第2話:ベベルギアの囁き

今日やることは、実のところ一つもない。

昨日、全ての仕事を終え、予定表は真っ白だ。長年勤め上げた設計局を辞めてからというもの、カレンダーの数字はただの記号に成り下がっていた。


ガレージのシャッターを上げると、埃ひとつない床の中央に、赤い猛獣が蹲っている。

ドゥカティ・900SS。

七十年代、ボローニャの職人たちが情熱と偏執的なまでの美学を注ぎ込んだ、ベベル駆動のLツインだ。


今のバイクの多くは、カムシャフトを回すのにゴム製のベルトや金属のチェーンを使う。だが、こいつは違う。精緻に組まれた「ベベルギア(傘歯車)」を介し、硬質なシャフトが回転を伝える。時計のムーブメントをそのまま巨大化させたような、狂気じみたメカニズムだ。


俺は椅子を引き、しばらくの間、その造形を眺めることにした。

「今日は、あの峠の茶屋まで行くか」

頭の中に、九十九折のカーブが浮かぶ。

「いや、あそこは路面が荒れている。この繊細なフォークには酷だ。いっそ、隣町の洗車場まで転がして、また磨き直すだけで終わらせるか」


現役時代の俺なら、最短ルートと平均速度を計算し、一分の狂いもなく目的地へ到達しただろう。だが、このイタリア製の機械と向き合う時、効率という言葉は意味を成さない。


こいつは、設計者の論理ではなく、金属の機嫌で走る。

特に、エンジンが温まるまでの時間は、対等な対話が必要だ。


俺は重い革ジャンを羽織り、シートに跨った。

デロルトの大型キャブレターに備わったチョークを引く。ガソリンの匂いが、冬の名残を含んだ空気と混ざり合う。


セルボタンを押す。

キュ、キュ、キュ……ドカン。

一瞬の沈黙の後、背後から雷鳴のような排気音が炸裂した。

コンクリートの壁が震え、棚に並んだ工具たちが微かに共鳴する。


だが、これで終わりではない。ここからが本当の「アイドリング」だ。

Lツインのシリンダーに火が灯り、ベベルギアが噛み合い、熱が循環し始めるのをじっと待つ。

スロットルを急かしてはいけない。冷え切ったオイルが隅々まで行き渡る前に回転を上げれば、この美しい時計仕掛けは一瞬で砂を噛んだように拗ねてしまう。


カシャカシャ、カシャカシャ。

乾式クラッチ特有の、金属がぶつかり合う乾いた音が、エンジン音に混じって聞こえ始める。

「聴こえるか」

俺は誰にともなく呟く。

「この音が安定するまでが、お前と俺の、今日という日の契約時間だ」


少しずつ、エンジンケースが熱を帯びてくる。

シリンダーヘッドから伝わる熱気が、膝の内側を温め始めた。

それに呼応するように、俺の中の「どこかへ行きたい」という曖昧な欲求が、少しずつ形を成していく。


海へ行くわけでもない。誰かに会いに行くわけでもない。

ただ、この高精度なギアたちが、一分の隙もなく噛み合い、回転し、俺を世界の果てまで運んでくれるという「確信」が欲しいだけなのだ。


音の角が取れ、リズムが一定の旋律へと変わる。

暖機終了。


俺は左手でクラッチレバーを握り込んだ。

カシャリ、という冷徹な手応え。


さあ、どうする。

走り出すか。

それとも、最高の音を確認しただけで、満足してエンジンを切るか。


足元で、ベベルギアが静かに囁き続けている。

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