スタート・ハラスメント

三軒長屋 与太郎

スタート


 「待望の新番組! 4月5日土曜、夜7時スタ……」


 プッ……。


 男はここでテレビを消す。

灯りの消えた薄暗い部屋で、呆然とソファにもたれていた。

深く長い溜め息をつき、何もない天井を見上げる。

気だるげにゆっくりと身体を起こすと、テーブルの上に置かれたかなり旧式の携帯電話へと手を伸ばした——。


 —— 影山 光一カゲヤマ コウイチ、27歳。

東京都練馬区在住。

池袋のシステム会社に勤め、2つ年下“らしき”彼女がいる。


 そんな彼にはある悩みがある。

それは——“何か新しいことが始まる”という現象を許せないこと。

新番組、新メニュー、新企画、さらには生命の誕生までも……。

彼は、ありとあらゆる“スタート”が許せなかった。


朝、目覚めるたびに彼は「また今日が始まってしまった……」と項垂れた。

何かが始まる気がするから顔は洗わず、朝食も食べない。


 彼は「おはよう」という言葉も望まない。

のそのそと乾燥機に向かい、皺くちゃのシャツを取り出し、不満げに着替える。

玄関に放り出された鞄を拾い上げ、大きなヘッドホンで世界からの情報を遮断し、外へと足を踏み出す。



◆◇◆



 彼が勤める池袋の会社では、影山の同期の坂本サカモトと、課長の水原ミズハラが話していた。

坂本は影山の数少ない友人だった。

それ故に、影山に関する相談は自然と坂本が引き受けることとなった。


「俺も不安なんだよ坂本……」

坂本よりも一回り年上の水原が、情けない声を出す。

「去年課長になってもうすぐ1年経つが、一向に扱いに慣れん。

上からも“何とかならないのか”って責められるし……。

そこに来て、もうすぐ新入社員が入ってくる。

胃が痛いぜ、まったく……」


水原はどうやら、会社内での影山の扱いに手を焼いているらしい。

「そう言われても、私は企画部ですよ? 部署違いです先輩」

坂本はお気楽に返した。


 影山は、水原が課長を務めるシステム部に所属していた。

「最近は何でもかんでもハラスメントだ。

先月、うちの部の山谷(ヤマヤ)が経理の女子社員にセクハラで訴えられたばかり……。

聞いたか?

山谷の話が本当なら、少し詳しく地元を聞いただけらしい。

もう会社の中で日常会話もままならん」


思い悩む水原に、坂本は笑ってみせる。

水原はそれを良しとはしない。

「笑いごとじゃないだろ。

もし訴えられたら、それが本当か嘘かなんて関係ない。

仮にでっち上げでも、尾ひれ背びれが付いて広まり、無実が証明される頃には誰も覚えてやしない。

そして“何か悪いことをした”レッテルだけが残される。

そうなったら俺の人生も終わりだ」


 まだ見ぬ未来に打ちひしがれる水原を、坂本は軽妙に励ました。

「考え過ぎですよ水原課長。

アイツの“第一回恐怖症(何事も最初の一歩を極端に恐れる奇妙な精神疾患)”は、まだ症例も少ないらしいですし、同期として仲良くはやってるつもりですが、あいつの悩みは正直、私にも理解出来ませんよ。

