チー牛ナイザー

羊乃あい

第1話

 「チーズ牛丼、温玉のせで」


千一田牛斗ちいだぎゅうとは、静かにそして確かな声で、そう注文した。


大学近くの牛丼チェーン「吉田屋」。

深夜帯特有の、油と出汁の匂いが混じった空気の中で、その声はやけに響き渡った。



「てめえ……無視してんじゃねえぞチー牛が」


トラブルメーカーの佐伯が、一触即発の怒気で千一田に詰め寄っている。



ぼくはというと、隣の席で身を縮めることしかできなかった。


どうして――どうして、こんなことになったんだ?




話は、数時間前までさかのぼる。

今日は12月25日、クリスマス。リア充やカップルどもが、わが物顔で街を支配するこの忌まわしき日。

このぼく日戸波翔樹ひとなみはるきは、ただ何が何でも「クリスマスぼっち」を回避したいだけだった。


そして夕方……講義を終えた帰り道、誰とも予定がないことが、急に耐えられなくなった。

それで同じ「地球環境工学Ⅱ」という授業を受けている千一田に声をかけたのは、ほとんど衝動だった。


「……よかったら、飲みに行かないか?」


千一田は少し驚いた顔をしたが、すぐに「いいぞ」とうなずいた。

それだけで、胸の奥が少し軽くなった気がした。


居酒屋で他愛もない話をして、終電を逃し、最後に牛丼で締めよう――そんな、地味で平和な夜のはずだった。



ぼくたち2人が牛丼チェーン店内に入ると……異常な状況であったことがすぐにわかった。

大柄な金髪の不良が、店員に詰め寄っていたのだ。派手な柄のジャケットに身を包み、酒臭い息を吐きながら、カウンターを叩いていた。

こいつのことは知っている――大学で有名なトラブルメーカー、佐伯である。


「だからよぉ。お前んとこの牛丼に、ゴキブリが入ってたっつってんだろ」


「す、すみません」


店員は明らかに困り果てている。



「ただにしろ! おい!」


クレームをつけている佐伯を見て、ぼくはひそっと千一田に耳打ちした。


「何だかやばいよ。さっさと店を変えよう?」


千一田は返事の代わりに、あろうことか、一歩前に進み出た。



「なあ、あんた」


低く、しかしはっきりとした声が響いた。

千一田のものだった。


彼はまっすぐに立ち、佐伯の方を見ていた。背は高くない。体つきも、特別鍛えているようには見えない。どこにでもいそうな、いわゆる“チー牛”の大学生だ。


「みんなが困ってる。嘘はよくない」


佐伯が、ゆっくり振り返る。


「あぁ? なんだお前」


「今なら間に合う。おとなしく代金を払って、帰るんだ」


その次に彼は、恐怖で震える店員にチーズ牛丼を注文した……そして今に至るというわけだ。


佐伯の顔が歪み、怒りがむき出しになる。


「ヒーロー気取りか? 調子乗ってんじゃねぇぞ」


殴りかかる――そう思った瞬間、千一田は静かに言った。


「外に出よう。注文が来る前に、話をつけよう」


店内がざわめいた。


ぼくは声を出せなかった。止めることも、逃げることもできず、ただ成り行きを見守るしかなかった。


店の外。

冷たい夜風が、酔いを一気に冷ました。


外に出るなり、佐伯がいきなり拳を振り上げた――しかし、それは当たらない。


気づいたときには、佐伯は地面に倒れていた。息が詰まったような声を上げ、身動きが取れない。


――何が起きた?


そのケンカを目撃していたぼくたちの誰もが、本当に困惑していた。


「どうする? まだ続けるか?」


千一田が倒れた佐伯に声をかける。佐伯は立ち上がるなり、すぐに飛びかかった。

しかし千一田は、今回もまた彼の攻撃をかわし、目にも止まらぬコンボを見舞った。


佐伯はまた、無様に道に倒れこんだ。


「やめとけ。今のあんたじゃ、おれには勝てない」


千一田はそう言いながら、半笑いさえ浮かべていた。



「お代を置いていけ。そうしたら許してやるし、今夜のことも忘れてやる」


佐伯は憎々しげに千一田を見上げた。

しかし観念したように、財布から千円札を抜き取るとそれを投げつけた。



「……くそが」


佐伯は何も言えず、そのまま逃げるように去っていった。


――なんてことだ。

チー牛代表の千一田が、不良代表の佐伯にケンカで圧勝してしまった!


店内に戻ると、千一田は店員に千円札を差し出した。


「迷惑料としては足りないかもしれませんが。お釣りは、受け取ってください」


一瞬の沈黙のあと、拍手が起こった。


ぼくは、ただ呆然と立ち尽くしていた。

席に戻り、運ばれてきたチーズ牛丼を、千一田は何事もなかったかのように食べ始めた。


「……なあ、千一田」


震える声で、ぼくは聞いた。


「お前、あれ……一体、どういうことなんだ?」


千一田は箸を止め、少し考えるように目を伏せた。


「日戸波。今日、おれの家に泊まっていかないか」


それは文字通り、不意打ちだった。


「せっかくのクリスマスだ。お前とは……いろいろ話しておきたくてな」


ぼくは、うなずいていた。


怖かった。でも、それ以上に――知りたかった。


この男の正体を。

そして、この夜の続きを。

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