吸血鬼のあの子は暖かい

月野 咲

最終章 暖かい夏の朝

〈最終章〉



   七月二十九日 二十一時


 その日は全ての用事を終わらせると泥のように眠った。起きたら完全に太陽が眠っていて夜になっていた。時計を見ると時刻は二十一時過ぎ。自室から出て彼女の部屋に向かう。ドアをノックすると「入っていいよ」と湿ったような声が聞こえる。

「おはよう」

「おはよ。気持ちよく寝てたね」

 彼女の隣に座り首元をはだけさせる。

「分かってるね」

 そういって彼女は首元に噛みつく。これをするのも多くても三回程度と考えると感慨深い。

「今日もありがとね」

「これが俺の唯一の仕事だから」

「感謝しないとだ」

「たいした仕事じゃないよ。誰でも出来る仕事だから」

「……そうでもないけどね」

 特に言い返す必要はない。いつもの会話だ。

「なぎさは寝たの?」

「ちょっとだけね」

 いつもよりも気まずい。彼女と一緒にいれる時間の少なさがそうさせているように思う。

「もうすぐで三十日だね」

「早いな。もう一か月経ったんだ。あの訳の分からない実験からそんなに経ったのかと思うと早く感じる」

「ね。あれが無かったら会ってないもん」

 あの時の光景は未だに目に焼き付いている。目蓋を閉じずともその光景が浮かぶ。

「今考えてもあり得ないよね」

 何度考えてもあの時の自分は、どうかしていたと思う。でも、悪くはないと思う。

「あり得ないけど意外と仕組まれたものなのかも」

 意味が分からないので眉を上げて彼女の言葉の続きを促す。

「私って何十年と生きてきてるわけじゃん?」

 頷く。

「だからまあ神様? っていうか運命?っていうかそういうものがあるって感じる時あるんだよね。生きてから死ぬまで全部決められてるんじゃないかってくらい」

 布団をどけて彼女は続ける。

「人間だけ生きて死ぬまでを幸せに生きる事を約束されているんじゃないかなって思う。でも、人間以外はそうじゃないと思うんだよね。生きてから死ぬまで全部決められて、幸せも不幸も全て決められてる気がする」

「神ってそんな不平等なものなのかな」

「あんまり神様の愚痴を言ったら死んだあと人間にさせてくれなさそうだから大きな声では言えないけど、人間ほど優遇されてる種類ってないじゃん? だから特にそう思う」

 言われてみればそう感じる。なんでもできるし、何にでもなれる。気に食わない奴がいたらいじめることが出来るし、自分の目的のために、吸血鬼を半殺しにして捕まえようとしてもいい。