まあ心配しなくても、影山はきっと裁判の開廷すら嫌がるでしょうから、課長が訴えられることはないですよ」

坂本はまた笑い、水原はより“げんなり”した。


 「それでは……」と、坂本は自分の部署へと歩き出した。

「今度また飯奢るから、相談乗れよ!」と声を掛ける水原に、「いつでも誘って下さい!」と陽気に返す。



◆◇◆



 出社した影山は、受付でもヘッドホンを外さず、会社の人間とすれ違っても——例え上司であったとしても——挨拶をしなかった。

勿論、最初から許されていたわけではない。

入社してからの5年間で積み上げてきた仕事の実績と、精神科の診断書の賜物であった。


部署に入ってからもそれは変わらず、まっすぐ自分のデスクへと向かい、常につけっぱなしにされているパソコンの前に座る。

後は1日中、そこへ届いたエラー報告を黙々と修正していくのだった。


上司をはじめ、同僚からも避けられていたが、どんなに辛い言葉も影山の分厚いヘッドホンは通さない。

影山自身もまた、そこそこ大きな会社の様々なシステムエラーを、ほぼ一人で解決していく圧倒的な仕事量で黙らせていた。

会社の上層部は在宅勤務を勧めたかったが、影山の扱う業務の多くが機密事項にあたるため、この見栄えの悪い寡黙な仕事人を出社させるしか他になかった。


 「今日も快調だな」

水原のデスクの前に歩いて来た館山タテヤマは、淹れたての珈琲にフーフーと息を吹きかけながら話しかけた。

「お前は相変わらず呑気に低調だな」


 水原は嫌味を返す。

「呑気で何よりじゃないか。

彼のお陰で我がシステム部は安泰だ。

出来の悪い新システムも、“エラー”として彼に回せばピカピカに磨かれて返ってくる。

おかげで企画会議も順調順調。まさに影山様々だ」

館山は意を決して珈琲を口にしたが、まだ熱すぎたようで顔を歪めた。


「山谷の件があったばっかりだってのに、まったく……お前が代わってくれるか?」

館山は「嫌だね」と下唇を尖らせて拒否した。

「もうすぐ新入社員が入って来るんだ。

あの異様な光景を何て説明すれば良いんだよ」

「パーテーションで囲っちまうか?

影山としてもより集中出来るし、ほらアメリカのオフィスみたいにさ。

影山の所だけグルっと——」


 館山は楽しそうに答えながら、ようやく適温になった珈琲を喜んでいた。

水原は大きな溜め息をつき、小さく首を振りながら言葉を返した。

「馬鹿野郎。

最近はハラスメントを受けたやつじゃなく、見ていたやつが訴えるんだ。

“あの人は自分じゃ言えないんだ、あの人は良い人だから気付いてないんだ…、僕が、私が、何とかしなきゃ!”ってな具合にな」


器用に口調を変えて語る水原を、館山は愉快そうに笑った。

「笑いごとじゃないんだよ、まったく……」

呆れた水原は、またひとつ大きな溜め息をついた。


 勿論、この二人の会話も影山のヘッドホンを突き抜けることなどなく、影山はただ退勤時間に向けて黙々とキーボードを叩き続けた。



◆◇◆



 影山は順調に仕事を終え、無事に定刻を迎えた。

軽くひと息つくと、そそくさと荷物をまとめ、相棒のヘッドフォンを両手でしっかりと確認し、仲間を労わる言葉など一言も発することなくオフィスを出る。


帰路へと急ぐ影山の少し先で、坂本が壁にもたれかかっていた。

何やら左腕につけたタブレット型の腕時計を、右手人差し指でトントンと叩いていた。

(そうか…今日は水曜日か)と、影山は坂本に向けて親指を上げ、了解の合図を出した。


 約束や予定を組むことが極端に苦手な影山は、毎週水曜日を坂本との呑み、毎週金曜日を彼女との晩御飯の日と決めていた。


いや、正確には——そうさせられていた。

こうでもしないと、人前でヘッドフォンを外さず、ましてや連絡手段である携帯電話をまともに見ない影山との予定を組むのは、実に至難だったからだ。

坂本はこれを“社会との距離を保つトレーニング”だと言っていたが、影山からすれば迷惑であったが、しかし実際、救われるところもあった。


 「今日の店は事務の女の子たちが噂してた店で、前から気になってたんだ!

個室の予約取るのも大変だったんだからな!」

店に向かう道中、坂本は楽しそうに何かを喋っていたが、影山にその言葉は届くわけもなかった。


 店の個室に入ると、影山にビールを渡し、(取って良いぞ)とヘッドホンを外すジェスチャーをした。

影山はゆっくりとヘッドホンをテーブルに置き、乾杯などせずビールを口に運んだ。

感謝すら見せない影山を、坂本が気にする様子は全くなく、「山谷の話掴んできたぜ。ありゃ“白”だな。話の元凶は、やっぱり“噂のサチコ”さ」と話し始めた。


 長舌で話し続ける坂本と、黙々とビールを進める影山。

これが二人にとってはいつもの光景だった。


 「やっぱりお前と話す時は、本当に気が楽で良いよ。

言葉も選ばなくて良いし、反応も気にしなくて良い。

胡座もかけるし、シャツのボタンだって外せる。

特にお前が“人間”って所が良い!

こんなのを壁に向かってやりだしたら、救われないからな……」


 ——溜まっていたものを一頻り吐き終えてスッキリした様子の坂本は、ここで初めて影山の話題に触れる。

「それでお前は、最近どうなんだ?

