないとか、渋谷先生は言えますよね。黙って家に持って帰ることもできる。なんとか自分で開ける手段だって考えようとすれば、思いつく。だけど、それを伝える手段を探している途中のあの子達は、どうすると思います?」

 遥は施設長の顔を見た。

「施設長、これ、開けてもらえますか。」

「いいですよ。喉乾いたでしょう。渋谷さんが私にペットボトルをぶつけてこなくて、ホッとしました。」


 医者がギプスを巻いていると、

「あなた、前にもギプスを巻いた事ない?」

「3年前にここへ来ました。」

「やっぱり。」

 看護師はそう言った。

「すっかりお得意様になったね。」

 医者が遥を笑わせる。


 施設長が電話をしているので、遥は待合に座り、電話が終わるのを待っていた。

 救急車が止まり、玄関の方を見ると、叶太がストレッチャーを押して入ってくる。


「遥?」 


 叶太は処置室に消えていった。

 

 遥が寮に戻ってくると、あの男の子は、時計を合わせていた。

「1分でもズレるとだめなのよ。」

 近くの先生がそう言った。

「順番も時間もちゃんと決まっているの。それをこちらの都合で変更すると、パニックになる。今日もね、渋谷さんがあと1分待っていたら、それで良かったのに。」

 遥のギプスに気がついた男の子は遥の頭を撫でた。

「頭を撫でると、痛いの治ると思ってる。あの子のお母さんはいつもそうやっていたのね。渋谷さん、怪我をした事は気の毒だけど、ここで働くなら、子供達からたくさん学んで。」


 家に着き、左手で玄関を開ける。すぐに閉まろうとするドアを足で押さえると、叶太が父と話している声がした。


「遥。迎えにきたよ。」

 叶太が笑顔で遥にそう言った。

「なんで?」 

「なんでって、そろそろ戻ってきてくれないと困るよ。」

「もう、叶太のところへは戻れない。」

「遥が出ていったら、俺も母さんも悲しいんだよ。これ以上、そんな人を作るなよ。おじさん、連れて行きますよ。」

「叶太、頼んだぞ。」

「わかってます。」


 叶太の車を降りると、澄子が外で待っていた。

「遥ちゃん、今日はシチューにしましょう。牛乳もちゃんと買ってあるから。」

「澄子さん、せっかく3人で暮らそうって楽しみにしてたのに…、ごめんなさい。」 

「遥ちゃん。ずっと待ってたのよ。」

 澄子は遥を抱きしめた。


 少し大きくなった叶太のベッドに、2人は座っていた。

「怪我の事、おじさんに聞いたよ。」

「そう。」

「遥、擦り傷だらけだね。」

「うん。」 

 遥は左腕を見た。

「毎日、どんな仕事してるんだよ。」

「学校だよ。私も先生って呼ばれてる。」

「きっと、優しい先生なんだろうな。」

 遥は首を振った。

「毎日どうすればいいか、ずっと考えてる。」

 叶太は遥の肩を抱いた。

「もう自分を責めるのはやめな。あの日の事故だって、遥のせいじゃないんだし。」

「そんな事、誰にもわからないよ。」 

「遥が不幸になる必要は、ないんだから。」

 うつむいて、少し固まっている遥。

「考えても考えても答えなんて出ないことばっかりだよ。だったら俺の隣りに、ずっといればいいだろう。遥の抱えている辛い気持ちを、俺が半分持ってあげるから。」 

 遥は左手で、こぼれそうになった涙を拭いた。

「私と叶太、どうしてあの病院の救急外来で会っちゃうんだろうね。」

 少し笑った遥の頭を、叶太は撫でた。

「右手はまだ痛むのか?」

「大丈夫。」

「遥の手、繋ぎたいな。繋げないってわかると、余計に繋ぎたくなる。」 

 叶太はそう言うと、遥を抱きしめて背中を撫でた。

「キスしようか。」

「そういう事は、黙ってしてよ。」

 叶太に遥に優しくキスをした。


 遥。

 神様は時々意地悪をして、悲しい雨を降らせる。

 雨が上がった後にできる虹は、どこまで追いかけても、その橋をくぐる事はできないね。

 誰だって、自分が一番虹の近くにいると信じているけど、本当の虹のふもとは、もっともっと遥か彼方遠く。

 いつの間にか消えてしまう虹は、気まぐれな通り雨と一緒に、また空に架かる。

 これからは俺とずっと一緒に空を見ていようよ。

 雨が上がって、最初に虹が架かる瞬間を、いつか遥の見てみたいから。

 

 叶太。

 最初に地面に辿り着く雨は、何も残らないね。 

 いくつもの雫が手を繋いで地面に降りてきた時、やっと小さな水たまりができる。

 叶太の書いたイタズラなQRコードは、適当に塗られた黒い箇所が、叶太の顔をゆらゆら映しているようだよ。

 ねえ。もう一度、ちゃんと好きって書いてくれない?

 叶太じゃないと、ダメなんだ。 

 叶太が私の背中のゼッケンを取ってくれた時、その手が少し触れただけで、涙が出そうになったの。

 どうしようもないくらい好きで、今でも心に大きな水たまりができたまま。


 遥は叶太の右手を触った。

「どうした?」

 叶太が言った。

「どうもしないよ。」

「嘘つくなよ。」

 少し色が変色してきた指先を叶太は見つめた。

「もらってる痛み止め、飲むか?」

「うん。」

 叶太は薬をシートから、出して遥の口に入れた。

 水の入ったコップを遥の左手に渡す。

「早く痛みがとれるといいな。」

「今日と明日はこんな感じだよ。」

「そっか。2回目だから、よく覚えてるんだな。」

 叶太は遥をベッドに寝せると、前髪をあげておでこを出した。

「遥ちゃん、なんにも変わらないな。」

「叶太だって。」  

「なあ、キスしようか。」

「また?そういう時は黙ってできないの。」

 叶太は遥のおでこに唇を押しあてると、遥の唇に自分の唇を重ねた。

「俺の気持ち、遥に全部あげるから。」

「少しでいいよ。叶太が空っぽになったら困るからね。」


 明け方まで眠れなかった遥は、叶太の背中に左手でそっと触れた。

「ゼッケンなんて、もうないぞ。」

 叶太は背中越しに言った。

「そうだね、もうないのにね。」

 遥は叶太の背中に頬をつけた。

「手、痛むのか?」

「大丈夫。」

 叶太は振り返ると、

「薬、持ってきてやるよ。嘘だってバレてるよ。」

 そう言って起き上がった。

 

 少しずつ明るくなっていく空は、灰色の景色から、青色へとゆっくり変わっていった。


 終。

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初恋 小谷野 天 @kuromoru320

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