煩悩幾何学
LucaVerce
第1話 ボルノイ図の応用と古皮質領域の優勢
Ⅰ. 観測の開始と初期定義
座標軸を定義する。
事象の地平線は、東京都内某所のワンルームマンション、その中心に位置するセミダブルベッドの上。
目の前に無防備に横たわる被験体(以下、ヒロインと呼称)の「へそ」を、本空間における原点O(0, 0, 0)と設定する。
現在時刻、午前2時14分。
室温24.5度。
湿度はやや高い。
私の脳内CPUは、アルコールの摂取により定格クロック数の80%程度まで低下しているが、目の前の光景を解析するには十分な余力を残していた。
視界を占有するのは、圧倒的な「曲線」の暴力である。
まず特筆すべきは、先ほどから私の視線をとらえて離さない2つの特異点、P_L(左乳首)およびP_R(右乳首)の挙動だ。
彼女は深いレム睡眠の最中にある。
その呼吸に伴い、P_LとP_RはZ軸方向(鉛直方向)へ、極めて美しいサイン波を描いて上下動を繰り返していた。
z(t) = A sin(ωt + φ)
振幅Aは目測でおよそ12mm。
周期Tは約3.5秒。
この穏やかな単振動こそが、生命活動という名のエネルギー変換プロセスが正常に稼働している証左であり、同時に私の大脳辺縁系におけるドーパミン分泌量Dと、正の相関関係にあることは疑いようがない。
私は、自身の右手を空間上にホバリングさせた。
目標座標は、特異点P_L近傍。
しかし、接触してはならない。
観測者が系に干渉した瞬間、シュレーディンガーの猫のごとく、彼女の状態(「寝ている」か「起きてビンタしてくる」か)が収束してしまうからだ。
私はあくまで「観測者」として、この奇跡的な幾何学構造を解明せねばならない。
Ⅱ. ボロノイ領域としての「谷間」
視線をスライドさせる。
本日の主要命題である「谷間」についての考察に移る。
一般言語において「谷間」と形容されるその領域は、幾何学的には
「P_LとP_Rを母点とするボロノイ図の境界線」
に他ならない。
ボロノイ図とは、平面上のどの点に近いかによって領域を分割する図形のことである。
すなわち、あの谷間のライン上にある任意の点pにおいては、左乳首への距離と右乳首への距離が等しくなる。
dist(p, P_L) = dist(p, P_R)
これは何を意味するか。
あの深く、薄暗い影を落とす谷底は、左右の勢力が拮抗し、互いの重力ポテンシャルが釣り合っている
「力の空白地帯」
なのである。
だからこそ、男たちはそこに惹かれる。
左右の膨らみという「質量」に挟まれたその特異点に、指を滑り込ませたいという衝動は、エロスというよりは、真空崩壊を埋めようとする物理的な必然性に近い。
さらに興味深いのは、その形状だ。
鎖骨の中央から谷間を経て、原点O(へそ)へと至るライン。
これは単なる直線ではない。
重力の影響を受けてたわんだ乳房の質量が形成する、
カテナリー曲線
の変種だ。
y = a cosh(x/a)
美しい……。
ガウディの建築物がカテナリーアーチを採用したように、彼女の身体もまた、自然界で最も安定し、かつ官能的な曲線を選択している。
これは進化論的な最適解だ。
「……んぅ……」
突如、ノイズが発生した。
被験体が寝返りを打ったのだ。
Ⅲ. カオス理論と初期値鋭敏性
系が激変する。
仰向けだった彼女が、私のほうを向く形で横向きになった。
これに伴い、重力ベクトルgの作用方向が変化。
乳房という流体的な質量は、Y軸マイナス方向へと垂れ下がり、先ほどまでの対称性は崩壊した。
しかし、これは「劣化」ではない。
「相転移」だ。
横向きになったことで、上になった左胸(P_Lを含む曲面)は重力に抗うような孤高の放物線を描き、下になった右胸(P_Rを含む曲面)はマットレスとの接触圧によって扁平に変形している。
この非対称性(アシンメトリー)。
完全な球体が存在しない現実世界において、この「歪み」こそがリアリティという名のスパイスだ。
さらに深刻な事態が発生した。
掛布団がはだけ、彼女の下半身が露わになったのだ。
ショートパンツから伸びる大腿部。
ここにもまた、神の数式が隠されていた。
太ももの付け根から膝にかけてのライン。
そして膝から足首へのライン。
この比率が、およそ
1 : 1.618
――すなわち
黄金比(φ)
に近似している。
私は戦慄した。
彼女は、ただの酒癖の悪い事務職のOLではない。
フィボナッチ数列、カテナリー曲線、ボロノイ分割……
あらゆる数学的真理をその肉体に宿した、歩く教科書だったのだ。
その時、教科書のまぶたが震え、ゆっくりと開かれた。
「……なにしてんの? ……タカシ」
観測終了。
量子状態の収束。
「寝ている」状態から「覚醒」状態への遷移が完了した。
「……現在、君の体表面における幾何学的特性と、重力による変形挙動についての相関関係を解析していた」
私は正直に報告した。