今朝、水原さんと話したけど、相変わらず参ってたぜ?」


影山は大きく首を振ると、おおよそ初めて言葉を口にした。

「相変わらずさ。

どっちかって言うと悪くなってるかもね……。

最近は新番組の季節だからテレビも観てないし…、まあ毎年3月は同じ感じさ」


特段変化の無い症状を説明して、この日の呑みは終わった——



◆◇◆



 小学生の頃の影山は明るく活発な子供であった——

周りとのコミュニケーションも上手にこなし、信じられないかもしれないが、どちらかと言えばクラスの中心的存在であった。


走ることが好きだった影山は、中学に進むと共に陸上部に入り、長距離希望で練習の日々に明け暮れた。

毎日片道5キロ近くを走って通学していた影山にとって、中学生の大会における3キロの道のりはあっという間だった。


練習においても影山の速さについていける者は現れず、1年生にして、その年の秋の中学駅伝において第一走者に抜擢された。

皆、その事を不満に思わなかったし、影山も素直に喜んだ。


 そして迎えた10月の大会当日。

集合場所である中学校へ、いつも通り走って向かっていた影山は、道中些細な接触事故に見舞われた。


それは本当に些細な事故だった。

真っ直ぐな道沿いを走りながら、ほんの少し余所見をした際に、横から出てきた自転車に軽くぶつかった。

“跳ねられた”のではなく、軽く当たったくらいである。

「ごめんなさい、大丈夫?」と心配する中年の女性に、「こちらこそすみません、全然大丈夫です」と笑顔を返し、そのまま走り続けた。


ほんの少しズキッとしたが、走るのに大きな支障はなく、影山も気には留めず、わざわざ部活の皆にこの出来事を伝えはしなかった。

3年生たちにとっては受験を犠牲にした最後の大会であり、余計な心配は少しでも避けたかった。


会場で準備運動を始めた影山の左足は、少しだけ腫れていた。

だが、特段痛みも無かったため、やはりここでも気には留めなかった。


 そして、競技場のスタート位置に立つ。

周りの皆がそわそわしているのを感じた。


影山も同じだった。

しかし、ワクワクの方が勝っていた。


スタートラインの横に立つ競技委員が、真っ直ぐと右手を空に伸ばし、合図と共にピストル音が競技場内に響き渡る。

耳を伝い、軽快な炸裂音が、影山の頭の中にも響き渡った。



 影山の足は、びくりとも動かなかった……。



各選手が走り去って行く中、彼一人だけが同じ場所に取り残された。

影山の中の時間は止まったが、残念ながら世界の時間は止まることなく、3年生たちは部活を去った。


 幸いなことに、3年生も含めた皆が、影山に優しく接した。

顧問を含め、影山を励まし、「次はスタート出来る。スタートしてしまえば誰もお前に追いつけない」と言って聞かせた。

それは彼の両親も同様であり、この時から、影山の日常には【スタート】という言葉が溢れ、その言葉を聞く度に、影山の頭の中にピストル音が鳴り響いた。


 ひたむきに練習を続ける彼のスピードに追い付ける者は、相変わらず現れなかった。

皮肉なことに、影山が練習で結果を残せば残すほど、彼の周りには【スタート】という言葉が溢れた。


鳴り響くピストルの音は、日に日に大きくなっていった。


 部活動に熱心であった顧問の菊池(キクチ)は、影山に自信を付けさせようとあらゆる努力をした。

しかし、影山はただ走るのが好きなだけであった。

ずっと走り続けていたかった。

ずっとずっと走り続けて、足を止めさえしなければ、もう二度と【スタート】が現れない気がしていた。


 年末最後の練習の折、遂に事件は起こってしまう——

その日菊池が口にした【スタート】の言葉に、影山はキレてしまったのだ。


「いい加減にして下さい!

皆してスタート! スタート! って煩いんですよ!

僕はただ走りたいだけだし、走っているのが好きなだけです。

そんなに誰かと競い合いたいなら勝手にして下さい。

僕を巻き込まないでください!

皆が軽々しく口にする【スタート】は、僕にとって悪口であり、嫌がらせなんです!」


 この時、再び時間が止まったのを、影山は今でもハッキリと覚えていた。

熱意を注いでいた生徒の裏切りに、言葉を失う菊池の顔。

そして、そんな菊池を慕う部の仲間たちからは、非難の声が上がった。


菊池先生がこんなにお前の事を思っているのに……。

皆がこんなにお前に期待しているのに……。

3年生の最後を奪ったくせに……。


『何て自分勝手な奴なんだ!

