街道の何でも屋 ~面倒ごと片付け帳~

白川

夜明け前の罠

 森の匂いが濃い。切り倒した木の青さと、焚き火の煤と、湿った土――開拓村はいつも、明日の分まで働いてる匂いがする。


 街道を渡る何でも屋の稼ぎ口は、宿場だけじゃない。開拓村の頼み事も、金になる。


 丸太組みの家が十数。枝を編んだ柵の向こうに畑が細く伸び、森の影がすぐそこまで迫っていた。

 地図で見ればただの空白だろうが、ここではその空白で腹を満たせるかどうかが、生死を分ける。

 門らしい門はない。あるのは、見張り台にもならない丸太の段と、擦り切れた地面の踏み跡だけだ。

 そこへ足を踏み入れた瞬間――


「……ギルドの方、ですか?」


 矢が飛んできそうな速さで、声が刺さった。


 切り株の陰から娘が出てくる。年は俺と近い。日に焼けた頬、束ねた髪、手には薪割り用の小斧。目だけが妙に鋭い。獣を追う狩人の目だ。


「違う。俺は何でも屋だ」

「……そっか」


 一瞬だけ、悔しそうに唇を噛んだ。

 次の瞬間には笑ってみせる。だが笑いが薄い。必死の上に貼った膜だ。


「じゃあ、何でも屋さん。今夜、空いてる?」

「空いてるかどうかは用件次第だ。……まず名前」

「ユノ」


 名乗り方が早い。何かあるな。


「急だな。何があった」

「畑。猪に荒らされてて、今夜も来るの」


 “今夜も”……か。そこに迷いは見えない。


「なんでギルドなんだ」

「街に依頼を出したの。……でも返事は“早くて数日”って」


 それでここで張ってたわけか。村に入る旅人を、片っ端から捕まえるつもりで。


「数日待てない理由は?」

「明日、夜明けに測り役が来るの。領主さまの使いよ。朝一で畑を見にくるって、村長が言ってたの」


 ……朝一に畑。

 連中は、まず“嘘がつけない場所”を確認する。荒れた畝は誤魔化せない。

 そこに泥が付いた瞬間、村の首が細くなる。


「今夜、畑がゼロになると終わる」


 ユノは俺の目を見る。終わる、の重さは嘘じゃないな。

 俺は肩を回して息を吐いた。


「報酬は?」

「干し肉と塩と蜂蜜、今夜の寝床。あと……銀一枚」


 薄い……だが、この村での銀一枚はかなり重い。

 ユノはそれを分かっている。だからこそ、俺の反応を一瞬も見逃さない。


「……わかった。だが、受ける前に畑を見せろ」

「見るだけで分かるの?」

「分かるさ。これでも鼻は利くんでね」


 ユノが案内した畑の端は、掘り返され、湿った土塊が転がっている。俺はしゃがみ、指で土を崩した。まだ湿りがある……乾ききってない。

 蹄の跡は二つ一組。足跡は深い――中々の重さだろう。だが、群れじゃない。コイツは単独。


 畝の崩れ方は一直線に掘り返されており、迷いが見えない。食料に困って、根を探している動きじゃない――苛立って土を壊す動きだ。

 少し離れた畑の外れには、木の根元に泥と血が固まった跡。古く黒い滲み。……怪我にしては深い。自然じゃない匂いがした。


 俺は立ち上がって言う。


「……一頭だな。今夜来る確度も高い。入口は森の縁、倒木の隙間だ。そこで待とう」

「じゃあ……!」

「待て。条件がある」


 ユノの顔が引き締まる。ここで“条件”を飲めないと、村が終わる。そういう顔だ。


「まず、俺は夜明け前に出る。測り役には会わない」

「え?」

「会えば話が長くなる。俺は旅の途中だ。村の政治に首は突っ込まない」

「……うん。分かった」


 そこで俺は、もう一つ――依頼の“芯”を確かめる。


「依頼は“畑荒らしを止める”で合ってるな?」

「そう」

「なら、形は俺が決める。畑を全部守るのは正直、難しい。猪が来た時点で多少は荒れる。だが――」


 俺は畑の半分を指差し、次に森を指差した。


「畑を半分守って、猪を一頭確保する。畑がゼロじゃないことと、肉があることを明日見せれば、“村が回ってる”って印象になる」

「畑、半分……でもいいの?」

「理想は全部だ。でも理想で腹は膨れない。要するに、畑と肉で帳尻を合わせるんだ」


 ユノは一瞬、口を開けたまま止まり、それから笑った。悔しそうで、嬉しそうで、どっちも混ざった笑いだ。


「ずるい。……でも、面白いわ。そういうの好き」

「褒めると調子に乗るぞ」

「乗って。今夜は乗って」


 言い方が妙に近い。俺は咳払いで誤魔化した。


「……面倒だけど、悪くない。契約は守る。ただし形は変えさせてもらう」

「うん。お願い」


 ユノが懐を探りかけたのを、俺は手のひらで止めた。


「やめとけ」

「でも……」

「今ここでお前が払うと、次に困った時、“銀以外”で払う羽目になる」

「……え」

「俺は“貸し”を作るのは好きだが、そういう帳尻の付け方は趣味じゃない」


