見えない同居人
烏川 ハル
見えない同居人
「こんにちは」
すれ違った女性から挨拶されて、一ノ瀬ふみえは立ち止まる。
マンションの共用廊下だから当然、相手も同じマンションの住人だ。
白い清楚なブラウスにベージュのロングスカート、背中には黒いカジュアルバッグという格好の女子大生。ちょうど一ノ瀬の隣である304号室に最近引っ越してきたばかりの、岡谷ゆりかだった。
「あら、こんにちは。今日は遅いのね」
「ええ。授業の後、サークルがあったので……。失礼します」
一ノ瀬の問いかけに答えると、ゆりかは自分の部屋へと帰っていく。
足早に立ち去る彼女の後ろ姿に、一ノ瀬は内心「少し余計なこと言っちゃったかな?」と考え込んだ。
ゆりかから見れば、自分は一回り以上も年上のオバサンだ。マンションの隣人として最低限の近所付き合いはするにしても、廊下で立ち話を楽しむほどの仲ではないのだろう。
それに、一ノ瀬の「今日は遅いのね」発言は、あくまでも「大学の授業が終わる時間帯にしては遅い」という意味。お互いの挨拶が「こんばんは」でなく「こんにちは」だったように、まだそれほど遅くはない時間だった。サークル活動があってもその後で食事などせず帰宅したのであれば、今晩これから個人的に用事があって、急いでいるのかもしれない。
「まあ、何であれ……。元気に暮らしていくのが一番ね」
軽く微笑みながら、一ノ瀬は小さく呟いた。
最初の日にゆりかは、一ノ瀬の部屋まで引っ越しの挨拶に来ている。
一ノ瀬はその際、ゆりかに対して「痩せ過ぎ」という印象を抱いてしまった。ひょっとしたら40kgもないのではないか、と思ったほどだ。
そもそも、もう春ではなく秋だ。大学入学を機に一人暮らしを始めるのであれば4月スタートのはずだし、これまで数ヶ月は一体どこに住んでいたのだろう? 何かトラブルが生じて、最初のところから追い出されたり、自分から退去したりしたのだろうか?
一ノ瀬は、つい色々と想像したくなるのだが……。
「あら、嫌だ。こういう詮索好きなのが、もうオバサンくさい証なのかしら」
頭を横に振って、再び歩き出すのだった。
――――――――――――
――――――――――――
「はあ。なんだか疲れた……」
大きく溜め息をつきながら、岡谷ゆりかはベッドに倒れ込む。
今日は授業の最後のコマが選択科目で、サークルの仲間も数人、同じ講義を受講していた。そのまま彼らと一緒に、夕方の練習には参加したが、
「終わった……。さあ、メシ食いに行こうぜ!」
「ゆりかも行く?」
という誘いは断り、一人で帰ってきたのだ。
友人たちに対して「食欲ないから」と言ったのは、口実でなく本心。ここ最近のゆりかは、ほとんど何も食べられない日々を過ごしていた。
ゆりかは元々、中肉中背だ。体重だって人並みにあったけれど「食事も喉を通らない」という状態が続いたせいで、すっかり痩せてしまった。
理由は失恋のショックだ。気分転換の意味で住むところを変えようと、わざわざ引っ越ししたくらいの、それほど大きな失恋だった。
「でも、ダメよね。これじゃ体がもたないし……」
自分に言い聞かせるように言葉に出して、ゆりかは立ち上がる。
部屋着に着替えて、キッチンスペースへ。
料理すること自体は好きだから、包丁を持てば、いくらか気分も回復。自然に笑顔も浮かべながら、手早く調理していく。
食欲なくても食べやすいような中華粥に、わかめと小エビを乗せた野菜サラダ、そして卵スープ。タンパク質が少し足りない気もするけれど、今の自分にはこれで十分だろう。
出来上がった料理を、テーブルに置いて……。
そこでゆりかはハッとする。
「まあ、私ったら……!」
テーブルの上には、二人分の料理が並べられていたのだ。
――――――――――――
最近まで付き合っていた彼氏とは、いわば半同棲の状態。正式な同棲ではないけれど、ほぼ毎日のように彼氏の部屋へ通って、寝食を共にする付き合い方だった。
食事の支度をするのは、いつもゆりかの方。その習慣が体に染み付いたままで、ついつい二人分の料理を用意してしまったらしい。
「もったいないけど、後で片付ければいいか」
そう割り切って、テーブルの片側に座り、ゆりかは食べ始めた。
ところが、それから十数分後。
「えっ……!」
食事の手を止めて、思わず叫んでしまう。
半分くらいまで食べたところで、ふとテーブルの反対側に視線を向けると、そちらに並べた料理の皿が空になっていたのだ。
「誰……? いったい誰が食べたの!?」
慌てて立ち上がり、前後左右を見回す。
