第四章:未来の記述、あるいは落選し続ける僕たちの歴史

二人の共同作業が熱を帯びるにつれ、iPhoneの液晶画面が放つ青白い光は、まるで僕たちを異界へと導く道標のようになっていった。


「見てください。これが1987年に爆発的なブームを巻き起こす『ノルウェイの森』です」 僕は春樹に画面を見せた。そこには、かつて数百万人が涙し、赤い上下巻の装幀が書店の棚を埋め尽くした「あの物語」が整然と並んでいる。しかし、画面を見つめる春樹の瞳には、以前のような驚きはなかった。そこにあるのは、獲物を狙う猟師のような鋭く、冷徹なまでの観察眼だ。


「なるほど、死と生をこれほどまでに密着させたのは、この時代の空気感への反動というわけか。でもね、佐藤君」 春樹は鉛筆の先で、画面上のテキストを指した。 「この時点での『僕』の再生は、少しばかり早急すぎる気がするんだ。未来の僕が書いたこの結末は、確かに美しい。けれど、今僕たちが生きているこの1980年代の初頭において、もっと重く、もっと逃げ場のない孤独を突きつけるべきじゃないか?」


僕は戦慄した。彼は、未来の自分が辿り着いた「正解」を、さらに一段高い場所から再構築しようとしていた。僕の持つiPhoneのデータは、いわば完成された地図だ。しかし、彼はその地図にない隠し通路や、まだ誰も踏み込んでいない崖っぷちを探し出そうとしている。


僕たちは執筆のギアを上げた。僕は未来の批評家たちが絶賛したフレーズや、読者が最も心を動かしたシーンを抽出して伝える。春樹はそれを一度自分の中に飲み込み、1980年代の濃密な空気の中で濾過し、全く新しい言葉として吐き出す。それはもはや「盗作」でも「模倣」でもなかった。未来と現在が激しくぶつかり合い、火花を散らす真剣勝負の場だった。


しかし、その代償は思わぬ形で現れ始めた。 ある夜、執筆中にiPhoneの画面が激しく点滅した。バッテリー残量は四十八パーセント。 それと同時に、僕の視界が一瞬だけ砂嵐のように歪んだ。自分の指先を見ると、半透明に透けて、後ろにある原稿用紙の罫線が見えている。


「佐藤君、顔色が悪いぞ」 春樹が心配そうに声をかけた。 「いえ、大丈夫です。ただ、少し……この世界の密度に慣れていないだけですから」 僕は慌てて手を隠したが、動悸は止まらなかった。僕が歴史を上書きすればするほど、僕という「未来からの異物」をこの世界が排斥しようとしている。あるいは、このデバイスの電力が尽きるとき、僕の存在もまた、充電の切れたアプリのように消滅してしまうのではないか。


そんな不安をよそに、村下冬樹(つまり、僕と春樹の共作)の影響力は留まることを知らなかった。 文壇の重鎮たちは「日本文学に突如として現れた巨大な黒船」と僕を呼び、海外の翻訳者たちもこの「早すぎた天才」に注目し始めていた。本来なら十数年かけて築き上げるはずの国際的な評価が、わずか数年のうちに凝縮されて押し寄せていた。


「次のノーベル賞の有力候補に、日本の若手作家・村下冬樹の名が挙がっているらしい」 そんな噂が、まだインターネットも存在しない時代の新聞や雑誌の片隅で、確かな熱を持って語られ始めた。


「予定よりずっと早い。でも、これならいける」 僕は興奮と恐怖が混ざり合った声で言った。 「1980年代半ば。あなたが40代になる前に、僕たちはストックホルムへ行けます。あなたがずっと背負わされるはずだった『落選のアイコン』という汚名を、この世から消し去ることができるんです」


春樹は灰皿に溜まった吸い殻をゴミ箱に捨て、窓の外を見つめた。夜明け前の国分寺は、しんと静まり返っている。 「ノーベル賞か。正直なところ、僕個人にはあまりピンとこない名誉だ。でも、君がそこまで言うのなら、獲りに行こうじゃないか。君が消えてしまう前に、僕たちがこの世界に刻んだ爪痕としてね」


彼は僕の正体を見抜いていたのかもしれない。僕がこの時代に長く留まれないことを、そしてこのiPhoneの光が消えることが何を意味するのかを。


「さあ、続きをやろう。次は『ねじまき鳥』の核心部分だ。未来の僕が書き残した『井戸』よりも、もっと深い場所まで降りていこう」


春樹が原稿用紙に向き直る。その背中は、僕が知っているどの時代の彼よりも大きく、孤独で、そして力強かった。液晶画面の青白い光が、彼の横顔を鋭く照らし出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る