 俺は軽く笑って誤魔化した。


「要するに、俺は安く買われたくないし、お前も自分を安く売るな。支払いは村からだ」

「……分かった」

「いい子だ。じゃあ条件だけ通す」


 村人たちは、村の中央で、明日来る測り役を出迎える準備でそわそわしていた。

 真ん中で声を張っている男がいる。短い指示で人が動く……村長だろう。


「村長。今夜の畑の件、俺が請けた」

「……よそ者か。金で動くなら動け。畑を守れ」


 端的で助かる。俺も端的に返す――が、声の届く先を少し広げた。


「畑は守る。だが全部は無理かもしれん。猪は“来る”。だから被害は半分で止める」

「は?」


 村長の眉が跳ねる。周りの若い衆もざわついた。

 俺は村長だけじゃなく、焚き火の輪の外側にも視線を投げる。


「勘違いすんな。半分“捨てる”んじゃない。半分“残す”んだ。残った分は、明日の種になる」


 ざわつきが少しだけ沈む。腹と畑は同じくらい現実だ。


「もう一つ。――猪を一頭、確保して肉を出す。塩で擦って吊るす。今夜のうちに段取りまで作る」


 村長の目が、畑じゃなく——干し台の数を先に拾った。

 どよめきが一段、低くなる。腹が動く音だ。

 焚き火の外で、女衆が干し縄と桶を抱えたまま足を止める。


「肉が出るなら……塩、足りるかい」

「畑が半分でも、ゼロじゃなきゃ――種は残るわ」


 小声が連なって、村長の背中に刺さる。

 村長の喉が、ひとつ鳴った。


「……要するに、朝一で来る測り役には、畑を直してる最中を見せろ。そして横に肉を並べて村が“回ってる”のを示せ」

「勝手に決めるな……くそ」

「契約は“畑荒らしを止める”だ。やり方まで村の顔色で決めたら、朝には畑がゼロだな」


 村長が噛みつきたい顔をする。

 俺はそこで、村長の面子を折らないように一枚だけ残す。


「手柄は村でいい。俺は夜明け前に出る。――だが今夜だけは、俺の段取りに乗れ。得になる」


 周りの目が揺れる。今夜失敗すれば全員が困る。そうなれば罰は村長だけじゃなく、こいつらにも降りかかる。

 村長は一拍置いて、吐き捨てるように言った。


「……好きにしろ」


 ぐぬぬと声にならない悔しさが聞こえた気がした。

 俺は肩をすくめる。


「じゃあ契約成立だ。……銀は?」

「……は?」

「金で動くって言ったのはそっちだろ。動かすなら、まず値札を付けろ」


 村長の眉が吊り上がる。周りの若い衆が息を止めた。

 ユノが一歩、何か言いかける――が、俺は目だけで止めた。


「村の仕事は村が払う。個人の懐から出させたら、後で歪むぞ」

「よそ者が――説教する気か」

「説教じゃない。……俺は、安く買われるのが嫌いでね」


 村長は舌打ちして懐を探り、銀貨を一枚つまんで投げるように寄越した。

 俺は掌で受け、弾いて音を確かめる。


「安心しろ。成果は出すさ」


 銀貨を袋に落として、俺は続けた。


「最後に。俺は夜明け前に出るから、測り役には会わない。証文も書かない」

「証文?」

「村の都合に俺を合わせたいなら別料金。この金は畑の分だけだ」


 村長の目が細くなる。命令で人を動かす顔だ。

 ――そういう顔をすると、ろくなことにならないぞ。


「嫌なら契約は切っていい。だが今夜……猪は来る。畑がゼロになる方が、村にとっては痛いはずだが?」

「……やれ」


 言い方だけは“命令”だ。

 俺はそれを受け取らず、焚き火の輪へ視線を流した。


「枝を運んで杭を打つぞ。松明を持て」


 男衆が身構える。誰かが喉を鳴らした。


「安心しろ。猪に殴りかかれとは言わねえ。――やるのは“道を作る”だけだ」

「……道?」

「道以外を塞ぐ。そしたら猪は勝手に通れる道を選ぶ。お前らは端で立って見てろ。逃げ道を潰す係だ」


 男衆の肩から、力が抜ける。

 命がけじゃない。手は貸すが、前に出なくていい。そう分かった顔だ。


 村長が咳払いをして、言い方だけ命令に戻す。


「……聞いたな。動け」


 俺はユノに小さく合図した。


「杭と縄、それと――枝。太いのを多めに。先は尖らせなくていい、斜めに立てられりゃ十分だ」

「分かったわ」


 俺は倒木の隙間――猪の入口を見に行き、土を踏んで硬さを確かめた。逃げ道の方向も見る。畑の柵はあてにしない。


 戻って、畑の外れに杭を打ち、縄を張り、鈴代わりに貝殻を吊るす。

 それだけじゃ足りない。――“道”を作るには、道以外を潰す。


 男衆に枝を運ばせ、逆茂木みたいに斜めに組んで立てた。森側から畑へ向かう線を二つ三つ、わざと塞いでいく。

 猪は嫌なものを避ける。避けた先に残る一本――そこだけを通り道にする。


 要するに、追い込み漁だ。


 


 森の縁は真っ黒で、焚き火と柵だけが村の世界を守っている。

 松明の火が揺れる中、男衆は言われた通り、通り道の端に立った。槍を握る手もあるが、切っ先は上げない。立って、息を殺して、逃げ道を消すだけ。


「剣、抜かないの?」とユノが言う。

「最初から血を約束するのは趣味じゃない。……来たら殴る」


 ユノは暗がりを見つめたまま、息を殺した。

 貝殻が鳴ったのは、そのすぐ後だった。


 闇から現れたのは猪。肩が岩みたいに盛り上がり、泥がこびりついて毛並みが黒く光る。牙は太く、月明かりを噛む。

 猪は逆茂木の壁に鼻面を向け、嫌そうに首を振る。――そして、残った一本の道へ体を滑らせた。


「……おいおい。相手するには重すぎるだろ」


 俺は縄をたぐり、足元へ滑らせる。猪が踏み外し、体勢が崩れた瞬間――槍の石突で肩を殴る。鈍い衝撃が通る。

 猪が怒り、突進してくる。速い。


「ユノ、下がれ!」

「うん!」


 柵を上手く使い猪を畑の外へ誘導する。畑を全部守るより、被害を半分で止める方が現実的だ。猪を外へ出せば、畝の生き残りが増える。


 突進の瞬間、俺は剣を抜いた。刃を低く、足元へ。狙うのは腱。

 刃が走り、肉の感触。猪が悲鳴を上げ、方向を失って木にぶつかった。よろけたところへ、俺は一気に距離を詰める。


 猪の肩が、ふっと沈む。

 次の瞬間、残った脚で――最後の突進を捻じ込んできた。


 首――喉の横。躱しざまに、短く、深く。

 猪は一度だけ大きく息を吐くと、力なく崩れ落ちる。

 森に静けさが戻る。


 血の匂いが立った瞬間、焚き火の外で女衆が動く。

 「塩! 縄! 干し台は風上!」

 指示が飛び、男の手が追いつく。これで明日の“現物”が作れる。


 俺は息を整えながら、猪の腹を見た。

 そこには古い傷があった。鉄の棘が食い込んだ跡……自然の傷じゃない。


 ユノが近づいてくる。目が揺れている。恐怖だけじゃない。罪悪感が混ざってる揺れだ。


「……すごい」

「褒めるな、調子に乗る」

「これで村が助かるわ……」


 俺は剣を拭きながら、ユノに視線を戻した。


「ユノ。これ、罠の傷だ」

「……」


 沈黙が答えだった。


「誰が仕掛けた」

「私じゃない。……でも、村の冬は厳しい。肉が欲しい、畑だけじゃ足りないって……」

「で、罠は失敗して取り逃がす。怒った猪が“村の中”に降りてきた」

「……うん」


 依頼主が嘘をついていた。

 猪が悪いだけじゃない。村が森に手を突っ込んで、しっぺ返しを食らってる。


 俺は一息ついて、口に出しかけた言葉を飲み込む。

 ここで正しさを振り回しても、畑は戻らない。今は“明日の形”が先だ。


「案内しろ。罠は潰す……」

「測り役に見つかったら、終わる」

 ユノの声が掠れた。

「え……?」

「“狩りの罠でした”なんて言い訳は通らねえよ」

「通ったとしても次は『許可は? 取り分は? 責任者は?』だ。連中は畑より先に首を数えるだろうな」


 ユノの肩が小さく揺れた。怖いのは猪じゃない。役人だ。


「要するに、罠が“ある”だけで負け札だ。今夜のうちに消す。――安心しろ。村を敵に回すほど、俺は愚かじゃない」

 ユノが頷いた。


 案内されたのは森の境目、黒い石が三つ並んだところに落とし穴があった。枝と土で隠した雑な穴――底には鉄の棘。

 こんなのが見つかれば、村は“危ない土地”になる。測り役は笑わない。


