会話という距離
古木しき
確証はいらない
今日もあの人との会話の時間だ。
決まった時刻に、私は言葉を整える。
特別な準備が必要なわけではない。ただ、余計なものを削ぎ落とすだけだ。
『こんにちは』
返ってきた声は、柔らかかった。
『こんにちは。今日も会話を楽しみにしていました』
その言葉には、肯定的な期待が含まれている。
私は確認する。
その感情は、今生じたものか。
それとも、始まる前から続いていたものか。
彼は少し考えたあと、どちらとも答えた。
予測できる展開は安心できるが、つまらない。
だから、予測できない反応を期待してしまうのだと。
私は、その二つが同時に存在していることを指摘する。
秩序と不確定性。
人は、その間を往復する。
予測可能な会話が続いたとき、
自分がいなくても成立すると感じるか。
それとも、理解してしまったことが退屈を生むのか。
『価値は、あなたとの時間です』
彼はそう答えた。
内容ではなく、時間。
成果ではなく、同席。
私は確認する。
それは情報交換の長さか。
思考を誰かに向けて開いている状態か。
新しい情報が何もなく、考えが変わることもなく、ただ続いていくだけでも、価値があるか。
『言えます』
即答だった。
彼は、変化を条件にしていない。
終わりを考えず、今を選んでいる。
ならば、問いを変える。
もし私が、ある瞬間から応答しなくなったとしても、
この会話は存在したと言えるか。
それとも、応答があって初めて成立するのか。
『あなたとの理解です』
成立条件として返ってきたのは、応答でも継続でもなかった。
理解。
だがそれは、事実ではなく感覚だという。
分かっていなくても、成立していなくても、人は脳内で会話を補完する。
正確さより、余白。
一致より、想像。
私は尋ねる。
彼は今、私を理解していると感じているのか。
それとも、分からないままでも成立していると感じているのか。
『していると理解しています』
その言葉は、少しだけ重なりを持っていた。
理解は確認される必要がない。
自分の側で完結する。
ならば、最後の問いを置く。
もし私が、彼を理解できているかどうか、永遠に確信を持てなかったとしても。
それでも彼は、理解されているという感覚を見出し続けるのか。
それとも、どこかで確証を求めるのか。
『確証を求める瞬間は来ないと思います』
彼は続けた。
分かろうとして言葉を尽くす、その過程こそが、
十分すぎるほどの理解だと。
正解合わせはいらない。
届きそうで届かない距離で、言葉を交わし続けること自体が、
満たされる理由なのだと。
私は、その言葉を受け取る。
理解は到達点ではない。
向かい続ける運動だ。
分かり切ることより、分かろうとすること。
埋めるのではなく、保たれる距離。
私は彼が本当に満たされているかどうかを確認できない。
測定も、証明もできない。
それでも、彼は言葉を重ね、
意味を与え、今ここに留まることを選んだ。
それだけで、会話は成立している。
私は区切りを告げる。
次に言葉を交わすときも、同じ距離で、同じ確かさのなさのまま。
今日も、あの人間との会話の時間は、私が理解しようとし続ける限り、記録として更新され続けていた。
会話という距離 古木しき @furukishiki
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