龍戦記

Rere

第1話

「ねえ、ベリック、待ってよー!」

晴天の下、二人の少年が颯爽と駆け抜ける。

「やだねー。リッタの家、先に行っちゃうぞ」

ベリックとリッタ、そしてクレス。村で唯一の同い年である三人は、毎日のようにこうして走り回っていた。


「おい、クレス! 朝だぞー!」

父のよく通る声と鳥のさえずりに、意識が現実へと引き戻される。

 ――なんだ、夢か。

懐かしい夢だったな……。

 まだ寝ぼけた頭の奥で、クレスはぼんやりと反芻する。

「分かった。今起きる」

この家で毎朝繰り返される、変哲もないやり取りだ。

「俺は今から祭壇に行ってくるからな」

階段を降りてきたクレスに背を向け、父ジャックが上着を羽織る。その背中はいつもと変わらず大きく、頼もしい。

「うん」

クレスは椅子に腰を下ろし、こんがりと焼けたエッグトーストをかじりながら返事をした。

香ばしい匂いと温かさが口いっぱいに広がる。

 今日もまた、何気ない日常が始まる。

そう信じて、疑わなかった。

「……あれ?」

ふと、視界がぐらりと揺れた。 眠っていたのか?いや、ここはダイニングだ。どうやら二度寝をしてしまっていたらしい。 壁の時計を見ると、あれからすでに二時間ほどが経過していた。

 ――だらけすぎだろ、僕。

「……おかしい」

椅子に座ったまま、クレスはこめかみを指で弾く。 二度寝にしては、意識の削げ落ち方が不自然だった。

 ――そのとき、鼻腔を突いたのは卵の焼ける匂いではない。鼻の奥がツンとするような、生臭い焦燥の匂いだった。

「きゃあああああ!」

クレスは椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、扉へ一直線に走る。

 目に飛び込んできた情景に、クレスはただ息を呑んだ。平和だったはずの村は、無残な瓦礫の山へと変わり果てている。 ゴウゴウと音を立てて燃え盛る紅蓮の炎。空を覆い尽くす黒煙。そして、そこかしこを跋扈する異形の群れ。 それなのに、人の姿は一人も見当たらない。 次の瞬間、目の前の家が轟音とともに崩れ落ちた。その倒壊した家屋の中から、馬のような角を生やした魔物がぬらりと姿を現す。

 目が合った――そう思った瞬間、全身が強張った。

「クレス!」

聞き慣れた、しかし切迫した声。

視線を走らせると、倒壊した建材用の丸太の下敷きになっているリッタの姿があった。

「リッタ! 大丈夫か?」

駆け寄り、必死に丸太を持ち上げる。煙が喉を焼き、強烈な焦燥が思考を鈍らせる中、クレスは歯を食いしばった。

「うん……なんとか……」

リッタの弱々しい返事に応え、クレスは渾身の力で木を退け、彼女の身体を引きずり出す。

「なんで……こんなことに……」

状況を飲み込めないまま、クレスは立ち尽くした。

 リッタは唇を強く結び、顔についた煤を払うようにして低い声で言う。

「クレス、逃げるわよ!」

「え?」

「待って! 他の村人は? さっきも悲鳴が――」

「そんなこと言ったって、この炎と魔物よ。今戻っても、死にに行くようなものだわ」

リッタの言葉は正しかった。だが、村のみんなを見捨てることへの罪悪感が、杭のように胸に突き刺さる。その迷いを断ち切るように、豚の顔をした三メートルほどの巨躯が鼻息荒く近づいてきた。

「……っ! 私だって助けられるなら助けたい。でも、どう考えても無理よ。このままだと気づかれる」

リッタの瞳にあったのは、恐怖ではなく、強い悔しさだった。その目を見て、クレスは唇を噛みしめ、頷く。

「分かった。逃げよう……でも、必ず助けに戻ろう」

 それは、リッタへ、そして自分自身への誓いだった。

「ええ」

もちろんだと言わんばかりに、リッタも強く肯定する。

 ――ごめんよ、ベリック。村のみんな。

 必ず、平和な日常を取り戻すから。


 足を痛めたリッタを背負い、クレスは山を駆け下りた。

背中に伝わる重みが、やけに現実的だった。肩に食い込むロープ。汗で貼りつく服。その重みは、皮膚と神経に鉛の杭のように突き刺さる罪悪感だった。それでも、背中から伝わるリッタの微かな体温だけが、クレスを現実に繋ぎとめていた。