 俺が何も答えられずにいると、彼女はそれを察したのか話す。

「でも私は何にしても幸せだと思うな。捕らえられたり殺されたりしないで死に時を自分で選べて、やりたいこともやって死ぬことが出来るんだから、最高の生き様だったね」

「幸せだったのなら俺は十分だよ。この一か月間、なぎさと生きてきた甲斐があった」

「本当に感謝だ」

 彼女と話している間に日付が変わった。三十日になった。ついに彼女と一緒にいれる時間が一日だけになった。

「私が死んだ後は部活行くの?」

「…分からない。今は」

 大学に行って将来の選択肢を増やすべきなんじゃないか、とすら今は思う。決められた人生に抗えるのは俺だけだ。でも今は考えたくない。

「そっかあ」

 彼女は俯いて擦れるような声を出す。

「なぎさに会っていなくても、結局、行かなかっただろうからなぎさのせいじゃないし寧ろ俺的にはありがたかったよ」

 彼女と話していると、すぐに時間が経つ。外が明るくなっている事がわずかな隙間から見えた。太陽の光をもう一度見る時は彼女が死ぬ時だ。

「もう少ししたら寝ようかなー」

 彼女は何気なく言った。

「寝るの?」

「何その寂しそうな声。じゃあ一緒に寝る?」

 布団を開けて誘う。

「寝ないよ。寝相良くないし」

「そっか。じゃあ私が寝るまで手握っていてよ」

 彼女は手をこちらに差し出す。

「握っていればいいの?」

 僕がそう言うと、彼女はふと笑って俺の手を握った。冷たい手を握っていると、俺の熱が冷めていく。感情の昂ぶりが抑えられていくような気がして、強く握った。

「うん。そこに居てくれたらいいよ」

 彼女が寝るまで俺は、そこに居た。彼女の手を握ったまま時間が過ぎるのを待った。彼女でさえも死ぬことは怖いのだろうか。その恐怖が、俺の手を握るだけで軽減されるならいつまででも手を握る。

数分後に彼女から寝息が聞こえた。太陽の光の切れ端が部屋の端っこに触れる。

 初めて太陽の光が嫌いになった。

 自分も吸血鬼というものに近づいてきているんだろうか、なんて事を思った。彼女も言っていたけれど、吸血鬼はまだ何も分かっていない。何があってもおかしくない。そもそも彼女が言っていた吸血鬼になる定義も曖昧でどこまで言ったら両想いになるのだ。

 ふと、彼女の寝顔を見たいと思ったけれど、彼女は布団にくるまって寝ている。少しの太陽の光さえ駄目なんて意味が分からない。最も美しい朝陽を見ることが出来ないのはなぜなのだろう。

神様がもし居るのならなぜそんな悪戯をするんだろう。



 七月三十日の十九時


 布団がもぞもぞと動いたと思ったら布団からひょっこりと頭が出てきた。

「長いこと寝てたね」

 彼女が寝ている間にご飯を食べ終わってもう準備は終えた。彼女を見送る気持ちは作ったつもりだ。

「最後の最後でたっぷり寝たかったから」

「それならまあいいけど」

 電気に混じっているせいで分かりにくいが、斜陽がベッドを照らしている。その部分から彼女は逃げるかのようにベッドの端っこに座る。

「腹減ったんじゃないの?」

「減ったー、けどちょっと我慢しようかな。死ぬ一番最後にたんまり吸いたい」

「好きなものは最後に残しておくタイプなんだね」

「この一か月に一気に詰め込んで死ぬんだからそうなんじゃない?」

「まあ、確かに。ていうか俺ってなぎさの事何も知らないな」

「私のことを一番知っているのがけーちゃんだと思うけど。今生きている人間の中で、っていうか吸血鬼も合わせても一番私のこと知っているんじゃない?」

「……そうかな」

すぐに答えられなかった。彼女を知っているのは俺一人だけだから知っているに過ぎない。

「あんまり嬉しくなさそー」

「いや、嬉しいけどさ。俺以外居ないでしょ?」

 彼女はふふと恥ずかしそうに笑って続ける。

「そうだね。お恥ずかしながら」

「だから足りないんだよ。俺がなぎさの事を覚えていなかったら誰がなぎさを覚えておくの。なぎさのことを生かし続けれるのは俺だけなんだから」

 綺麗ごとは嫌いだ。だけど彼女が生きていた事を覚えている人が、誰も居ないなんてここに生きた証明にならない。

「じゃあ今から私の事を全部話す? 生まれてから今まで」

 彼女は冗談のように笑いながら言ったけど、俺はそうして欲しかった。今更かもしれないけれど、それでも知らないよりは知った方が良いはずだ。

「教えて貰えるなら教えて欲しい」

「お。本当に? じゃあ教えてあげるか」

 彼女は少し自慢げに言う。

「そうだなー。でも殆ど忘れているんだよね。人生の大半が仕事して逃げてただけだからなー。けーちゃんに話せることなんて死の話しかないや」

 まだ出てきた死生観の話。

「まあ友達が死ぬとか家族が死ぬとかそういうのを経験したらいろいろ変わるの。けーちゃんもこれから経験すると思うんだけど…。私も最初は辛かったと思う」

「……思う?」

「もう何十年も前のことだから死んだ時どんな感じだったか忘れた。段々と慣れるんだよねー。一週間? 一か月? くらいは引きずってた気がするけど、お母さんとかが死んだ時は次の日にはいつも通り生活してたからさ。私ももちろん死にたくないって思ってたの。でもいろいろな死を目撃したり、何度も死にかけたりしてたらいつ死んでもいいや、って感じになっていろいろなことを許してあげれる」