嘘は変数を増やすだけだ。
彼女は眠そうな目をこすりながら、呆れたように笑う。
「また? ……キモい」
定義されていない入力値だ。
通常、「キモい」は拒絶のシグナルだが、彼女の声色に含まれる周波数成分(トーン)と、口元の曲率(笑み)は、受容を示している。
言語情報と非言語情報の矛盾。
これが「女」という解析不能なブラックボックスだ。
「こっち来て」
彼女が腕を伸ばした。
私の首にその腕が巻き付く。
力学的拘束。
逃走不可。
彼女が私を引き寄せる力Fはそれほど大きくないが、私自身の内部で発生した引力――あるいは本能的欲求ベクトル――が、その移動を加速させた。
Ⅳ. 接触と摩擦係数
接触。
私の唇と、彼女の唇が重なる。
その瞬間、視覚情報優位だった処理プロセスが、触覚情報優位へと切り替わる。
柔らかい。
ヤング率が極めて低い。
そして温かい。
熱力学第二法則に従い、彼女の体温が私へと伝導していく。
エントロピーが増大する。
「……ん」
彼女の手が、私の背中を這う。
その摩擦係数μは、汗によってわずかに上昇しており、滑らかさと抵抗の絶妙なバランスを保っている。
これはいけない。
論理的思考回路の温度が急上昇している。
思考の抽象度が下がり、具体的かつ動物的な衝動が支配権を握り始めた。
彼女はショートパンツの縁に手をかけ、それを排除しようとしている。
境界面の消失。
もはや、観測者と被験体という二項対立は成立しない。
私と彼女は、一つの閉じた系へと統合されようとしている。
私は最後理性を振り絞り、目の前の現象を定義しようと試みた。
これから行われる行為は、単なる生殖行動の模倣ではない。
互いの身体という複雑な形状をした多次元多様体が、位相幾何学(トポロジー)的な変形を繰り返しながら、互いの空隙を埋め合う最適化問題の解法だ。
挿入。
それは、二つの集合A(私)とB(彼女)における積集合
A ∩ B
の生成。
「……っ、ん……」
彼女の声が、断続的なパルスとして鼓膜を打つ。
その振動数が徐々に上がっていく。
ピストン運動の周期Tが短縮され、速度vが上昇する。
それに同期して、ベッドのスプリングが固有振動数を迎え、共鳴(レゾナンス)を始めた。
ギシ、ギシ、アン、アン。
機械的な音と、生々しい声のポリリズム。
私は計算する。
最適な角度θは?
彼女の反応値Rを最大化するための、深度dと圧力Pの関数は?
微分しろ。
この快楽曲線の接線の傾きを求めろ。
極大値を見つけ出せ。
しかし、計算が追いつかない。
変数が多すぎる。
彼女の爪が背中に食い込む痛み。
耳元で囁かれる意味不明な単語。
シャンプーの香り。
汗の味。
締め付ける力。
オーバーフロー。
メモリ不足。
論理が溶ける。
1+1が2であるという公理すら怪しくなってくる。
あぁ、わかるのは一つだけだ。
今、我々は発散している。
無限大(∞)へと向かって、加速している。
Ⅴ. 証明終了(Q.E.D.)
ビッグバンの後。
宇宙は急速に冷却され、静寂が戻ってきた。
私は荒い息を吐きながら、天井のシミを見つめていた。
賢者タイム――すなわち、再起動後のシステムチェックおよびメモリ解放フェーズである。
隣では、彼女が満足げな寝息を立てて再びレム睡眠へと落ちていこうとしている。
その肢体は、事後特有の弛緩により、先ほどとはまた異なる関数曲線を描いている。
私は考える。
結局のところ、先ほどの現象を数学的に記述することは可能だったのか?
答えは「否」である。
数学は、世界を記述するための言語だが、世界そのものではない。
特に「感情」や「快楽」といったパラメータは、虚数(i)のようなものだ。
二乗して初めてマイナスとして現れるように、二人が交わって初めて現実世界に影響を及ぼす、実体のない概念。
私はそっと、彼女の肩に触れた。
滑らかな肌触り。
そこには、ボロノイ図も、カテナリー曲線も、黄金比もない。
ただ、愛おしい「彼女」がいるだけだ。
いや、待てよ。
彼女の首筋に残った赤いキスマーク。
あの形状は、不完全な楕円形をしている。
楕円の定義は、2つの焦点からの距離の和が一定である点の軌跡だ。
ということは、あのキスマークの面積Sを求めるには、長径と短径を測定し、円周率πを掛ければ……。
「……うるさい、心の声が漏れてる」
彼女が閉じた目のまま、私の口を手で塞いだ。
物理的な遮断。
「寝ろ。計算機」
私は苦笑する。
どうやら、この難解な方程式(ヒロイン)を解くには、まだ数百年分の計算リソースが必要なようだ。
私は思考をシャットダウンするコマンドを入力した。
原点O(0, 0, 0)へと回帰するように、私は彼女の胸の谷間――あの安らぎの鞍点へと顔を埋め、意識を手放した。
(証明終了)
煩悩幾何学 LucaVerce @LucaVerce
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