三十分間幽世探索

出灰楪

18:00-18:30

「塔子さんが死んだの」

 たくさんの白い絵の具に、ほんの少しだけ赤と青を混ぜたような薄紫に塗りつぶされた空は、東に行けば行くほど灰色になって、私と瀬川月乃に覆いかぶさっていた。西の空は桃色と橙色のグラデーションで、沈んでいく西の頂点だけがただ白くすべてを一方向から照らしていた。

「塔子さんは、私の家庭教師。大学三年生、二十一歳。文学部。お菓子が好きで、特にマカロンと、中に苺のクリームが入ったビスケットが好きだった。苗字は夕霧。夕霧塔子。トウは建物の塔。黒髪に眼鏡をかけていて、いつもロングスカート。それで……」

「……ご愁傷さま」

 月乃の言葉が詰まった隙を見計らって、私はお悔やみを告げた。月乃は私をじっと見つめた。私は目をそらした。

 ここは百段神社の前。本当の名前は百段神社ではない。百段神社と呼ばれているのは鳥居から本殿までの間に百段ほどの階段があるからだ。正確な段数はわからない。私たちはその百段の合間にいた。もうすぐ日が沈む。

「憐れんでほしいわけじゃない」

 月乃は言った。私は「憐れんでいない」と反論しようとしたが、私が憐れむ人か憐れまない人なのか彼女は知らないのだと思い直した。私はその代わりに、

「用があるんでしょ」

 と言った。私と月乃は親しいわけではない。誰とでも仲良くする月乃が、唯一仲良くしない私。今日の授業がすべて終わった帰り際に、月乃が私に話しかけてきたのが、むしろおかしいのだ。

 月乃は私を見据えた。

「――あなた、お化けが見えるのよね」

「違う。午後六時から三十分間、私が幽世と呼ぶ場所に行けるだけ。幽世には幽霊がいる、ただそれだけ」

 ――ああ。

 私はすべてを察した。

「お願いがあるの、三雲さん。私を幽世に連れて行って、塔子さんに会わせて」

 私には断れなかった。月乃がすがるような目をしていたから。月乃がこいねがうような目をしていたから。その目で私を見て、見るだけで、見られるだけで。

「わかった。いいよ、連れてってあげる」

 絞り出すような声で私は安請け合いをした。

 百段の残りを、私と月乃は黙って登った。名前の知らない木に囲まれた境内には人気がなく、いつものように静まり返っていて、動物のざわめきだけが私たちを囲んでいた。階段を登り切ればすぐに朱色の小さな鳥居があり、そこをくぐれば本殿がある。小さな社で、木で作られていて、誰が見ても相当に古いらしいとわかる。賽銭箱の上には、私が初めてきたときにはあった、いつから置かれているかは不明だがかなりの昔からあるだろうウサギのぬいぐるみがある。

 私と月乃は、鳥居から本殿までの砂利が敷かれた狭いスペースで立ち止まった。月乃は落ち着かない様子だった。

「目を瞑って」

 私は月乃が私のいう通りにするのを確認したあと、スマホで時間を確認した。ーー午後六時。あと三十分。私も目を瞑って、それだけで私と月乃は幽世へ誘われる。



 六歳の頃だ。午後六時からの三十分間だけ見える世界が、他の人には見えない異質なものであると気づいたのは。

 まばたきをしたあと、この世界とまったく同じ、だけれど空気がいつも少しだけ冷たい世界で、死んだはずの祖母が歩いていた。棺の中で冷たくなっていて、花に囲まれて、穏やかな顔をしていたはずの彼女は、生きていた時と同じように顔をしかめてきりきりと歩いていた。私は物陰に隠れて彼女の背中を見送った。祖母が歩いていた、と親に言ったが、心配されたのか笑われたのか今では覚えていない。私が口をつぐむようになったことだけが確かだ。

 幽世は普通の世界と変わらない。ただ、空気がほのかに冷たく、死んだ人が歩いているだけだ。午後六時からの三十分だけ見えるようになると気づいてからは、その三十分は音楽を聴いて過ごしたり、あるいは普段と変わらないように過ごしたりしている。私が子供の頃、近所の人に触れ回ってしまったおかげで、たまにこうして幽世を見せてくれと頼む人が現れる。たいていの人間は会いたい死人がいて、その全員が望みを果たせず諦める。

 だが月乃は一月経っても諦めなかった。私たちは毎日、百段神社へ行き午後六時になると目を瞑り、三十分間、街を歩いて塔子さんを探してさまよう。塔子さんは近くの街に住み、近くの大学へ通い、この辺りで家庭教師のアルバイトをしているということだった。家の場所も大学の場所も月乃は知らなかった。死者は生前歩いていたところを歩く。だから私たちは塔子さんが歩いていたであろう駅前や、洋菓子店や、書店の近くを歩いたが、塔子さんが見つかることはなかった。

「いつまでこうするつもり?」

 十二月が近かった。気温はいきなり低くなり、この世と比べて少し肌寒い幽世はますます寒くなるばかりで、百段神社へ来る前に家へ寄って冬用の上着を取って来なければならないほどだった。月乃は冬用の紺色のセーラー服の上から灰色のカーディガンを羽織り、スクールバッグを持って、賽銭箱の端のぬいぐるみを見ていた。月乃は振り返って私をまっすぐ見つめた。

「毎日付き合わせてごめんなさい。でも、塔子さんに会えるまで続けたいの」

「……そんなに塔子さんって人が」

 私は何を言おうとしているのだろう。そんなに塔子さんって人が、人が?

