透明な自分
なんば
輪郭
僕は透明人間だった。
輪郭を持たず、色もなく、手を見ても地面が見えるだけ。
生まれたときからそうだったのか、あるいは違っていたのか、記憶が定かではなく自分でも分からなかった。
ある時には、街ゆく人々に訊ねたりもした。
「突然すみません、僕が見えますか?」
その女性は考えることすらしなかった。
「見えません。代わりに奥にいる病気の犬なら見えます」
振り向くとそこには確かに病気の犬がいた。
「やっぱり、見えないんですね」
女は不意に水をかけられたような表情で言った。
「なぜ聞いたのですか?当たり前の事でしょう」
そういうと、女は人ごみの中へ溶け込んでいった。
この頃から、僕は透明であることに疑問を持たなくなっていた。
実体を持たないことを考えることに意味を見出せずにいたからか、それとも意味を持つことが怖かったのかもしれない。
回想しながら郊外を歩いていると、透き通った川が目についた。
覗けば底まで見えるくらいに、不純物の一つもなかった。
僕は憂いた。
同じ透明なのに、なぜこうも見え方が変わるのだろうか。
大袈裟に足を振りかざすと、勢いよく地面に叩きつける。
それでも胸底がこしょばゆいので、目いっぱい澄んだ空気を吸い込み、吐き出した。
これで少し楽になった。
やはり、こういう時は深呼吸に限るな。
ゆっくりと足を動かし始めると、空から何かが落ちてきて、肌の上ではじけた。
見上げると、くすんだ雲が空を覆っている。
いつも邪魔をするあの埃が嫌いだった。
出来ることなら、掃除機で吸い取って捨ててやりたいぐらいだ。
透明でも、この雫は避けられないらしい。
僕は足を早めなかった。
雨が身体に輪郭を持たせているのを、僕は心地よく思ったからだった。
俯きながら歩くと、水溜まりが見える。
踏み潰しながら物思いにふけっていると何かに突き当たった。
目線を上げると、家の前にいた。
「いってきまーす!」
無人の部屋にそう告げ、辺りを見渡すと、昨日の雨に反射し世界が光を纏っているように見えた。
それが目に刺さり、たまらず下を向く。
少し歩いて目線を上げると、そこには高級な鞄を肩にかけた人間がのそのそと歩いている。
それが随分と滑稽に見えた。
布切れで自分を誤魔化そうなど、浅はかだ。
まあ、僕も傍からみたら同じようなものだろうが。
佇んでいるビル、ボロボロなアパート、蟻の巣のような建物を横目にどんどん進んでいく。
景色が段々変わってゆく様はいつ見ても、終わることのない退屈な映画のように思えた。
そんな映画は、誰かが終わらせなければならない。
そう思い、壁に石ころを蹴ってみたが「こんっ」という音がするだけだった。
それを見ていたのか、少年がこちらを指さしている。
僕はまた石を蹴って見せた。何度も。何度も。
夢中になっていると、少年はいなくなっていた。
昨日の川を見に行くと、やはり濁っていた。
枯れ木が流れているのをみて、緑のたくさんついた大きな大木を思い浮かべた。
誰もいない森の中で、独り座り込むその姿が、なぜか胸に残った。
その感傷に浸っていると烏の鳴き声がするので、右を向くとそこには人影があった。
僕と同じで、川を覗いているらしい。
近づくとどうやら老人で、迷ったが声を掛けた。
「濁った川が好きなんですか?」
だが返事はなく、黙って立っているだけだった。
どうせ見えないのだろうと思い、その場を去ろうとすると、声が微かに耳をくすぐった。
「……犬でね」
川から目を離さず、老人は言った。
「昨日、死んだよ」
少し間があって、
「呼ぶと、必ず来てたんだが」
それだけだった。
その言葉が僕に向けられたのかは疑問であったが、僕は目を輝かせながら老人を見つめていた。
皺だらけの顔に、骨が抜け落ちたような身体、首元で場違いに光るネックレスが揺れていた。
目を覗き込んでも、そこには何も映っていなかった。
「気の毒ですね」
僕がそう言うと、老人は背中を向けて何処かへ歩き出してゆく。
しばらくの間、ふらふらと霞んでいく背中を眺めていた。
家へ帰る途中、昔ペットを飼っていたのを思い出した。
名前は思い出せなかった。
ただ、短い足で駆け寄ってくる姿だけが、やけに鮮明だった。
それをからかって、笑っている僕が脳裏をかすめる。
ひどく懐かしい感覚があった。
今思えば、あんなに短い足でよく歩けたもんだ。
明日も川を見に行こう。
そう決めると空が次第に光を失い、歩けば歩くほどに世界が輪郭を失ってゆく。
この瞬間だけは、透明であることが許された気がした。
翌日、窓越しに雪が降っているのが見えた。
白く見え、地面へ落ちると水になって消えていった。
僕は昨日の川を思った。
雪が降ると川は濁ってしまうのか、疑問だったからだ。
普段よりずっと着込むと、覚束ない足に鞭を打ち付け、ドアノブを捻った。
外は深々とした世界で、自分だけがいるような、もしくは自分だけが存在していないような、そんな感覚があった。
これが存在の証明だと言わんばかりに思い切り足跡を残すと、街へ出た。
街にも誰もおらず、白さをかぶった世界だけが広がっていた。
寒さのせいだろうか、街には人の気配がなかった。
雪を見るのは、ずいぶん久しぶりな気がする。
白い世界を前にして、なぜか胸が軽かった。
足は依然として、何かを期待しているかのように早々と動いていた。
足はそれを知ることはできないだろうが。
郊外へ出るとあの場所を見ながら、顔を撫でまわす白さを払いのけ進む。
近くまで来ると、川は凍っていた。
それは僕にとって存外で、目線は違う場所へ向いていた。
あの老人がまた立ち竦んでいるのが見える。
犬はいない。首元の石ころで出来たネックレスが、やけに光っていた。
僕は考えるより先に、何かに会いに行こうとしていた。
「また川を見に来たんですか?」
何も言わなかった。
「僕も昔犬を飼っていたんです」
何も言わない。
立ち竦んでいるだけで、マネキンのようだった。
その瞬間、胸底で動悸がしてきた。
深い低音で響くそれは何かを訴えかけているようで、目を見開き震える手を老人の首元に手を伸ばしてみせた。
僕はずっと称賛よりも、罵倒が恋しかったんだ。
そのどちらも向けられないのなら、せめて何かを奪ってみたかった。
留まることを知らない渇きに身を任せ、ネックレスをゆっくりと首から盗ると、僕は老人に背を向け走り出した。
振り向くこともせずに街へ戻ると、そこは静寂の世界で、空にネックレスをかざしてみせた。
街灯の明かりは太陽のようにみえ、それに照らされた雪はキラキラと歌っている。
世界の潮流から外れた僕は、跳ねながら、くるくる回り、見せつけるように笑った。
ああ、愉快だなぁ
透明な自分 なんば @tesu451
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