【スタート】も切れないくせに……』


 ——その年が去り、新年を迎えると同時に、影山は家から出られなくなった。

新しい1年のスタートラインを前に、彼の足は再び、動かなくなった……。


 その日から影山は【スタート】という言葉を聞くと、炸裂音とともに激しい頭痛とめまいに襲われるようになった。

症状は徐々に悪化し、まず文字がだめになり、関連して【スタート】に紐づくこと柄もだめになった。


 そして影山はヘッドホンをするようになった。

視界からはメディアを極力消した。

そんな中でも唯一、SNSで連絡を取り合っていたのが、今の彼女・美編(ミア)だった。



◆◇◆



 坂本との呑みから二日経った金曜日、美編に指定された場所へと影山は向かった。

池袋東口の大通りから路地に入ったところに、古びたパブ『Pantera(パンテラ)』はあった。

奥に深く伸びた店内からカウンター、テーブル席、少しのテラス席。

アンティークな木目の内装に、オレンジのランプの灯りが揺れる。


 店内では常に荒々しい音楽が流れ、外国人客が集う賑やかな場所。

美編がなぜこの店を好むのかは分からなかったが、百キロはゆうに超えているであろう巨漢のマスターが出す料理は、なるほど全て美味しかった。


しかし、彼女が料理を口にすることはなく、ただ店内の様子や街行く人たちを微笑ましく眺めるのがほとんどだった。


 ——彼女は生まれつきの難聴で、耳は全く聞こえないらしく、二人は不登校の者達が集う掲示板の中で出会った。

影山が何とか社会でやっていけているのは美編のおかげであり、美編は常に影山を想い、励まし、微笑みを返した。


 「君が羨ましいよ」

面と向かい合った二人の会話は、卓上に置かれたタブレットで行われた。

「俺も耳が聞こえなければ、もう少し楽なんだけどな」


 美編は、軽く呆れた様子で“文字”を返した。

「まったく……そうやってずっと塞ぎ込んでるから、なかなか未来が見えてこないのよ?」


 美編はとても強い女性だった。

影山が知る限りでは、彼女はすでに幼少期に負ったであろうトラウマや、自らのハンデに対する悲観も払拭しているように見えた。

しかし実際のところ、彼女が過去について話したことはほとんどなく、全て影山の想像だった。


お互いの手すら繋いだことのない歪な関係性。

彼女のすべてを知ろうとするには、影山にとって美編は、時に眩しすぎた。


 「ごめん、そんなつもりはなかったんだけど……。

それにしても、美編はこの店が好きだね」


「ええ、だって何だか皆、楽しそうじゃない?

私にはどんな話をしているのかも、どんな音楽が流れているのかも分からないけれど、きっと素晴らしいんだろうなって。

光一君は聴くことが出来るんだから、この店でくらいヘッドホンを外せば良いのに」


「ヘッドホンを外しても、聞こえるのは僕には分からない音楽と、僕には分からない言語だよ」


美編はため息をつきながら肩を落とした。

「私は光一君がそのヘッドホンから解放されるところが見たいのに。

それにきっと……それはもうすぐよ」


 影山は薄っすらと笑って返した。

美編は、自分には未来が視えるかのような不思議なことを言う。

それに彼女は、影山に対して、自分の輪郭すら触れさせることはなかった。


以前、影山が美編に名字を聞いた時には「私に名字なんてないわ。私は美編。ただそれだけよ」と言われた。

三姉妹の末っ子であることは聞いたことがあるが、「姉たちとは意見が合ったことがないの。二人とも過去や今の話ばかりで、ちっともつまらない。私は未来が好きなの」と言っていた。