テーブルを中心にして、右の壁際には棚が二つ。高い方は本棚、低い方は小物や雑貨などを入れる用だが、テレビ台を兼ねているのでテレビも載せてあった。
正面の窓横にはベッドと勉強机があり、左側にはハンガーラックの洋服掛けと楕円形の姿見。
見慣れた備品ばかりの室内だ。自分以外に誰もいないし、誰かが隠れるような余地もなかった。
「誰もいないなら、もしかして、無意識のうちに私が?」
ゆりかの食欲不振は、失恋のショックが原因だから、いわば精神的なもの。肉体的に食べられないわけではないから、体は食事を欲していたのかもしれない。
ならば、今まであまり食べていなかった分、テーブルの上の料理を目にして、一気にたくさん食べてしまったのだろうか。
頭の中で自問自答するゆりかは、別の可能性も思い浮かべる。
「あるいは、見えない何か……。幽霊みたいなもの? そういうのがいて、ご飯まで食べちゃったのかしら?」
そういえば、前に住んでいたところと比べて、ここは明らかに家賃の安い部屋だった。
急ぎの引っ越しのため気にしなかったけれど、あれは「曰くのある物件だから」という意味だったのだろうか。
しかし……。
「むしろ幽霊でもいいわ。一人よりも寂しくないものね」
恐怖を感じるどころか、満面の笑みまで浮かべる。
ゆりかは改めて座り、食事を続けるのだった。
「これからもよろしくね、幽霊さん」
――――――――――――
翌日以降も同様だった。
二人分の料理を作って一緒にテーブルに並べておくと、自分の分を食べている間に、もう一人の分は空になっているのだ。
「嬉しいわ。やっぱりいるのね、見えない同居人が。しかも、私の手料理を喜んで食べてくれる!」
こうして「嬉しい」と感じることが、ゆりかの精神状態に好影響を与えたのだろう。
食欲不振も癒やされて、きちんと食べられるようになってきたらしい。
しばらくして、ふと部屋の姿見に自分の全身を映してみると……。
「もう大丈夫ね! すっかり元の体型に戻ったみたい!」
歓喜の声を上げるゆりか。
実際には「元の体型に戻った」どころか、一種のリバウンドだろうか。明らかに以前よりも太っていたし、ゆりか自身それに気づいていたが、特に問題視はしなかった。
食べ過ぎている自覚がない以上、実害もないはず。外見だけならば、痩せ過ぎと比べたら、むしろ少しくらい太めの方が健康的で良い。
ゆりかは、そう考えるようになっていた。
――――――――――――
――――――――――――
朝のゴミ出しから部屋へと戻る途中、共用廊下にて。
一ノ瀬ふみえは、すれ違った住民から挨拶される。
「おはようございます!」
「あら! ……おはよう。今から学校?」
一瞬言葉に詰まったのは、驚いたからだ。
白いブラウスとロングスカートの組み合わせで、黒いバッグを背負った女性。どう見ても304号室に住む岡谷ゆりかだが、久しぶりに見かけた彼女は、がらりと印象が変わっていたのだ。
元々がりがりに痩せていたのに、いつのまにか、逆にぽっちゃり体型になっていた。なんとなく既視感を覚えるような……。
「はい、行ってきます!」
明るく元気に答えると、ゆりかはエレベーターへと駆け込んでいく。
その後ろ姿を見送りながら、一ノ瀬は既視感の正体に思い当たっていた。
「ああ、そうか! 痩せてた時は気づかなかったけど……」
後ろ姿になると、特に顔の細かいパーツなどは見えなくなって、髪型や背格好のみ。その場合、ぽっちゃり体型になったゆりかの見え方は……。
「……ゆりかちゃん、あの子にそっくりなのね!」
一ノ瀬が思い浮かべた「あの子」。それは数年前の一時期、頻繁に304号室を訪れていた女性だった。
当時の304号室の住人は、一人暮らしの若いサラリーマン。問題の女性は、そのサラリーマンの恋人だったらしい。
しかし長続きしなかったようで、少し経つと彼女の姿は見かけなくなり、その直後サラリーマンの男は部屋で自殺してしまう。
結果的に304号室はいわゆる事故物件と化して、なかなか借り手がつかなくなった。せっかく新しい入居者が現れても皆、一ヶ月もしないうちに出ていく状況が続いていた。
「間に何年も挟んでるとはいえ、新しい人が偶然、同じ部屋で前に死んだ人の彼女さんと、よく似てるなんて……」
ぶるっと体を震わせながら、一ノ瀬は頭を横に振る。
「……面白いくらいの凄い偶然だけど、でも、わざわざ言う必要ないわよね。せっかく居着いてくれてるんだし」
(「見えない同居人」完)
見えない同居人 烏川 ハル @haru_karasugawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます