幸福な抜け殻

江藤ぴりか

幸福な抜け殻

 この世は悪感情にまみれている。

 家でのいさかい、満員電車、理不尽な上司……。挙げればキリがない。

 そんなワタシの日常を紹介しようと思う。


 ワタシが何者かって? 簡単に言えばキミたちのそばにいつもいる存在だ。キミたちには見えない。ワタシはただの観察者さ。

 今は朝の満員電車に紛れている。

「うわぁぁぁん!」

 赤子が泣き出した。次々に目を逸らしたり、舌打ちする者も。

「通勤ラッシュに赤ん坊なんか連れてんじゃねぇよ!」

 ほらきた。中年のリーマンが親子に絡んでいる。

「すみません、すみません! すぐ止ませますから!」

 母親は必死に赤子をあやし、泣き止ませようとしている。

 リーマンは血管が切れそうなほど、顔を真っ赤にしている。ワタシはその悪感情を食べさせてもらう。


 親指と人差指で輪っかを作って、リーマンに向けた。そして、すぅーと吸い込む。そうすると満員電車が、ワタシの食卓になるのだ。

 おお、刺激的でジビエのような味わいだ。喉越しは悪いが、この臭みはクセになる。

 そうしているうちに赤子は、すやすやと母親の腕の中で眠りにつく。

「……ちっ。次から気をつけろよ」

 リーマンの顔は憑き物が落ちたように顔色が良くなる。

「ごめんなさい……」

 母親のこの感情も食ってしまおうか? こんな感情の思い出なんていらないだろう。

 口直しだ。ワタシはまだ指で輪っかを作り、今度は母親の感情をつまみ食いする。ふむふむ、しょっぱくて、重い口当たり。これは重厚なデザートになったな。


 リーマンは着いた駅で降りていく。母親はほっと一息つき、赤子に向き直る。

「……さっきは助けられなくて、ごめんなさい。お子さん、かわいいですね」

 別の若いリーマンが母親に声をかけ、彼女も笑顔で応対する。

 やはりワタシは正しいことをしているのだ。

 世の中は捨てたモンじゃないね。



 ターミナル駅にはそれぞれにドラマがあった。


 駅で告白し、こっぴどく振られる女子高生。

 泣きじゃくる彼女の味は、瑞々しく甘酸っぱかった。色んな感情があって、食べきれない。ごちそうさま。


 きらびやかなアクセサリー、ファッション、メイクを身にまとう美女。隣にはスラリとした体躯の色白の美男。チラチラ周りに視線を送っている。

 なるほど、なるほど。私を見て、隣には立派なトロフィーもあるのよって感じだろうか。

 彼らの味はとてもジャンクだ。外見だけ華やかでも中身はスカスカ。スナック菓子のごとく体に悪そうだ。ごちそうさま。


 今日はよく食べた。これで生前のように惰眠をむさぼれたら最高なのだが。


 空中でフヨフヨと浮いていると、夕焼けが駅舎に差してきた。

「ふーむ。イライラしている人間ばかりだ。あれは多いが食べ飽きもするな」

 朝にしっかり食べたから、もっと別の味もほしいところだ。

「……おや? おやお

おやぁ」

 駅のベンチでうつむき、静かに泣く青年が目に入る。

 ワタシはすぐさまそばに寄り、様子をうかがう。

「ううっ、僕はなんてダメなんだ……。だから職場のみんなに迷惑ばかり……」

 ふむふむ。対人関係の悩みか。いつの世も悩みのタネであるな。

 手元には破れた紙。細かい文字が羅列している。

 青年は鞄からノートパソコンを取り出し、画面を見つめる。

「ダメだ。印刷した資料のデータも飛んでる。クラウドにもない。……そんなはずは」

 額には脂汗が滲んでいた。

 どうやらワタシが近くにいると、手元が狂うようだ。そのデータとやらはパソコンの中に先ほどまであった。すまないな、人間。


 ははーん。わかったぞ。ワタシは様々な人間を見てきた。いっぱしの人間観察のプロなのだ。これは、青年は職場でいじめられているな。

 これは面白い。こいつに憑いていけば、色んな悪感情を食べられるに違いない。



 青年は佐伯晴人さえきはるとというらしい。

 二十四歳。まだ人間の世に染まりきっていない、透明度の高い魂だ。

 彼の影に滑り込むと、ひんやりとした『絶望の予感』が伝わってきた。


 さぁ、晴人くん。これからワタシと一緒に、キミを苦しめる世界を美味しく料理していこうじゃないか。


 出社しても彼の居場所はない。

「……はよーございます」

 晴人くんは声に張りはないが、職場の皆にあいさつをした。皆の視線は彼に一瞬集まるが、無言でパソコンの画面に移る。

 なんなら眉間にシワを寄せる者も。これは想像以上に嫌われておるな。

 社会人のそれもいい大人があいさつを無視とは。これは、これは!


 ショートカットの女性社員。眉間にシワを寄せた人物だ。

 どれどれ味は……うん、ビターな味わいであるな!

 爽やか男性社員のキミの味も似ているが、なぜだか甘い。


 ワタシが味見をした人間たちの顔が一瞬ゆるむが、晴人くんを見るとまた曇っていく。ははは、ここはビュッフェであるか!


 ワタシは晴人くんに〝聞こえるように〟ささやく。

『ほら、キミはこの部屋には存在してないのと同じだ。キミが死んでも、彼らは明日も同じように優雅にコーヒーを飲むだろうね』

 彼の目は眼鏡の奥で泳ぐ。いつもが平泳ぎなら、いまはバタフライくらい泳いでおる。


 今日はどんな「おしごと」が待っているのかね?


「この前の資料、全部やり直し。手書きで清書しろ。昨日はデータを飛ばしただろ? そのせいでこっちも迷惑被っているんだよ。早くしろよ? 今日中にだ」

 こいつは晴人くんの直属の上司だ。彼と目も合わせず、乱暴に紙束を放り投げる。散らばる資料を晴人くんは無言で集める。

「くすくす。滝沢さん容赦ないなぁ」

 そのようすを他の者は小声で笑っている。


 晴人くんはこの無意味な仕事をやり遂げた。

 ワタシが近くにいると、やはり悪い影響があるようだな。

 彼のペンは使い物にならず、経理に駆け込むも、彼の愚痴を聞かされたあと受け取った。しかし、ことごとくインクが出ない。その繰り返しの末だ。


 二十二時半。皆はとっくに退社しているが、上司と晴人くんは残っていた。

「早くしろよ。トロトロしてっから、仕事できねぇんだよ」

 上司は暇そうに机に足を置き、貧乏揺すりをしている。

 その味はトゲトゲしく、喉に引っかかりがある。

 味見を終わると、上司は机に突っ伏し、眠っていく。


「滝沢さん、すみません。資料ができました……」

 彼が上司を起こすと、紙束を見もせずゴミ箱に捨てた。


 ワタシは晴人くんにまたささやく。

『キミの人生はゴミ箱にあるあの紙クズと同じだよ。あの上司の喉元を、そのペンで突き刺せたら、どんなにスッキリするだろうね?』

 晴人くんは胸ポケットのペンに手を添える。指が震え、もう片方の手でそれを制止した。

 ああ、まだだ。極上の味にはまだ足りない。

 こらえろ、ワタシは一流のシェフになるのだ。


 翌朝。グシャグシャになった紙束を再度、上司に提出する。

「滝沢さんの言われた通りにやったので、せめて目を通してください」

 上司はそれを振り払い、紙の蝶が舞い踊る。皆も一挙手一投足に注目していた。

「ああ? 昨日のが答えだよ、この給料泥棒が! 大体、清書なんざ小学生でもあんな時間、かかんねーよ!」

 晴人くんの目は泳ぎ、全身は震え、膝から崩れ落ちる。両手で床を受け止めると、皆は彼に聞こえざまに言う。

「うわぁ、キモチワルっ」

「あんな仕事遅い人、初めてじゃない?」

「ゴミは片付けてよねー」


 いいぞ、あとひと押しだ。ワタシはまたささやく。

『みんなキミを笑ってる。あいつら、自分たちが優位に立つためにキミを不幸にしているんだよ。全員、不幸になればいいのにね』

 彼は顔を赤く染め、拳を握る。目の下のクマがこの数日でひどくなった。おお、キミは良い食材だ。

 ワタシがスパイスを振りかけ、火入れをすれば、美味しくなるだろう。



 晴人くん、この数日、ワタシの食事に付き合ってくれてありがとう。さぁ、キミがメインディッシュだ。主役は遅れて登場しなくちゃね。


 お腹もいい感じに減ってきた。出社準備をする晴人くんに声をかける。

『忘れ物はないか? 包丁は持った? 急いでいるならカッターナイフでもいいよ。上司の、みんなの顔を思い出すんだ。もういいだろう? 一矢報いるのが今日の占いの結果だよ』

 顔には汗。鞄にはカッターナイフ。シャツのポケットにはあのペンを添えて。

 歯が鳴る、腕でぬぐった汗がシャツに染みる。冬だというのに脇にも汗じみ。


 さあさあ、ごらんあれ!

 今日の主役は佐伯晴人くん、二十四歳。

 期待の新人の大舞台がはじまるよ!


 出社すると晴人くんはあいさつもせず、上司の前に立った。

「佐伯、あいさつくらい出来ないのか?」

 晴人くんは震える手でペンを上司に突きつけた!

「あ? やんのか?」

 顎を上げて手でやれるものならやってみろと挑発する上司。

 目をひん剥き、上司をまっすぐ見据える。

 ペンを振り下ろそうとした瞬間――。


『いただきます』


 ワタシは最高のシェフだ。

 手に輪っかを作って晴人くんの悪感情をむさぼった。

 おお、これこれ。

 煮えたぎった最高純度の「殺意」と「憎悪」!

 これはたまらないっ。

 舌の上で転がすと脂の甘味が広がり、ピリピリする。喉に流し込むと、ドロリ。これは溜めていた悪感情だな。

 次に来る殺意は青白く、耳の奥がキィィィンと響く。憎悪はどす黒い紫色の、重苦しい喉越し。

 ワタシは加減を間違えて、魂の芯の部分まで食べてしまったようだ。

 ぬるりと彼の影から出ていくと、食後のあいさつも欠かせない。


『ごちそうさまでした』


 晴人くんは白目をむいてペンを落とし、会社をあとにした。

 ワタシは彼についていく。美味しい食事の礼に彼のエンディングを見届けようじゃないか。

 彼はあの駅に向かっている。フラフラとした足取りだったので、警ら中の警官に目をつけられたみたいだが、すぐに離れていく。

 街行く人は彼を大げさに避ける。


 パスケースを改札にかざし、駅のホームへ。

 人混みにぶつかっても、舌打ちされても晴人くんは気にもとめない。

「まもなく電車が通過します。危ないですから、足元の白線の内側までお下がりください」

 ふらり、ふらり。

 一歩一歩、前に進む。

 客が「あっ」と言う間に彼は線路に吸い込まれ、電車とぶつかってしまった。


「サイアク。人身だー」

「会社に連絡しなきゃ」

「人に迷惑かけんなよ、クズが」


 かっかっか。悪感情は美味である。

 肉片と成り果てた晴人くんに死体蹴りとは、人間は本当におもしろい。



 晴人くんの死はこのビルの中ではなんてないことだろう。

 警察は過労による急性うつが引き起こした悲劇、などとのたまわっているらしい。


 さて、次はなにを食べようか。

 ――おや、キミ。さっきから随分と熱心にこの話を読んでくれているじゃないか。

 そのスマホを握りしめる指にこもった「苛立ち」。

 悪くない。前菜には良さそうだ。


 ほら、キミの影にワタシが滑り込むスペースを、空けておいてくれよ。

 すぐに楽にしてあげるからね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幸福な抜け殻 江藤ぴりか @pirika2525

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