第十章:羊をめぐる永遠の旅
二〇二五年の秋の夜は、ひどく冷え込んでいた。
僕は近所のコンビニで缶ビールを買い、それをコートのポケットに忍ばせて歩いた。街灯の下を通るたび、自分の影が伸びたり縮んだりするのを眺める。かつて一九七八年の国分寺で、僕の手が透けて見えたあの時とは違う。今の僕の影は、アスファルトの上にしっかりと、重く、真っ黒に落ちている。
部屋に戻り、僕は沈黙したままのiPhoneをデスクの引き出しの奥にしまった。もはや充電器を差すつもりはなかった。あの中にある「完成された未来」は、今の僕には必要ない。僕の手元には、書店で買ってきたばかりの、まだインクの匂いがする彼の最新刊がある。
僕はページをめくった。 そこにある言葉は、かつて僕がiPhoneから書き写した整然たるフレーズとは、似ているようで決定的に違っていた。もっとひどく、もっと優しく、そして読む者の心をざわつかせる「隙」があった。その「隙」こそが、読者を物語の奥底へと誘う井戸の入り口なのだということを、僕は今の歴史の中で再確認していた。
「やれやれ」
僕は独り言をつぶやき、プルタブを引いた。ビールの泡が弾ける音が、静かな部屋に響く。 ふと、僕は机の上に置かれた一通の封筒に気づいた。それは僕がタイムスリップから戻ってきた直後に届いていた、古びた、しかし大切に保管されていたような航空便だった。
消印は数十年も前。差出人の名前はない。 中には、一枚のコースターが入っていた。かつて「ピーター・キャット」で使われていた、猫のイラストが描かれたあのコースターだ。裏を返すと、万年筆でこう記されていた。
『佐藤君。ストックホルムの冬は、僕には少しばかり寒すぎた。やはり僕は、国分寺の暗い夜や、ギリシャの乾いた風の中で、答えの出ないパズルを解き続けている方が性に合っているようだ。 君がいた未来を僕は壊してしまったかもしれない。でも、おかげで僕は、死ぬまで「書きかけの作家」でいられる。それはノーベル賞よりもずっと素敵な特権だと思わないか? いつか、どこかの井戸の底で、また一緒にビールを飲もう。』
僕はコースターを握りしめ、窓の外を見上げた。 空には、一九七八年も、二〇二五年も、変わることのない月が浮かんでいた。
たとえ毎年十月に「今年もダメだった」というニュースが流れても。 たとえ彼が、永遠に「最高の落選者」として歴史に刻まれようとも。 彼がペンを握り続け、僕たちがその物語を待ち続ける限り、世界はどこまでも不完全で、そして完璧だった。
僕は本を閉じ、明かりを消した。 暗闇の中で、僕は新しい物語の始まりを感じていた。それはiPhoneにも、歴史の年譜にも記されていない、僕と彼だけの、終わりのない冒険の続きだ。
僕は静かに目を閉じ、風の音を聴いた。 それは、まだ誰も聴いたことのない、新しい春の歌のように聞こえた。
ハルキストの僕が村上春樹より先にデビューして、彼をノーベル賞へ導く話 虚村空太郎 @Kutaro_Kyomura
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