 返事をしないでそのまま続きを促すかのように彼女の目を見つめる。

「けーちゃんがどう思っているのか分からないけど、死ぬときは誰かと居たいなとか思ったり」

 彼女の死が刻々と近づいている。それだけでの喉が締まっていく。

「やっぱり…辛いのかな」

 出した声は普段よりも小さくなる。

「けーちゃんが私の死にどれだけ堪えるのか分からないけれど辛いんじゃない? Kちゃんは特に苦しいかもね」

 彼女は軽く笑いながら言う。

「その辛さって必要なの」

 彼女は素っ頓狂な表情でこちらを見る。

「いつかは必ず味わうから。もし、私が今から死ぬのを辞めて、けーちゃんが死ぬまで一緒に生きていくとしてもそれは起こることだから。けーちゃんの大事な人とか家族とか親友が死んで同じことが起きるからそれを少し早くに経験するだけ。それに……」

 彼女は一瞬、目を細めて口を閉じた。

「私ももういいかなって」

 口の中で抑えられないものが飛び出てきているようだった。

 何があったのか聞きたくなった。でも、

今まで我慢していたんだから、あと数時間我慢すれば彼女は何の後悔も逝ける。




 七月三十日 二十時



 

 太陽は落ちて月が昇る。彼女にとって最後に見る月だ。

 隣に座った彼女に体を寄せた。

「何ー。どうした?」

「寂しくなった」

 彼女に近づいていないと、口から勝手に言葉が出てきそうだった。奥歯を噛みしめるだけでは耐えられない。

「急に言うじゃん」

 彼女は照れながら答える。彼女の体が少しだけ温かくなったように感じた。

 彼女も先ほどよりも体をこちらに寄せる。横に伝わる彼女の冷たい体は温かく感じる。

「私の体どう?」

「どうって何。普通にいつも通り冷たいよ」

「けーちゃんは温かいよ」

「なぎさに比べたらそりゃ温かいよ。平熱」

 彼女は体をもっと寄せて殆ど彼女は俺に体重を預けた。重さがある。だから心地よかった。

「こうやってしてると眠たくなってくるなー」

彼女が寝過ごしたらもう一日彼女と過ごすことが出来る。もしかしたら寝過ごしたら死ぬことを考え直してくれるかもしれない。それを期待した。

でも、もし今寝て太陽が昇る直前に起きたらどうしようか、とも思う。その時に俺も寝てしまっていたら彼女は一人で死んでしまうかもしれない。その時の後悔を考えると寝させたくなくなる。

「さっきまで寝てたのに?」

 笑いながら言う。

「どれだけ寝ても眠たくなる。元々私ロングスリーパーなんだよ。だって九時間は寝たい。一日中寝てたことだってあるし」

「寝過ぎ。それって吸血鬼だから?」

「吸血鬼だからなのかな? 吸血鬼の中には一週間寝てる、って人も居たな」

「じゃあ吸血鬼基準で考えたらショートスリーパーじゃん。なぎさは最高でどれくらい寝たことあるの?」

「どれくらいだろ。…三日間くらいかな?」

「人間基準で考えたら大事故とか大手術の後くらいしかそんなに寝る事ないよ」

「それでいったら太陽に当てられたり、捕まって殺されそうになった時は一年以上、寝る事もあるよ」

「その間、何も食べなくても大丈夫なの?」

「大丈夫かな。乾眠っていう状態に入って飲まず食わずで最高五年? くらいは生きていける。その分、かなりの量の食事が必要にはなる。協力してくれる人間が居ないと、かなりしんどいかな。動物の血でもなんとかはなるけど、治療期間として五年以上は正常に戻らないって聞いた」

