2:姉ちゃんと幼なじみ

■心優

 玄関を開けるなり、エプロン姿で出迎えに来た姉ちゃん…… 姉の七花(ななか)が目を丸くした。


「えっ、ちょっと琢磨。どうしたの、そのケガ!?」


 慌てたように駆け寄ってくる。


「なんでもない」


 姉ちゃんの細い体を押し退けるようにして靴を脱ぎ、家の中へ上がる。

 その拍子に、さらさらのポニーテールが、おれの肩をかすめた。

 姉ちゃんの西洋人形のように白く整った顔が青ざめている。


 ……まあ、今の自分の顔も相当ひどいだろうけど。


 でも、そんなことより――さっきの黒猫のことが、頭から離れない。


 できるだけ姉ちゃんと目を合わせず、二階の自分の部屋へ行こうと階段に向かった、そのとき。


「どうしたの、ななちゃん?」


 リビングのほうから女の子の声がした。


 ――ちっ、来てたのか。


「みゅうちゃん、ちょっと来て! 琢磨が大変なの!」


 姉ちゃんに呼ばれて、私服姿の心優(みゆ)が小さなたぬき顔をリビングから覗かせた。


 心優。

 おれの幼なじみ。


 ふだんは下ろしているボブヘアーを、今日はお団子にまとめていた。

 心優はおれの顔と、砂で汚れた上着を見て小さく息を呑んだ。


「ちょっとたっくん、どうしたのその格好?」


 そう言って、駆け寄ってきた。


「なんでもないって言ってるだろ」


 心優の視線を避けるように、さっさと階段を上ろうとしたが腕を掴まれた。

 身長は平均的だが、体幹がしっかり鍛えられた心優の手を振りほどけない。


「……なんだよ」


 仕方なく振り向くと、心優の大きな瞳がおれを睨みつけていた。

 口は悪いがあまり気が強いほうではない、いやどちらかというと気が弱いおれは少し怯んだ。


 さらに反対側の腕を、姉ちゃんが掴む。


「なんでもない、なんて事ないでしょ」


 と、咎めるように言って、姉ちゃんはおれを脱衣所へ引っ張っていった。


「痛っ」


 思わず顔をしかめると、心優がビクッと肩を揺らし、キズぐすりを塗っていた手を引っ込めた。


「あっ、ごめん!」


 リビングであぐらをかいたおれの前で、女の子座りをした心優が、申し訳なさそうに顔の傷を見つめている。

 姉ちゃんは脱衣所で、おれの服を洗濯中だ。


「心優、もういいよ。あとは自分でやる」


 胸元が視界に入ってどうも落ち着かない。

 同級生女子の平均より、少しだけ大きなものが気になる。


 ――あんまり胸元の開いた服、着てくんなよ。


「なに遠慮してるの? 私とたっくんの仲じゃない」


 別に遠慮しているわけじゃない。

 心優は昔から不器用で、こいつが治療するとやたらと痛い。


「なになに? もしかして、私にキズぐすりを塗ってもらうのが恥ずかしいのかな?」


 ついでに、すげぇウザい。


「ほんと、もういいから」


 おれが手を払うと、心優は頬を膨らませた。


「なによ!」


 キッと睨まれたので、思わず「ごめん」と謝る。


「でもよかった」


「なにが?」


「思ったより、大したことなさそうで」


 心優が安堵の笑みを浮かべる。

 相変わらずコロコロと表情が変わるやつだ。

 心優はモテるらしいが、こういうところが男にウケるのか?