影山はそんな彼女の未知なところに惹かれていった。



◆◇◆



 カウンターの奥ではマスターと常連の数人が話していた。

「マジで気味が悪いぜ。マスターもよく受け入れてるよな」

常連らしき男が口にすると、「こんな時代さ。皆それぞれ悩みもある」と返した。

「でも入口のテーブルにあんなのが居たら、客も入って来づらいぜ? ずっとタブレットいじって、それに──」


 また違う客の言葉をマスターは遮った。

「気にするな。俺たち……いや、俺は何においても中立だよ。

人間ってのは神に自由を許され、神によって制限される。

何とも哀れな生き物なのさ」


「出たよ、またマスターの“神のお告げ”だ。

そうだな、あんたは偉いよ、まったく」


 マスターのイグニスは、細いカウンターにどうやって納まっているのか不思議なほどの体格。

背丈は2メートルを超え、あまりにも大きな目で皆を見つめる。

彼の意思に反旗を翻す者などいるはずもない。


常連たちもこれから楽しい夜の仕切り直し……と、行きたいところだったが、入口に現れた男に、勘弁してくれよと皆が項垂れた。


 その男は目の下に大きなクマを引っさげて、まっすぐカウンターへと向かって来た。

「クレメンスだ。また陰気な奴が来やがったぜ」


そう口走った男の肩に手を回し、新加入の男が声を発した。

「つれない事を言うなよマニー。楽しい夜はこれからさ。

何なら、俺が奢ってやっても良いぜ」

クレメンスの低く鋭い声は囁くようであり、しかし不思議とよく通った。


死神を具現化したような不吉なオーラを放ち、目は常にぼんやりと霞んでいた。

帰ろうとした常連客・マニーは、何かを諦める。

「マスター、やっぱりもう一杯だ。勿論、俺の伝票でな」


クレメンスはニヤリと深く笑うと、カウンターの一番奥に陣取った。

「イグニス、ウイスキーを。

そうだな…、マニーとの素晴らしい夜だ。

スペインの風を感じたい。“ハラン”をくれ」


 グラスを受け取ると、マニーたちの方へと軽く持ち上げ、嫌味に笑った。

「最近はどうだい、イグニス」

周りの反応など気にも留めず、クレメンスはイグニスに話しかける。

「まぁぼちぼちだ。変わったこともない。

やはりこの街はとても中立的で、俺には居心地が良い」


イグニスの返答に「そうか」と適当な返事をし、ウイスキーを軽く口に流し、ちょいと入口に傾けた。

「あれは何だ?