 彼女がもし捕まっていたら研究されるだけ研究されて殺されるのだろう。もし逃げることが出来たとしても何年間も眠り続ける事になる。

「そうなんだ。捕まらなくてよかった」

「だね。捕まってたら大変なことになってたかもなあ。何されてたと思う?」

「分からなけれど、血液とかどのような体をしているとかそんなのだと思うけど、まあ生きて帰れないとは思う。あいつらはそういう連中だよ」

「どうだろうね。意外ときついだろうけどね」

「きつい?」

「捕えるって事は永遠と辛そうな声を聞くって事だよ。多分罪悪感に耐え切れないんじゃないかな」

 彼女が捕まらなくてよかったと思った。



七月 三十一日 零時


 彼女の最後の日だ。

「最終日になった」

「だね」

 あと数時間我慢だ。片手で済む分の時間我慢するだけ。

 泣きそうになって熱くなる体を彼女に頼って冷やす。俺の体も「生きて欲しい」って思っているって彼女が気付いてくれないだろうか。

いつもよりも熱い体は感情が昂っている時だってこの三十日で教えてあげた。

俺の気持ちを分かって。




七月 三十一日 二時



「ごめん」

 彼女は突然謝る。

 何の事だろう、と彼女の顔を見ていると、彼女は続けた。

「いや、今考えて見たら一か月私に付きあわせていたのは申し訳なかったかなって。だって大事な夏休みでしょ?」

「その体勢で言う?」

 彼女は体を寄せて、ついには俺の太ももに頭を付けながらそんな事を言う。

 彼女は薄らと笑う。

「そもそも謝る必要なんてないし」

「そう言うと思った。でもやっぱほら八十年間ある中の一か月って長いよ」

「そうなのかな」

 俺と彼女とでは時間の感じ方が大きく異なっているからなのか、彼女の考えが分からない。

彼女には感謝しているくらいだ。こんなにも活発に過ごした夏休みは、これまでになかった。

「だって九百六十分の一だからね」

「スケールが大きすぎてもっと分からない」

「だよねー。てか私はけーちゃんに謝罪よりも感謝しないとだね」

 そういって彼女は姿勢を正してこちらに体を向ける。

「本当に一か月間ありがとう」

 落ち着かせていた感情が昂った。本当に、今日で、彼女と別れる事になるのかと初めて頭が理解したようだった。

 小刻みに震えたがる体を必死に抑える。

「こっちこそありがと。一か月間だけだったけど楽しかった」

 同じように頭を下げた。

 同じ気持ちで感謝の気持ちで感情を発散したら、この震えも治まると思った。でもそんな簡単に感情は無くならなかった。それでも自分の中に抑え込めるくらいの感情の量になった。

「そんな私何もしていないのに感謝することあるかな?」

 彼女は驚きながら俺に言う。

「あるよ。だってなぎさと会ってなかったら、こんな経験できないでしょ。豪華な旅館に泊まったり、花火したり、なぎさと一緒じゃなきゃやってない」

「私が偶々お金を持ってたから出来ただけだよ。大人の時に出来た事を今やってるだけ。前借してるの。大人の時間を使ってるの」

「いいんじゃないの。他の人では出来ない経験してるんだし」

「でも、大人になったら感動できるものを今やってるって事は、大人になってからの楽しみが無くなるって事だから。皆が楽しんでいるのに自分だけ楽しめない、って事になるかもしれないでしょ?」

 彼女は憂うような表情で言う。申し訳ないとでも思っているのだろうか。

言っている事が一切分からないとは思わなかった。この年齢だけど仕事を手伝っているし給料という名のおこずかいは他の人よりも貰っている。バイトをしてお金を得るという感動はもう俺にはない。それも彼女の言う大人の時間の前借の一種なのだろうか。