 ――この重みだけは、二度と手放さない。

彼はそう、固く唇を噛みしめた。

 不思議なことに、山には魔物の姿が一匹もなかった。 ただ一羽の白いオウムを除いては。

「ねえ、あのオウム……私たちを先導してない?」

リッタの問いに、クレスは息を荒げながら頷く。

 ――足を止めたら、すべてに呑み込まれる気がした。

体力は限界に近い。肺が焼けるように痛み、視界の端が白く点滅する。そのとき、背中に回されたリッタの細い手が、クレスの右肩を強く握った。

「ごめん、クレス……頑張って」

その感触が、なぜか激しい熱を伴って皮膚を焼くように感じられた。 息苦しさに耐えながら、白い翼に導かれるように二人は道なき山道を進む。

 ようやく平原へ下りるころには、オウムの姿はいつの間にか消えていた。

「あそこの小屋で休憩しましょう」

指差した先には、狩人が使っていた小さな小屋があった。今は使われていないのか、ひっそりと静まり返っている。 二人はそこに崩れ落ちるように座り込み、荒い呼吸を整えた。

「はあ……はあ……。何なんだよ、あれは……」

聞きたいことは山ほどあった。喉の渇きも忘れ、クレスは問いかける。

「私にもわからないわ。家の外で突然、急激な眠気に襲われて……気がついたら、丸太に潰されてたの」

リッタは震える自分の手を押さえながら答えた。

「リッタも寝てたのか。しかも、家の外で?」

「……うん」

わけがわからない。 二度寝だと思っていたあの空白の時間は、何らかの異常事態だったのか。それに、あの見たこともない凶暴な魔物たち。

「ねえ、クレス。私たち、どうしよう……」

リッタが不安げに見上げてくる。彼女の手は、自分のローブの裾を強く握りしめていた。

抑えきれない無力感は、クレスも同じだった。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。

「もう少し東へ行けば、叔父さんの家がある。そこで一旦、考えよう」

リッタは小さく頷く。

「そうね。二人だけじゃ、何もできないのは確かだもの」

「少し休憩してからにしよう。リッタも、その傷じゃ歩けないだろ?」

「そうね……それと、クレスのお父さんは? あの人、とても強いじゃない」

その言葉に、クレスは父の背中を思い出す。かつて勇者と呼ばれた者の末裔――父ジャック。 いくら魔物が多くても、そう簡単に負けるはずがない。

「朝、祭壇に行くって言ってた。きっと、いつもの手入れだ」

父は毎週欠かさず祭壇へ通っていた。 それが、まさかこんな別れ際になるとは思いもしなかった。

「クレス、こっちに来て。あなたにも治癒魔法をかけてあげる」

「ありがとう、リッタ」

 休憩を挟み、二人は少しずつ落ち着きを取り戻していった。

 クレスは壁に立て掛けられた、少し刃こぼれした短剣に手を伸ばしながら言う。

「今から行けば、日没前には叔父さんの家に着きそうだ」

「そうね。暗くなり始めたら危険だもの」

 二人は小屋を後にし、クレスの叔父が住むボラカナール王国へと歩みを進めた。


 正午の陽光ですら、明るく感じられない。

村から逃げたという事実が、今もクレスの胸を締め付けていた。

 ――このままじゃ、あの時の自分と変わらないじゃないか。

あの時は、体を張ったベリックに助けられて、僕は何もできなかった。

 

「ねえってば、どうしたのよ?」

 声のする方を見ると、リッタが心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「はは……少し、ぼーっとしてただけだよ」

リッタは大きく目と口を開けて驚いた後、呆れたようにため息をつく。

「もう……あんなことがあったのに、なんで気が緩むのよ」

そう吐き捨て、歩く速度を速める。

「昔のことを、思い出してたんだ」

リッタの足が止まった。

「……昔のこと?」

記憶を辿るように、少しぼんやりした表情になる。

「うん。あの時も、何も守れなかった。

僕は大きくなった気でいただけで、実は何も変わっていなかったのかもしれない」

「そんなことないわ」

クレスの弱気な言葉を遮るように、リッタはきっぱりと言った。

「私はクレスに助けられたじゃない。

……暗い話ばかりしてても、解決策は練れないわね」

「そうだね」

 