「そうか? 結構、痛いんだけど」


「そうだよ。さっきは服のあちこちに血がついてたから、大けがしたんだと思ったんだから」


「いや、それは鼻血」


「えっ、あれ、鼻血だったの?」


 心優が目を丸くし、手を口元にあてる。


 まぁ、心優が言っていることももっともだ。

 ただ、顔や服に付いていた血は、郷原に殴られて出た鼻血だ。

 他は擦り傷程度。


 蹴られたときも、全部腕でガードしたからな。

 ただ、腕の打撲はマジで痛いけど。


「……喧嘩?」


 不安そうな顔でおれを見つめる。


「歩道橋の階段でつまずいて落ちた」


「うそ!」


 そりゃ、三人に囲まれて一方的にボコられたなんて、女に言えない。


「マジだよ」


 適当に答えて、心優から目をそらせた。


 心優は、道を挟んだ斜め向かいに住む、同い年の幼なじみだ。

 おれと心優の父親が同じ会社の同僚で、仲が良かった。


 同じ時期に社内結婚し、同じタイミングで売り出された建売住宅を購入。

 結果、車二台がすれ違うのがやっとの狭い道を挟んで、ご近所さんになった。


 おれの家の正面には小さな神社があり、その右隣が心優の家だ。

 親父たちは面白がって即決で購入したらしい。


 もちろん、おれの母親と、心優の母親も元同僚なので顔見知りだった。


 小さい頃から家族ぐるみの付き合いで、心優は姉ちゃんによく懐いている。

 週に何度も遊びに来るのが当たり前で、家族で出かけるときも、必ず姉ちゃんの隣には心優がいた。


 今でも、毎日のようにうちに入り浸っている。


 ……そして、郷原がおれを目の敵にする理由はこいつにある。


 中三のとき、郷原は心優に告白して、フラれた。

 しばらくして、心優が普段から気安く話していたおれの存在を知り、嫉妬したらしい。


 それが、おれへの攻撃の始まりだった。


 郷原が仲間に愚痴っていたのを、親友の悠斗が聞いていて教えてくれた。


 正直、郷原が振られたことを耳にしたときは、「ザマァみろ」と思った。


 心優が誰と付き合おうと知ったことではないが、小さい頃からの顔見知りでいとこのような間柄の心優が、郷原みたいなヤツの彼女になるのは嫌だからな。


 とはいえ、郷原が暴力を振るうようになってからは、毎日が苦痛だった。

 おれが郷原を挑発していたのも原因の一つだけども。


 中学卒業後は顔を合わせることもなくなり、平和な日々を送っていたが、今日は運が悪かったとしかいいようがない。


「あれっ、こんなところにも小さな傷が」


 心優が、おれの右手を取る。

 親指に、小さな傷が二つ。


「あぁ、それは…… 公園で猫に噛まれたんだ」


 郷原のことですっかり忘れていたけど、奇妙なことがあった。


 それはおれを睨みつけていた、さっきの気味が悪い黒猫のことだ。


 ブランコに座って新しいバイトをどうしようかと考えていたとき、黒猫が足元に擦り寄ってきた。

 痩せこけた黒猫をつい哀れに思って抱き上げると、青白い光が突然おれめがけて飛び込んできた。


 それが親指を舐めていた猫を直撃すると、その衝撃で猫が親指に噛み付いた。

 痛っ、と思ったが、衝撃は猫を抱き上げているおれにも伝わって、猫に押されるようにブランコに座っていたおれは背中から落ちた。


「野良猫に噛まれたの? 明日、病院に行ったほうがいいんじゃない?」


「大丈夫だよ、これくらい」


「いや、行ったほうがいいよ。ひとりで行くのが怖いなら、私がついて行ってあげる」


「いらねぇよ」


 速攻で断った。

 お前は母ちゃんか。


 おれが丁寧に断ったというのに、心優が口を尖らせて軽く睨んでくる。

 なんで、睨むんだよ。


 確かにおれの言い方もきつかったけど。


 結局、睨みつける心優に負けた。


「わかった。明日、学校の帰りに病院に行くよ」


「きっとだよ」


「わかったから、もう帰れ。おばさんが心配するだろ」


 猫を追い払うように、シッシッっと手を振ると、心優は頬を大きく膨らませて立ち上がった。


「肉じゃが持ってきたから、食べてね。私も手伝ったんだから!」


「それ、おばさんが作ったんだよな?」


 心優が手伝ったと聞いて、おれは表情が強張るのを全力で抑えた。


「なによ。私も手伝ったって言ってるでしょう」


「あ、あぁ、ありがとうな…… おばさんにもお礼言っといて」


 心優は口を尖らせている。

 さっき表情が変わったのを見られたかな。


「じゃぁね」


 そう言うと、心優はすねた様子で、軽く手を振ってリビングを出ていった。


 おれの両親は去年、おれが高一、姉ちゃんが高三のとき、交通事故で逝ってしまった。

 それ以来、身寄りのいないおれは、姉ちゃんと二人暮らしをしている。


 両親と仲が良かった心優の家族は、おれたち姉弟の事をいつも気に留めてくれていた。

 本当に感謝しかない。


 玄関のほうでは、姉ちゃんと心優が話している声が聞こえたが、やがて玄関ドアが閉まる音がした。


 おれは二階の自室に入って、窓から心優の家を見た。

 ちょうど玄関ドアが閉まるところだった。


 しばらく、次のバイトをどうするかなぁと考えながら、ぼんやりと外を眺めていたが、


√ーー $ゝ@¥ヽ&


 不意に、誰かがおれを呼んだ…… いや、呼んだと言うより、直接頭に、そんな意味の言葉が響いたような感じだ。


 思わず、周囲を見回すと、家の前の道に立つ電柱の影から、ふたつの金色の小さな瞳が光っていた。

 おれをじっと見ている。


 背筋に、寒気が走る。


 ――あの黒猫だ。


 おれは怖くなって、家のシャッターを全て閉め、布団に潜り込んだ。

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