存在しない教団の記録
ざまぁ全力マン
プロローグ:十回目の面会
十回目の面会だった。回数を数えているのは、たぶん俺だけだ。父は初回と同じ位置に同じ姿勢で座っている。背筋の角度、手の組み方、視線の高さ。老けているはずなのに、変化がない。いや変化があっても、記憶に引っかからない。アクリル板越しに、空調の低い唸りが続いている。
「……いい加減に、本当のことを話してくれ」
言い終わる前から、声が揺れた。怒りなのか、不安なのか、自分でも分からない。喉の奥が乾いて、唾を飲み込む音だけがやけに大きい。「なんで俺以外、みんな忘れてるんだ。あの教団のことを。ニュースにもなって、連日報道されてた。社会問題だったはずだ」
父は、ほんの少し眉を寄せた。困った、という表情。だがそれは感情というより、用意された表情に見えた。「何度も言ってるだろ」声の高さも、間も一定だ。「俺は、そんな教団は知らない」その言い方が、妙に整いすぎている。考えて答えているんじゃない。決まった台詞を再生している。
「……父さんは、テレビディレクターだった」俺は、視線を逸らさずに言った。「あの教団を取材してた。内部に入り込んで、信者にも幹部にもインタビューしてただろ」父の表情が、一瞬だけ止まる。瞬きが遅れる。だが次の瞬間には、何事もなかったように戻った。「それは、寿招(かずあき)の勘違いだ」「嘘つけ!」
思わず、声が跳ねる。看守がわずかにこちらを見る。「部屋にこもってよく徹夜してただろ。編集用のモニターつけっぱなしで、教団の映像を何度も見返してた。『これは危ない』って、俺に言ったじゃないか」父は、ゆっくりと首を横に振った。「記憶違いだ」父は忘れているんじゃない。忘れている“ふり”をしている。
「父さんは、ある時から突然変わった」俺は、息を整えずに続けた。「最初は批判的だった。なのに途中から、『彼らは人を救っている』『理解されていないだけだ』って、同じ言葉を繰り返すようになった」父の目が、わずかに伏せられる。指先が、机の縁をなぞる。
「……洗脳されたんだろ」俺は、言葉を選ばなかった。「それとも、まだ洗脳されてるって言った方がいいか?」沈黙。空調の音だけが、間を埋める。「だから俺は思ってる」胸の奥が、じわじわと熱くなる。「信じたくないけど、あり得ないけど……父さんを含めた教団が、みんなの記憶をいじったんじゃないかって」俺は、アクリル板に手を置いた。ひんやりとした感触が、掌に伝わる。
「教えてくれ。どうして誰一人として、教団の存在を覚えてないんだ」父は答えなかった。面会室の時計が、一秒ずつやけに大きな音を立てる。金属の椅子がきしみ、ガラス越しに立つ看守が、ちらりとこちらを見た。それほど長い沈黙だった。
俺は、ずっと避けてきた。あの日のことを。一九九五年三月二十日。朝の空気の冷たさだけが、今でも異様なほどはっきりしている。肺に吸い込んだ瞬間、胸の奥がきゅっと縮む、あの感じ。「……あの日」十回目の面会で、俺は初めてその言葉を口にした。喉がひっかかる。「なんで俺だけを連れて、神奈川に行った?」
父の指が、わずかに動いた。それだけだった。だが俺には十分だった。これは、触れてはいけないところだ。父は今も、何かを隠している。「母さんも、由紀も置いて……あれは、何だったんだよ」父はまた黙った。沈黙が重なり、空気が粘つく。まるでこの部屋だけ、換気が止まったみたいだった。
「子供の頃の記憶というものは、曖昧なものだ」ようやく出てきた父の声は、驚くほど静かだった。「もうそれは聞き飽きた」俺は身を乗り出す。ガラスに額が近づき、自分の顔がうっすら映る。
「もっと分からないのは、その後だ。神奈川の、あの部屋で――父さん、祈ってただろ」畳の匂い。カーテンを閉め切った薄暗い部屋。父は床に座り、背筋を伸ばして、何かを唱えていた。意味の分からない言葉を、一定のリズムで。「俺はそれを見ながら、ソファで寝てて……」そこから先が、ない。ぶつりと切り取られたみたいに、記憶が途切れている。「目が覚めた時、俺は東京の家にいた」唾を飲み込む音が、自分でも分かるほど大きく響いた。
「いつもの朝で、母さんは朝飯を作ってた。味噌汁の匂いも、フライパンの音も、全部いつも通りだった」俺は父を見る。「母さんも由紀も、俺がいなくなった話をしなかった。俺が神奈川に行ったこと自体、最初からなかったみたいに」
父は、ゆっくりと目を閉じた。逃げるようにも、耐えるようにも見えた。「それで……」俺は言葉を続ける。「父さんは、死刑囚としてテレビに映ってた。ニュースで名前を呼ばれてた」喉がひりつく。「でも、殺人を起こすよりずっと前に、テレビ局をやめてただろ」テレビ局とはもう関係ないはずの人間が、画面の向こうで事件の中心として扱われていた。わざわざテレビ局に忍び込んで殺人を犯したとは思えない。
面会室の時計が、また一つ秒を刻んだ。父は、まだ何も答えない。だがその沈黙だけが、はっきりと告げていた。あの日は、存在していた。消されたのは、記憶じゃない。「語られること」そのものだったのだ、と。
やがて父は、ようやく静かに口を開いた。「……お前の部屋に、黒いケースに入ったビデオテープがあるだろう」その一言で、呼吸が止まった。胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。ようやく核心に触れたのが分かったからだ。「押し入れの奥だ」
――ある。確かにある。今は使っていない布団のさらに奥、手を伸ばせば触れられる場所に。なのに、なぜか今まで一度も開けなかった。理由は分からない。ただ無意識に、触れてはいけない気がしていた。
「それを見ればいい」父の声は淡々としていた。感情を削ぎ落としたような、事務的な言い方。「内容は?」思わず食い下がると、父はゆっくりと首を振った。「それ以上は言えない」「父さん――」俺が名を呼ぶより早く、父は言葉を重ねた。「お前の疑問は、全部そこにある」その声には、迷いがなかった。今この瞬間に思いついた言葉じゃない。何年も前から、用意されていたかのような答えだった。
「じゃあ、どうして……今まで黙ってた」父は少しだけ目を伏せた。睫毛の影が、深く落ちる。「まだ、その時ではなかったからだ」意味が分からない。問い返そうとした俺を制するように、父は続けた。「見なくても構わない」低い声が、面会室に沈む。「見てしまったら……後悔するだろう」
その言い方が、妙に気持ち悪くて、背中に冷たいものが走った。「それでもいい」俺は言った。自分でも驚くほど、声は揺れていなかった。「ビデオを見れば、全部わかるんだな」即答だった。父は、初めて真正面から俺を見た。ガラス越しでもはっきり分かる、逃げない視線。「……ああ」短く、それだけ。
その瞬間、看守が一歩前に出て、時間切れを告げた。父が椅子から立ち上がる。看守に連れて行かれる直前、父はもう一度だけ振り返った。「再生するなら、一人で見ろ」声が、わずかに低くなる。「途中で止めるな。そして」重い扉が閉まり始める。最後の隙間に、父の声が滑り込んできた。「見終わったあと、また会いに来てくれ」一瞬の間。
「――お待ちしています」
扉が完全に閉じた。残された面会室で、俺だけが立ち尽くしていた。頭の中には、押し入れの奥の黒いケースの感触だけが、異様なほど鮮明に浮かんでいた。
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