「大切な人なの。高校受験がつらくて、そのときずっと私に寄り添ってくれた。だから、一回でいいから、会って感謝を伝えたいの」

 月乃は優しげな目をしていた。私はやはりその目に抗えなかった。

「それじゃ、行こうか」

「ありがとう。三雲さんにも、感謝してる」

 彼女は微笑んだ。



 それからまた一月が経って、十二月も終わる頃になった。冬休みに入っても私たちは午後六時になると百段神社で待ち合わせて、幽世を歩き、三十分経つと解散した。今日の月乃は白いコートと紺色のロングスカートを着ていた。私は、塔子さんという人は毎日ロングスカートを着ている、とはじめに月乃から聞いたことを思い出した。

「まだ続けるつもり?」

 私は月乃に問うた。

「そろそろ付き合いきれない、かしら?」

 月乃はおそるおそる、でもにこやかに問い返した。私は口ごもった。そんな目で見られては、かなわない。けれど今日の私は、寒さのせいか、月乃の顔が、目が、逆光になっていてよく見えなかったからか、少しの抵抗をすることができた。

「今は忘れられないかもしれないけど、そのうち忘れるよ、必ず」

 あるいは思い出したのかもしれない。

 私と月乃が会ったのは今の高校が初めてではない。まだ私が現世と幽世の区別もつかない頃、瀬川月乃と毎日のように遊んでいた期間がある。私の両親は離婚の協議をしていて、私はこの街に住む祖母に預けられた。祖母が死ぬまでの短い間、私は月乃とよく会っていた。

「はなちゃん、今日はこれしよ」

 その頃から私は月乃のお願いを断れなかった。その少し茶色がかった、黒目の大きな、長いまつげに縁取られた目に見られるたび、私は体の奥底まで見つめられるような気分になった。

 月乃が覚えていないのも仕方がない。私の花野という苗字は両親の離婚により三雲になり、苗字からつけたあだ名で私を呼んでいた彼女は私のことを思い出せなかったのだろう。十年経てば顔かたちも変わり、性格も変わる。

「忘れないわ、絶対に」

 月乃は否定するが、私は月乃が忘れることを知っている。

「忘れるよ」

「わかったわ、もう付き合うのが嫌になってしまったのね。今までありがとう。でも、今日、あと一回だけ行かせてもらえないかしら」

 月乃は何かを勘違いしているようだった。けれど私は否定しなかった。六時がきた。私は目を瞑った。

「……あ」

 幽世で、私と月乃は何も言わずに百段神社の階段を下っていた。そろそろ下り終わるというとき、月乃は前を見て声を出した。百段神社の階段の前の道を誰かが歩いているようだった。くるぶしくらいの長いスカートを履いた背の高い女性だ。長い黒髪をなびかせて、眼鏡が反射している。

 まさか、と思った。

 今まで一度も会いたい死者と会えた人はいない。そもそも塔子さん本人なのかこの距離ではわからない。

 だが月乃は駆け出して行った。軽やかだった。塔子さんと同じ、あるいは少し先で歩いている女性と同じ、足にまとわりついて走りにくいだろうロングスカートなどかまわない様子だった。私は待ってだの何だのと口の中でつぶやいたが、走り去る彼女には聞こえなかっただろう。

 その女性と月乃は二言三言、言葉を交わしたようだった。月乃は、今度はゆっくり私の方へとやってきた。午後六時を過ぎて辺りは暗く、月乃の顔はよく見えなかった。ようやくその目が見える距離まで来たと同時に月乃は言った。

「みんなにありがとうと伝えて」

 また、お願い、だ。その目に見つめられてしまえばもう断ることなどできなかった。私の喉はからからに乾いていて、喋ることができなかったので、代わりに小さく頷いた。

「ありがとう、三雲さん」

 月乃はその目が見えなくなるほどに笑って、それから神社の外で待つ女性のところへ去って行った。会って感謝を伝えたいだなんて、大嘘つきにも程がある。



 今日も私は百段神社へと向かう。私一人では人目を避ける必要などないから、ここに来ず家でも学校でも目を瞑ってしまえばいいのだが、習慣を変えることができなかった。

 月乃はあれからどこにも姿を現していない。人気者の優等生の失踪は、少しばかり周囲の混乱をかきたてたものの、しばらくして駅前で男と待ち合わせをしている彼女を見かけたという噂が広がってからは、誰も彼女のことを話題にしなくなった。

 午後五時五十八分。

 私は月乃が消えた日から毎日、幽世で彼女を探している。私はある疑念を抱いている。あれだけ探しても見つからなかった塔子さんが、今日で終わりにするとなった日に限って見つかることがあり得るだろうか。

 私は、月乃が、塔子さんを幽世で探し続けるために、塔子さんに似た女性を塔子さんだということにして私を騙して、何らかの方法で幽世に居続けることを選んだのではないかと思っている。今でも月乃が塔子さんを探し続けているのだとすれば、彼女を探して連れ帰らなければならない。このことを知っているのは私しかいないのだから。

 午後六時、私は目を瞑る。

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