第2話

 妊婦生活は急激な吐き気から始まった。

 

 マリーナベイサンズにナショナル・オーキッド・ガーデン、インディア街……と、順調に進めてきた王道な旅路。あとはお土産でも見て明日帰るのに備えるだけーーという日に、私はホテルの部屋の便器にしがみついていた。乗り物酔いのような吐き気が止まらなかった。

 

 妊娠したのだ、と確信があった。

 生理が遅れていたし、たしかにゆるく妊活中ではあった。

 それなのに旅行に出かけたのは、アラサーの自分がこんなに早く授かるとは思わなかったからだ。

 

 私は心のどこかで、妊娠が生物としての現象であることを理解していなかった。

 聖なる「妊娠」は、人生の中に救いのような形で現れるものだと思い込んでいた。

 だって働いていた信金では皆、妊娠中の職員が着る黒いマタニティを「勝ち組ワンピース」と呼んでいたではないか。

 待ち望む未来があり、パワハラも激務も一時休戦の育休がある。明日の出社に怯えるばかりの私にはそれが羨ましく、妊娠とは救済なのだと、いつの間にか同僚たちの軽口の中で刷り込まれていた。


 つまるところ、ブラックな仕事と灰色の日常に見切りをつけて旅立った、常夏で原色な大都会。そこで妊娠に気が付くなんて、全くの予想外だったということだ。

 

 さて、妊娠が「救い」かというと、少なくとも旅行中は全くそうでなかった。

 

 ホテルで目を回した私は作り笑顔で同行の友人を観光へ送り出し、やがて「空腹が吐き気を起こす」法則に気が付いて、スーツケースの食べ物を片っ端から食べた。最後にはお土産に買ったカップヌードルラクサ味にまで手を付けたが、今度は食べ過ぎたようで、これは十分後エビ風味のゲロとなって食道を焼いた。

 帰りの飛行機でも当然体調は最悪で、フラフラの私を支えてくれた友人と大量のエチケット袋がなければ無事に帰国することはできなかっただろう。

 

「終わりました。動いていいですよ」

 主治医の声で私の意識は分娩室に引き戻された。

 採血程度の痛みと少しの冷たさをともなって、麻酔針の挿入は終わったようだ。

 

 私はエビのまましばらく動けないでいた。

 下手に動くと先ほど背骨に感じた麻酔針の冷たさが、神経を食い破って背中から凶暴に飛び出してくるのではないかという妄想が脳裏をかけめぐった。

 

 だめだめ、良いことだけを考えよう。

 恐ろしい妄想と、何度も読み込んだ無痛分娩のリスクについての記憶を振り払った。

 

 シンガポールを発ったあの日。あの日私はまだ薄い腹を抱えながら、シンガポール空港のベンチでエビのように丸まっていた。

 異国の空港から、つわりに耐え、腹への衝撃に怯え、今日やっと日本の分娩室までやってきたのだ。地域一立派な総合病院の分娩室。心強い話ではないか。

 舌の上にラクサの風味が蘇る。それが吐瀉物の記憶に変わらぬうちに、そっと立ち上がって自分の手でペットボトルの飲み物を取る。

 

 

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