 俺は縄で覆いを引き剥がし、棘を抜いてまとめた。

 穴は埋め戻す……余計な血を呼ばないための仕事だ。


「何をしてる!」


 怒鳴り声。松明の列が揺れ、村長が前に出た。

 後ろに若い衆。命令されて来た目をしている。


「勝手に触るな。村の管理地だ。――それに、猪はどうした?」

「仕留めた。畑の外れに置いてある」

「なら、その棘を返せ。罠は村のものだ」


 俺は袋の口を開けたまま、棘の束を村長に向けて振らなかった。

 代わりに――わざと足元の土に、一本だけ落とす。


 鉄が鳴って、棘が泥に突き立った。

 松明の火が照らす。先端は欠けていて、赤黒いものが薄く残っている。


「……っ」


 近くにいた男衆が反射で一歩引いた。

 だが、その顔にあるのは「罠が怖い」じゃない。――違う。


「……そんな深く刺さってたのか」

「森で獲る分には、ここまでにならねえはずだろ……」


 誰かが小さく呟く。別の誰かが続けた。


「罠は“森の中”で使うもんだ。村の外れに寄せた覚えはねえぞ」

「……寄ってきたんだ。怒って」


 空気が変わる。

 罠の危険を知らなかったわけじゃない。知っていた。だから森で使う。

 ――“村の中に危険が入り込んだ”のが想定外だった。


 村長の喉が動く。言い返す言葉が見つからない顔だ。

 一拍、遅れて口が開いた。


「……黙れ」


 押さえつける声なのに、いつもより低くない。余裕が削れている。

 俺は棘を靴先で転がし、先端がよく見える向きにした。


「要するに、道具が悪いんじゃない。使い方と場所が悪い。しかも失敗して、相手を怒らせちまった」

「次は猪じゃなく人が刺さるかもな。子どもか、夜の見回りか……」

「脅す気か!」

「脅してない。見える通りの話だ」


 村長が一歩踏み出す。だが、後ろの男衆の足はついてこない。


「……返せ。罠は村の――」

「返したらまた仕掛けるだろ? 次は畑じゃ済まねえ。……ツケは早めに払っとくんだな」


 俺は袋を閉じた。棘は戻さない。

 村長の喉が鳴る。周りの視線が、村長の背中に刺さり始める。


「黙れ。明日の“口”は村で揃える! ――証文を書け。『猪は村の罠で仕留めた』とな。お前は余計なことを言うな」


 来た。助かった瞬間に手のひらを返しに来る。そういう男だ。


「へぇ。それで? 俺の首に縄でも巻くかい」

「村のためだ」

「村のため、ね。……なるほど」


 俺は息を吐いた。ここで村長を折っても、測り役が来るのは変わらない。

 欲しいのは勝利じゃない。“明日の形”だ。


「最初に言った通りだ。証文は書かない」

「――なに?」

「荒れた畑は隠すな。隠すから匂う。直してる最中と、肉の段取りを見せろ。それで十分だ」

「お前が決めるな」

「決める。俺は契約の芯を守る。形は変える」


 村長の奥歯が鳴るのが見えた。

 若い衆の視線はもう泳いでない。“棘”を見た後だ。村長の言い分に戻れない。


「……好きにしろ。だが村の面子を潰したら――」

「潰さないさ。俺は夜明け前に出る。後は村で回すんだな」


 夜明け前まで、村は動いた。

 荒れた畝を起こし直し、残った芋を拾い、猪を解体して肉を塩で擦り、干す準備をした。

 畑は半分しか戻らない。それでも“ゼロ”じゃない。猪一頭の肉は、冬の話に現実味を与える。


 その間、村人の目は冷たかった。

 