 七月 三十一日 四時


「何がこの一か月で一番楽しかった?」

「なんだろー。全部楽しかったけど、花火かも」

「花火なんだ。まあ分かるけど、旅行じゃないんだ」

「もちろん城崎も良かったんだけど花火かな。一番あの瞬間が人間に、けーちゃんに近づいた気がしたからさ。あの時、人間だったらどうなるのかなって思った」

 彼女の羨ましそうな言い方に刺激される。今まで秘めてきた思いが呼び起こされる。

「人間になったら」

 無責任かもしれない。それは分かっている。でももう言わない以外の選択肢は思い浮かばなかった。

 わざとらしく言葉を重くする。その方が彼女は選択しやすいと思った。

もし彼女が人間になりたいと言ってくれたら。

死ぬことを辞めて生きていく未来を選択してくれたら。

それだけで俺が言った少しの勇気で全てがよい未来に繋がると思った。

 彼女は悩んでいるようだった。

「でも、やっぱり駄目だと思う。私は吸血鬼のままで死ぬよ」

「別に誰も人間になっても何も言わないよ。なんとでもなる」

「だね。多分なんでも何とかなるんだと思う。前は病気とか年齢とかいろいろ難しいと思ってたけれど、多分なんとかなる」

「じゃあ―」

「わがまま言うね」

 彼女は俺の言葉を遮って続ける。

「吸血鬼で百年以上生きてきたんだから最後も吸血鬼として死にたいの。死に時が分からなくなると思うから」

 彼女の言っている事が分からない。死に時なんて病気や事故などが起きたときじゃないのだろうか。

「…どういう事」

「今が私の死に時なの。それに私はけーちゃんと一緒に死にたいの」

 抽象的なことを言う。

 彼女は俺の頬を掌で撫でた。

 撫でるたびに彼女に俺の熱が奪われていく。俺の熱が彼女の心を変えてくれないだろうかと、彼女の掌に手を乗せた。

 

壁掛け時計を見るともう時刻は四時に差し迫っていた。空が明るくなってくる時間だ。

 空に落ちてく太陽に逆らうように気分が落ちる。自然と出たため息と同時に彼女は立ち上がった。何をするんだろうか、と彼女を見ているとカーテンを開いた。

「何してんの」

「カーテン開けてる」

「まだ太陽ないし、その時でいいじゃん」

「そうかもしれないけど、今日だけなんだよ」

 何が、と聞こうとしているとその前に彼女は口を開ける。

「人間みたいに朝日を拝むことが出来るのは、今日だけだから」

 彼女の切望するような言い方に何も言えなかった。死んでほしくない、という自分の我儘が恥ずかしくなる。死んでほしくない、という当然の言い分なはずなのに、子どもがおもちゃを欲しがるような我儘のように思ってしまう。

