つむじ風な日常――バイクの話をしてもいいだろうか
五平
第1話:デコンプの溜息
今日やるべきことは、本当は三つある。
郵便受けに溢れた不要なダイレクトメールをシュレッダーにかけること。飲みかけで膜の張ったコーヒーを片付けること。それから、一晩中俺を縛り付けていたラフスケッチの端に、妥協のサインを書き込むこと。
だが、俺はそのどれも選ばずに、勝手口からガレージへ滑り込んだ。
コンクリートの冷気が、寝不足で火照った頭に心地いい。そこには、俺の人生において最も美しく、最も手のかかる鉄の塊が鎮座している。
ヤマハ、SR400。
四半世紀以上も姿を変えずに作り続けられた、単気筒の標本のようなバイクだ。
今のバイクなら、指先一つでセルボタンを押せば、電子制御が勝手に最適な混合気を作り、一瞬で目覚めるだろう。だが、こいつにはそんな親切心は備わっていない。
俺は使い古された軍手をはめ、冷え切ったシートに指を滑らせた。
アルミのエンジンケースは、冬の朝の光を鈍く跳ね返している。まずは燃料コックを「ON」に回す。カチリという小さな手応え。重力に従ってガソリンがキャブレターへと流れ落ちる、その目に見えない動きを想像する。
左手の親指で、デコンプレバーを引く。
シュッ、とシリンダーから圧縮が抜ける音がした。この瞬間が好きだ。
巨大な注射器のようなシリンダーの中から、古い空気が吐き出される。それは、この機械が「準備はできているか」と問いかけてくる合図でもある。
キックペダルを引き出し、ゆっくりと踏み下ろす。
重い。
冬の朝のオイルは、まるで蜂蜜のように硬くシリンダーにまとわりついている。ピストンが上下するたびに、金属同士が密密と擦れ合う感触が、ブーツの底を抜けて脛にまで伝わってきた。
一度、二度。空キックでオイルを回す。
「今日は、海まで行くか」
独り言が、冷えた空気の中に白く溶けた。
「いや、あそこの角のパン屋で、焼きたてのクロワッサンを買うだけでいい。あるいは、どこにも行かずに、このままカバーを掛け直したっていいんだ」
予定という名の自己対話。
走りたい自分と、この静寂の中に留まりたい自分。
SRのエンジンは、そういう煮え切らない感情を見透かすのがうまい。こちらの覚悟が中途半端だと、こいつは平気でバックファイヤを食らわせ、俺の足首を跳ね上げてくる。
上死点を探す。
キックペダルが一番重くなる場所。窓から覗くインジケーターに、銀色の印が顔を出す。
ここだ。
ピストンが天辺に到達し、爆発を待つ一瞬の静止。
俺は深く息を吐き、右足に全ての体重を乗せた。
迷いを断ち切るように、一気に床まで踏み抜く。
――ドスン。
腹の底を直接殴られたような衝撃。
直後、湿った爆発音がガレージの壁に反響した。
ドッドッドッ、ドッドッドッ……。
不規則だった鼓動が、数秒かけて一定のリズムに整っていく。
マフラーから吐き出される白い煙が、朝の光に照らされて、つむじ風のように渦を巻いた。
エンジンの熱が少しずつ、アルミのフィンへと伝わっていく。
数分前まで死んでいた鉄の塊が、今は生き物のように熱を持ち、微かに震えている。この振動を股ぐらに感じているだけで、不思議と「仕事の続き」なんてどうでもよくなってくる。
ヘルメットを被る。シールドが自分の吐息で少し曇る。
ギアをローに入れるか、それともキルスイッチを押して家に戻るか。
サイドスタンドを払う。
ガチャン、という金属音が、この儀式の終わりを告げた。
俺はスロットルを軽く煽った。
乾いた吸気音が、決断を促すように響いた。
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