(短編) 終末支援官 ─ 佐伯航 ─
空飛ぶチキンと愉快な仲間達
プロローグ
その封筒は、夏の終わりの突き抜けるような青空によく似た色をしていた。
役所の窓口でそれを受け取る際、佐伯航(さえき わたる)は一度も担当者と目を合わせなかった。不自然に視線を逸らす職員たちの態度は、彼らにとってこの青い封筒が「他人の命の終わりを告げる不吉な合図」であることを物語っている。
それを運ぶ佐伯の仕事は、世間から「死神の代弁者」と揶揄されていた。
終末支援官。
それが、佐伯に与えられた公的な肩書きだ。
安楽死が合法化されて以来、日本には「死」を事務的に管理するシステムが完成した。彼の職務は、執行日が決まった者に通知を届け、最期の瞬間に立ち会うこと。本来、それ以上の感情は不要なはずだった。
九月の強い日差しが、佐伯の白いシャツを容赦なく照らし出す。
住宅街の坂道を上りながら、彼はカバンの中にある「依頼書」を思い出していた。1ヶ月前に役所へ届いたそれは、震えるような筆跡でこう記されていた。
『孫娘の陽菜は、私の病気のことも、この封筒のことも、何も知りません。どうか、私の最期の三週間あなたの名前を貸してください。あの子に、死の影を見せたくないのです』
依頼人・嶋田源三は、余命幾ばくもない末期がんであることを隠し、孫娘の結婚式まで「元気な祖父」を演じきろうとしていた。その舞台を完成させるための共犯者として、あろうことか死神を指名したのだ。
やがて、手入れの行き届いた庭を持つ、古い木造住宅が見えてきた。
佐伯は門の前で立ち止まり、指先でネクタイの結び目を整えた。彼の仕事において、身なりを整えることは儀式に近い。これから、一世一代の「嘘」が始まるのだ。
インターホンを鳴らすと、家の中から弾んだような、明るい声が聞こえてきた。
「はーい! 今、開けます!」
玄関の引き戸が開き、眩しいほどの笑顔を浮かべた若い女性が現れた。
陽菜(ひな)だ。数週間後に唯一の肉親を失うことなど、微塵も想像していない、若々しく澄んだ瞳。
「あ、もしかしておじいちゃんの言ってた親戚の方ですか? 遠くからわざわざ、ありがとうございます!」
屈託のない言葉を向けられ、佐伯はわずかに顎を引いた。鉄面皮のような表情を、ごく自然な、それでいてどこか距離のある「親族の知人」としての微笑へと塗り替える。
「初めまして。佐伯です。源三さんからお聞きしているとは思いますが、しばらくこちらでお世話になります」
その声に、迷いはなかった。死神が、嘘つきに変わった瞬間である。
「さあ、上がってください。おじいちゃん、奥の部屋で待ってますから」
陽菜に促され、佐伯は家の中へと足を踏み入れる。廊下には、陽菜のものだろうか、結婚式の打ち合わせ資料や白いドレスのカタログが、幸せの断片のように置かれていた。
奥の和室の襖を開けると、そこには枯れ木のように痩せ細った老人が、座椅子に深く身を沈めていた。
陽菜が茶を淹れに台所へ向かい、その足音が遠のく。一転して、静寂が部屋を支配した。
佐伯は、先ほどまでの穏やかな微笑みを消し、カバンから「青い封筒」を取り出した。
「……嶋田さん。終焉支援官の佐伯です。通知を持って参りました」
源三は、落ち窪んだ眼窩に鋭い光を宿し、震える手でその青い封筒を愛おしそうになぞった。
「すまんが、佐伯さん。あの子が戻ってくる前に、それを隠してくれんか」
台所から、陽菜の明るい鼻歌が聞こえてくる。
死を知らせる封筒を、佐伯は音を立てずにカバンの奥底へと沈めた。
「……嶋田さん。制度上、我々支援官には、対象者の『最期の願い(ラスト・ウィッシュ)』を一つだけ叶える義務があります。あなたが役所に送ったあの依頼書、本気ですか」
佐伯が低い声で問い詰めると、源三は深く、重く頷いた。
「ああ。あの子の門出を、私の死で汚したくない。……あんたにしか頼めんのだ。死を司るあんたなら、私の命をあと三週間、あの子の前でだけは『生』として繋ぎ止めてくれるだろう?」
「……。わかりました。それがあなたの願いなら、私は職務として、その嘘を全うします」
その瞬間、襖の向こうから陽菜の声がした。
「おじいちゃん、お茶入りましたよー!」
佐伯は一瞬で表情を消し、再び親戚の「航」としての穏やかな顔を作った。
死神が、一人の老人の誇りを守るための共犯者となった瞬間だった。
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