変わったやつだな。常連なのか?」

クレメンスは影山を見ていた。

やはりこの店でヘッドホンを外さず、タブレットをいじる男の姿は、万国共通で異様だったらしい。


「あぁ、あれはまぁ、運命だわな。直に分かるさ」

イグニスは含みのある返答をした。

「そうか。俺には“まだ”分からないな」と返し、クレメンスはまた軽くウイスキーを口にしながら、淀んだ瞳で影山を見つめた。



◆◇◆



 影山は、美編と話している時だけは、何も怖くないように思えた。

世間の悩みや、人間の抱く心の闇など、寄せ付けない美しさを感じた。

美編の声色が聴けるのであれば、喜んでこのヘッドホンを外すのに——と、影山は心からそう思った。


 「そろそろかしら?」

唐突にタブレットへと打ち込まれた美編の言葉を、影山は理解出来なかった。

まだ帰るような時間でもないし、話も途中……。


「そろそろ光一君のヘッドホンを外す時が、差し迫ってる気がするの」

続いた美編の言葉も、やはり影山には分からなかった。


「どうしてそう思うんだい?」

影山は質問した。


「だってもう、“逃れられない”んじゃないかしら?」


 タブレットに打ち込んだ文字を見せながら、不意に美編が口を動かした。

影山は慌ててヘッドホンに手を掛けたが、間に合わなかった。

優しく微笑む美編に、影山は揶揄われた恥ずかしさから少しムッとした。

どうやら彼の気持ちは見透かされているようである。


「そんなに私の声が聞きたい?」

続いたその文字に、影山は戸惑った。


確かに美編の声を聞きたい気持ちはあったが、それは触れてはいけない輪郭な気がした。

自分にとって人生で最後の望みのような、美編に会えなくなってしまうような、不気味な開放感があった。


——そして何よりも、“何かが【スタート】してしまう”気がして堪らなかった——


 しかし、しばらく考えた後に決意を固め、影山は深く頷いた。

美編は、今までで一番にこやかに微笑みながら中腰に立ち上がると、影山の方へと顔を近づけた。

影山はそれにシンメトリーするように、同じく顔を近づけた。


未経験の距離。

花畑のような香りが鼻を擽る。


 二人のシルエットが重なる寸前、美編は影山のヘッドホンを優しく外した。

影山の耳には、騒がしい音楽と知らない言語の会話、街を行き交う人々の喧騒が一気に流れ込んできた。


そして、美編は影山の耳元で優しく囁く。

周りの雑音を全てかき消す清らかに澄んだ声が、吐息と共に吹き抜ける。

影山の中の全神経が、今まであらゆるものを拒み続けてきた耳へと集中する。



 「スタート」



 刹那、影山の頭の中にけたたましい炸裂音が鳴り響き、次の瞬間には、影山は店の外へと走り出していた。


急に走り去る影山を見て、クレメンスは慌ててマスターに伝えたが、イグニスには全く慌てる様子がなかった。


「言っただろう。運命さ……」

そう答えながら、イグニスは店の奥の受話器へと向かった。



     ◆◇◆



 影山は無我夢中で『Pantera』の向かいのビルの非常階段を駆け上がっていた。

影山の中に溢れていたのは恐怖や嫌悪ではなく、子供の頃に純粋に走っていた時の楽しさや快感であった。


いや、そのどれよりも素晴らしい開放感であった。

今までヘッドホンで塞いでいた世界の音が、今や艶美なジャズのように流れ、とても官能的でセクシャルであった。


足が階段を蹴るたびに、影山の身体に電気が走り、頭を突き抜けていった。

もうこれからは【スタート】なんて言葉に怯えることはない。

ましてヘッドホンなど必要ない。

そんな予感に呑み込まれていった——


 ビルの7階まで駆け上がった影山の前には、本来厳重に鍵がされているはずの扉があったが、何故か影山の到着を待っていたかのように、静かに開いた。

屋上に出た影山は足を止め、大きく手を伸ばし、夜空を見上げた。


 影山が長らく忘れていた開放感が、そこには広がっていた。


(なんて素晴らしいんだ。

今なら誰よりも早く走れそうな気がするよ。

ありがとう、美編。

君がこの幸福感を教えてくれたのだから……)


心の中で叫んだ影山は、ゆっくりと深呼吸をしながら、おもむろに足で線を引く仕草をし、その見えないスタートラインに右足のつま先を合わせた。

そっと目を瞑り、耳を澄ませ、もう一度美編の声を思い出した。



 「スタート」



再び激しい炸裂音が響くと、影山の身体は快感に包まれた。


影山は再び走り出した。


彼を止められる存在は、もうどこにもいなかった。


スピードを一切落とすことなく、自分の背丈よりも高いはずである屋上の柵をゆうに飛び越え、影山の身体は路上へと落ちていった——



◆◇◆



 路上に潰れた影山の身体を中心に、悲鳴が溢れた。

あまりの惨事に目が離せなくなってしまった者、恐れながらもカメラを向ける者、恐怖のあまり逃げ出す者——様々であった。


そんな中でも美編は平然と座っていた。

目の前に横たわる影山の身体を見下ろしながら静かに微笑む。


「良いスタートだったわ。

でもね光一君。

“あなた達”にゴールなんて無いのよ」


哀し気に小さく溢すと、美編はゆっくりと立ち上がり、人だかりを気にもすることなく、夜の街へと消えていった。


 無論、『Pantera』の店内もパニックだった。

マニーたちは大騒ぎしながら入口へと向かい、カウンターにはマスターとクレメンスだけが残された。


「あそこには何がいた? あの青年は何と会話をしていた?」

どうやらずっと、周りの人間たちには、美編の姿は見えていなかったようだ。


「何度も言わせるな。運命だ」

クレメンスの問いに、イグニスは気怠く返した。


 「そう無碍にするなよ、イグニス。

俺だって少しは“視える”方なんだ。

教えてくれ、あの青年に何があった」


イグニスは懇願するクレメンスを訝しげに見つめ、「お前にはあまり関わらせたくないんだがな」と前置きをしながら答えた。


「あんたが“視える”次元の存在ではない。

俺はずっと言っている。

あの青年の前に座っていたのは運命そのもの。

彼は女神の声を聞いたのさ。

さぞ幸せだっただろうよ」


イグニスの返した答えに、クレメンスは全く納得できなかったが、「そうか」と小さく返しながら、ウイスキーを片手に人混みに目を移した。



◆◇◆



 時を同じくして、とある場所で悲鳴のような産声を上げながら、赤子が生まれた。

元・影山であった魂は、今一度、人生を【スタート】させた。

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スタート・ハラスメント 三軒長屋 与太郎 @sangennagaya_yotaro

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