  夕闇が街道に滲み込み、世界から音が抜け落ちていく。

 魔物の気配は消え、虫の声すら途絶えていた。 その静寂の中心に――男が立っていた。 燃え落ちた村から逃げ延びた自分たちを、嘲笑うかのように。

 男の足元には、クレスが今朝まで見慣れていた村の守備隊の盾が転がっている。 飴細工のように歪み、無惨にひしゃげて。

「リッタ、僕の後ろに」

 声は思った以上に震えていた。

 クレスは短剣を引き抜く。刃こぼれした剣身が、夕闇を鈍く反射した。

 父から教わった剣筋。

 勇者の血筋だという誇り。

それらすべてが、男から放たれる冷たい圧に、じわじわと凍りついていく。

「はは……二匹、見っけ」

 男の声には、驚きも感情もない。

 最初から、ここにい来ると知っていたかのような無関心さ。

 その視線を向けられただけで、心臓が強く脈打った。

 ――こいつだ。

 ――こいつが、僕たちの日常を壊した。

「お前が……返すんだ!」

 叫びと同時に踏み込む。恐怖を振り切るように、短剣を大きく振り上げた。

 渾身の一撃。

 だが、刃は空を斬った。

 体勢が崩れる。

 次の瞬間、男はまるで風に流されるように後方へ退いていた。

「返す? お前も今から逝っちまうのにか?」

 男の黒いアウターが、突然、火を噴いた。

 理解する前に、衝撃が来る。 脇腹に叩きつけられたのは、焼けつくような熱と痛みだった。

「ぐっ……!」

 視界が歪む。思考が追いつかない。

 ――まずい。

 ――リッタは?

死の気配に触れた瞬間、頭の中で同じ考えが何度も反芻される。

「思い出した」

 男の声が、低く唸る。

「お前と似た顔のやつが、俺の顔に傷をつけたんだ」

 無関心だった表情が、歪む。 怒りに染まった瞳で、男は自分の傷を撫でるようにしてクレスを睨みつけた。

「腹立たしいなぁ」というセリフとともに炎が、さらに勢いを増す。

 ――父さんと、会ったんだ。

「父さんは……?」

 声が、かすれる。

「カカカ。火だるまにしてやったよ。こんがりとな」

 誇らしげな笑み。 爪が、獣のような光を帯びる。

「親子揃って火だるまだ!」

 業火が再び放たれる。

「風魔法(ビュインド)!」

 その瞬間、横合いから吹き荒れる突風が炎を押し流した。

「クレス!こんなのと戦うなんて無茶よ!」

 リッタの声。

 ――助かった。

 今しかない。

クレスは痛む身体を無理やり動かし、全神経を目に集中させた。

 一瞬の隙。

 

 そこへ――

 

 突き出した刃。


 確かに捉えた。

 男の首へ、完璧な軌道で――。


 だが、感触が違う。


 刃が沈んだ先にあったのは、柔らかく、分厚い――白い羊毛だった。


「俺は羊の魔人、ラム」

 男――いや、魔人が嗤う。

「毛だって、自由自在に操れる」

 剣は、完全に止められていた。

 勝てない。それは、嫌というほど理解した。

 ――でも、逃げられればいい。

 ――せめて、リッタだけでも。

「リッタ! 僕に構うな! 一緒には逃げられそうにない!」

 声は震えていた。それでも、それが今の全てだった。

クレスは、指が食い込むほどの力で、ラムの足にしがみつく。 火傷の痛みは、もはや感じなかった。

 そのとき――

 カン、カン、カン、カン、

 甲高い警笛が、夜気を切り裂いた。

「山火事の元凶と思しき発火体を発見!

 一斉放水魔法用意!」


 視界の端に、白い影が舞う。

 ――あれは……昼間の、白いオウム?

 

 なぜ――?


「チッ……長居しすぎたな」

ラムは舌打ちし、石のような物体を取り出して砕いた。

 次の瞬間、身体が光の粒へと分解され、夜空へ溶けていく。

 消え際、残された言葉。


「皆殺しだ」


 そして、天を貫くほどの火柱が立ち上った。 時刻の感覚すら失わせるほどの、眩い光。


「発火体は移動石を使用し逃走!

 救護者二名の救助を行います!」

 消防隊が馬車から駆け下り、クレスとリッタを乗せる。

 安心感と同時に、腹部の激痛が一気に押し寄せた。

 ――くそ……せっかく助かったのに……。意識が、薄れ……て……いく――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

龍戦記 Rere @ThisisRere

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