第三章:ピーター・キャットの密約、あるいは未来の簒奪

共同執筆という名の「歴史の改変」が始まったのは、その翌日からだった。場所は変わらず、閉店後の「ピーター・キャット」。シャッターを下ろし、鍵をかけ、僕たちは古い木製のテーブルを挟んで向かい合った。テーブルの上には、書きかけの原稿用紙と、僕のiPhone、そして灰皿いっぱいの吸い殻。


「まず、この『羊をめぐる冒険』というプロットについてだが」と、春樹は手元のメモを見ながら言った。「ここに出てくる『耳のモデルの女の子』の設定を、もう少し現実から浮かせてみようと思う。未来のデータではこうなっているけれど、今の僕の感覚だと、もう少し……そう、潜り込むような静けさが必要だ」


僕は息を呑んだ。彼は僕が提示した「完成された未来の作品」を、ただなぞっているわけではなかった。彼はその骨組みを理解した上で、そこに2020年代の批評眼を持った僕のアドバイスを加え、さらに1970年代を生きる彼自身の「生の熱量」を注ぎ込もうとしていた。


僕たちは未来の年譜を書き換えていった。本来なら1982年に発表されるはずだった『羊をめぐる冒険』を、1979年の時点で、より重厚な、より決定的な形で世に送り出したのだ。著者は「村下冬樹」。だが、その文体には明らかに「何か」が加わっていた。それは僕が機械的に写経していた時には存在しなかった、血の通った文体だった。


世間は狂乱した。 文芸誌の表紙は「村下冬樹」の文字で埋め尽くされ、評論家たちは「日本文学の構造が根本から覆された」と騒ぎ立てた。僕はテレビや雑誌の取材をすべて拒否し、国分寺のアパートに引きこもった。僕はあくまで「依代(よりしろ)」であり、真のクリエイターは夜の底でレコードを磨いているあの男なのだ。


だが、歴史の歯車は思わぬ方向へも回り始めた。 僕が未来の作品を前倒しで発表し続けた結果、本来起こるはずだった「ポストモダン文学の潮流」が、数十年単位で早まってしまったのだ。街には僕のiPhoneにあるような洗練された広告コピーが溢れ、若者たちは誰もが『ノルウェイの森』のプロトタイプのような会話を交わし始めた。


「ねえ、佐藤君」と、春樹はある夜、ふと僕の本名を呼んだ。彼は僕が未来から来たことを完全に受け入れていた。「僕たちは、少しやりすぎているのかもしれない。世界が僕らの書く言葉に追いつかれ、追い越されようとしている気がするんだ」


彼はそう言って、僕のiPhoneを手に取った。バッテリー残量は六十五パーセント。 「この画面に映っている未来の僕が書いた『ねじまき鳥クロニクル』。これを今、僕らが書いてしまったら、この先の日本はどうなると思う? 予言された悲劇が、現実を浸食し始めるんじゃないか?」


彼の懸念は的中していた。 僕たちが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の原型となる原稿を仕上げた頃、東京の街角で奇妙な失踪事件が相次ぎ始めた。まるで物語の中にある「壁」が、現実の世界に浸食してきたかのように。人々は理由もなく言葉を失い、井戸の底を覗き込むような虚無感に囚われ始めていた。


僕は恐怖を感じた。歴史をより良くするために、彼を救うためにここへ来たはずなのに、僕が持ち込んだ未来の知識が、この穏やかな昭和の終わりを壊そうとしている。


「でも、止まるわけにはいかない」と僕は自分に言い聞かせるように言った。「僕たちの目的は、あの絶望的な秋の夜を消し去ることです。スウェーデン・アカデミーが、文句のつけようがないほどの絶対的な傑作を、今この時代に叩きつけるんです。1980年代のうちに、あなたにノーベル賞を獲らせる。それが僕の使命だ」


春樹は何も言わず、ただ新しいレコードをターンテーブルに載せた。流れてきたのはスタン・ゲッツ。冷たく、しかしどこまでも正確なサックスの旋律だ。


「わかった。なら、次は『ノルウェイの森』に取りかかろう」と彼は静かに言った。「ただし、未来のデータにある通りの結末にはしない。君が持ってきた未来よりも、もっと深く、もっと残酷で、それでいてもっと美しい場所に、僕たちの力で辿り着くんだ。それが僕が書く意味だ」


僕たちは合意した。 それは「村上春樹」という個人の創作を超え、21世紀の記憶を持つ僕と、1970年代の肉体を持つ彼による、時間と空間を越えた共謀だった。


翌朝、僕がアパートへ帰る途中、駅の売店で週刊誌が目に入った。 見出しにはこうあった。 『天才作家・村下冬樹、次作は100万部確定か? 謎の協力者の影』


僕はコートのポケットにあるiPhoneを強く握りしめた。バッテリーは刻一刻と減り続けている。僕の存在そのものが、この時代において「消えゆく幻」であることを、僕はまだ彼には話していなかった。

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