エッグ・ダンスにピリオドを

水底まどろみ

第1話

「みなさんは『エッグ・ダンス』というものを知っていますか」


 英語の授業中に聞き慣れない呪文が唱えられ、教科書に落としていた視線が持ち上がる。

 興味を引きたいのかそれとも蘊蓄うんちくを語りたいだけなのか、眼鏡をかけた痩身そうしんの男性教師は私たちの返事も待たずに話し始める。


「イースター祭の伝統的な踊りで、地面に置かれた卵を踏まないように踊るんです。時には目隠しをして踊ることもあるそうで」


 一応、授業と関連性がある話ではあったらしい。

 教科書の中ではドイツから留学してきた女生徒が日本で出来た友達にイースターのことを明るい表情で話していた。

 

 興が乗ってきたのか、教師の雑学コーナーは一向に終わる気配を見せなかった。

 困難をうまく切り抜けるという意味を持つ慣用句になっているとか、ゲーテのなんとかマイスターの修行時代とかいう題名の小説にも出てくるとか、100個の卵を置いて割らずに踊り切れば婚約成立という話があっただとか。

 授業そっちのけで熱弁を加速させるその姿に、随分と気楽なものだな、と私はため息をつく。


 イースターのお祭りの場なら楽しいイベントで終わるかもしれないけれど。

 エッグ・ダンス難しい状況を毎日やらされている身としては、たまったものではない。



「ただいま」


 古いアパートの扉を開き投げかけた小さな声が、奥へと吸い込まれる。

 人の気配はするが返事はない。

 音を立てないように扉を閉め、床に転がっているチューハイの空き缶を蹴らないように注意しながら、部屋の中に足を踏み入れる。


 部屋の中央に置かれたテーブルと二脚の椅子。

 そこに腰掛けている派手なメイクをした女性はこちらを一瞥すると、何も言わずに手元のスマートフォンに視線を戻した。

 彼女には血の繋がった娘よりも画面の中の小さな世界の方が大切らしい。

 私は無言のままスクールバックを下ろし、制服のまま台所に立つ。

 

 私の家はいわゆる母子家庭というやつだ。

 父親がいた記憶はおぼろげながらあるのだが、保育園に入るかどうかくらいの時にはもういなくなっていた。

 モラハラや経済的DVが酷い男だった、と母が猫なで声で吹き込んでいたのを今でも覚えている。

 小さい時はそれを素直に信じていたものだが、10歳になる頃には疑問を持ち始め、今では一つ確信していることがある。


「アイ」


 すぐ後ろから私の名を呼ぶ声がした。

 考え事に気を取られている間に近寄ってきていた母は、能面のような顔をして私の背後に立っていた。


「なに作ってるの」

「えっと⋯⋯鶏の唐揚げとジャガイモのみそ汁にしようかと」

「ふうん」


 そう言ったきり黙り込んで、肩越しに私の手元をじっと見つめてくる。

 吐息に混じる電子タバコの臭いが鼻先をかすめる。

 咽ないように我慢しながら、じっと次の言葉を待つ。


「あんたはいいわね、人のお金で家庭的アピールできて」

「え?」


 唐突に投げられた鋭い言葉。

 その冷たさに身を凍らせている間に、母は私の横をすり抜けていった。


「私、外で食べてくるから」


 拒絶の言葉をぶつけられ、引き留める間もなく玄関の扉が閉まる。

 あとに残された二人分の鶏肉と切ったばかりのジャガイモを眺めて、私は小さく息を吐く。


 母の不機嫌スイッチはいとも簡単にオンになる。

 それとは知らず私が押してしまうこともあるし、他人が押したスイッチの八つ当たりが私に飛んでくることも多い。今回はおそらく、後者だろう。

 すぐ怒る人を「地雷原のようだ」と言ったりするが、母のそれは爆発のような激しいものではない。

 どちらかと言えば卵のようなものだ。繊細で割れやすく、少しでも傷つけてしまえば不満が滲み出る。

 私は毎日、敷き詰められた卵を踏まないように生きている。


 記憶の底に埋もれている父も、きっとこのような不機嫌ハラスメントの日々に嫌気が差して逃げ出したのだろう。

 ただ、大人であり母とは元々他人同士である父とは違い……私にとっての母は唯一の肉親であり保護者だった。

 あれでも一応、衣食住は保証してくれている。高校にも通わせてもらっているし、スマートフォンだって母のお下がりではあるけど持たせてくれている。

 世の中にはもっと酷い状況に置かれている子供もいる。それに比べたら私はずっとマシな生活をしているのだろう。

 私がうまく踊ることさえ出来れば、卵が割れてしまうことはない。だったら、私が我慢していればいいだけの話だ。

 心の底に沈んだおりをため息と一緒に追い出して、私は夕食作りの続きを始めた。

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