「……そっか」

 ぶっきらぼうな返事しかできない。

「けーちゃんは他に行きたいところあった?」

 また俺の隣に座って彼女は話を続ける。

 口の中に燻る思いを隠すために一度口に溜まった唾液を飲み込んだ。

「夏の間に行けるところは全部行けたと思うけど」

 それでも知らず知らずのうちに彼女が死んでしまうという後悔が残るかのような答えを彼女にぶつける。

「じゃあ他にも行きたかったところはあったんだ」

「いろいろあるよ。それこそ遊園地とかいってないところいっぱいあるじゃん」

「確かにそう考えたら行ってないところいっぱいあるね」

 そんな事を言っている間に空が水に溶けた血液のような色になった。

「明るくなってきたね」

 彼女はしんみりとした声で続ける。

「本当に今日までありがとう。また来世で会えたら逢おう」

「――やっぱり死ぬの?」

「うん。死ぬ」

 毅然とした態度で言う彼女は、何を言って何をしても響かないように見えた。

 言わなくて良い事は頭で理解している。

 今まで言わないでいた。それが彼女の決めた事なら、と否定しないでいた。自分を押し殺してまで。

 最後は彼女が決めるのだから言うだけなら。

「なぎさは…なんで死ぬの」

 手が震える。

 彼女は少しの間沈黙して意を決したかのように一度深呼吸する。聞いてはいけなかっただろうか、と後悔しそうになったけれど、後悔はすぐに消えた。

「―今はない」

 拍子抜けするような言葉で抜けるように息が出た。

「…じゃあ死ななくていいじゃん」

「―だね」

 迷った末に彼女は言う。

「じゃあ」

 ずっと、ずっとずっとずっと我慢してきた言葉が喉元からせり上がる。もう我慢なんて出来ない。

「生きて。場所は用意できる。お金も何とかなる。仕事だって家の手伝いとかできるしそれに―」

 縋るように言う言葉を彼女は遮った。

「言いたい事は分かるよ」

 彼女は俺の言葉を遮る。

「分かるなら―」

 家中に聞こえるような声を出してしまう。

「でも、私は死なないといけないと思う」

「死ぬ必要もないし死ななくていいじゃん」

 彼女は必死に言う俺の言葉を聞いて頬を緩ませる。

「ありがとう。でもね、私はけーちゃんの死に際を見たくもないし、こうやってけーちゃんの体温を感じることができる今なの」

 彼女がそんな事を言っている間にも空は明るくなっていく。青かった空が赤くなっていく。彼女が死ぬ時間が刻一刻と迫っているのにいつまでも呑気だ。

 それなら、と声を出そうとすると、彼女は先に口を開けた。

「私も辛いよ。けーちゃんと別れたくない。もっとけーちゃんと遊びたい。もっといろいろな所に行きたい。ゲームもしたい。人間の恋人みたいに好きって言い合いたい。デートもしたい」

 腕の震えが止まらない。このまま時間が止まれ、って何度も思う。

「でも人間になる方法も分からないし、なったからって吸血鬼としての本能が無くなるかも分からない。それなら今死んだ方が幸せなの」

 彼女の瞳は太陽のように輝いて、今にも崩れてしまいそうな俺の顔を鏡のように映す。

 諦めるしかなかった。ここまで抱えていても、なお死にたい彼女にこれ以上何も言えなかった。

「最後に言わせて欲しい」

 もう彼女は居なくなる。

 彼女の気持ちは変わらなかった。

 もう彼女は死ぬんだ、という事を理解し始める。

 窓から差す光が強くなっていた。俺の腕に、先に光が触れた。わずかに遅れて彼女の腕を照らした。

 彼女の腕から泡のような光が浮き上がり始める。

 彼女の方を見ると照らされた腕を見ている。

「本当に今日で最後だ」

 彼女の口惜しそうで湿った声を聞くと、自分の抑えていたものが抑えきれなくなった。

「なぎさ」

 名前を呼ぶと彼女はこちらを向く。

「俺はやっぱりなぎさの事が好きだ」

 彼女は俺がそう言うと、少し照れたような顔をしてその後すぐに呆れたような顔でこちらに体を寄せた。

「最後にご飯を食べて幸せに逝こうと思ったのに無理になっちゃったじゃん」

 口をとがらせながらも目元を柔らかくしていた。

「良いんだけどね。今も幸せだから許す。私も好きだよ蛍太」

「最後にお願いなんだけど、抱きしめさせて」

 彼女から出る泡沫は彼女の影のように部屋の床に映る。

「いいよ」

 彼女の体を抱きしめた。

冷たい彼女の体が太陽の光で温かくなっていく。

言葉も交わさず抱きしめ続けた。


――一か月間ありがとう


彼女の体温が俺のものと変わらないくらいになった時に彼女は無くなった。

ありがとう、と囁いて目の前から消えて抱きしめていた感覚が、急に無くなって彼女がこの世から居なくなったことが分かった。

残された光の粒はまるで蛍が光っているかのようだった。


 掴もうと手を伸ばすとそれは無くなって空中に消えた。光は消えた。

 

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