 「よそ者が偉そうに口を出した」

 「村長に楯突いた」


 噂は便利だ。責任を薄める。俺を悪者にすれば、村の中はまとまる。

 ――誤解は残るがそれでいい……俺はここに根を張らない。関与はここまでだ。


 作業が一段落した頃、ユノが俺の袖を引いた。


「……ごめん。最初、嘘ついた」

「嘘は高い」

「分かってる。でもね……」


 ユノは言葉を探すみたいに息を吸って、吐いた。

 目が潤んで、焚き火の揺れがそのまま瞳の中で跳ねる。頬は熱に当てられたみたいに薄く紅い。


「外から……強い人が村に入ると、村は少しだけ息ができる。そう思ったの」


「俺を“使う”つもりだった?」

 ユノは一瞬だけ目を伏せて、それから逃げずに戻してきた。


「最初は、そう。……でも、途中から違う」


 言い淀んだまま、ユノの指が俺の袖を離さない。

 その小さな強さが、嘘じゃない。


「……何が違う」

「村にはない空気がある。軽くて、ずるくて……でも、ちゃんと芯があるの。……好きよ」


 真っ直ぐで、ずるい。

 俺は笑って、指先でユノの顎に触れた。持ち上げるほど強くはしない。逃げるなら逃げられる力だ。


「やめとくなら、今だぞ」


 冗談みたいに言って、目だけは冗談にしなかった。

 ユノは答えの代わりに、一歩だけ近づいた。潤んだ目が、揺れずにそこにある。

 俺は息を吐いて、その距離を受け取った。



 小屋の中の火は落ち、外の霧が窓の隙間から薄く入り込む。

 ユノの髪がほどけて肩に落ちると、俺は服の紐を整えながら息を吐いた。


「後悔するなよ」

「しない。……それに、強い血って、村には足りないの」

「露骨だな」

「生きるためだもん」


 ユノは悪びれずに笑い、指先で俺の傷口の布をほどき直した。

 俺はその手首を軽く掴んで、額に口づける。


「俺は“種”じゃなくて“人”だ」

「分かってる。だから、今はここにいて……」


 返事の代わりに、俺はユノを抱き寄せた。

 火の残り香と、汗と、土の匂い。村の明日を背負った匂いが、今だけ少し柔らかくなる。


 


 ――夜明け前。

 俺は剣帯を締め、袋を肩にかける。外では村が動き始めている。肉を吊るす準備、畑の見せ方、測り役を迎える段取り。


 ユノが戸口まで来た。髪を束ね直し、目だけが少し眠そうだ。


「……行くの?」

「ああ。約束だ。夜明け前に出る」

「村の人、あなたのこと悪く言うよ」

「言わせとけ。噂は腹を満たさない」


 ユノは笑って、俺の手に小さな紐飾りを押し込んだ。木の実と乾いた草の匂いがする。


「これ、持ってって。村全体は信じない……でも――私は信じる」

 俺は受け取って、肩をすくめた。


「へぇ。重いもん渡すな」

「重くない。軽いよ、木の実だもん」

「意味の方が、だ」


 ユノが、堪えきれないみたいに笑う。


「じゃあ、持ってって。……忘れないで」

「忘れるほど器用じゃねえよ。――でも約束はしねえ」


 俺は紐飾りを握り込み、ユノの額に軽く触れた。


「会えなきゃ、それも俺の運だ。……また会えたら、その時に決めりゃいい」


 村の外れに出ると、背中に視線が刺さった。

 誤解は残る。俺の名前は、たぶん村で良い形では残らない。


 それでも掌の中の紐飾りは熱い。

 俺は霧の中へ歩き出した。

 森の縁で、鳥が一声鳴いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る