分娩室のエビ~痛くなくはない無痛分娩記録~
名堀 みや乃
第1話
「ちょっと。動かないでって、言いましたよね」
若く美しい主治医の声。
彼女の声が、記憶のそれより大分低い。
あ、私今、いい年こいて叱られてる。
しかも「少しの間動かずエビの真似して横たわる」だけのことができなかったという、幼稚園児以下の理由で。
令和七年二月某日、私は出産を前に入院した。トラブルではない。
出産日を決め、麻酔という人類の叡智とともに分娩に挑む「計画無痛分娩」ーー私が選んだ出産方法では、前日からの入院が必要だったのだ。
そして計画無痛分娩の最初のハードルが、この麻酔用カテーテルの背骨への挿入である。
妊婦は処置中エビのように背中を丸めて静止しておく必要があること。深く丸めるほど処置がしやすいこと。そして失敗すれば神経障害も起こりうる処置であることは、事前に説明がなされていた。
「名堀さん、事前にお話したように、ここは本当に危険な、大事な処置なんです。絶対に動かないでください」
「はい……」
ダメ押しのように再度叱られ、エビのポーズのまま恥じ入った。
だけど言い訳させてほしい。カテーテル挿入の直前、補助の看護師さんに、頭と尻をより背中を丸めるような形で押されたのだ。
「あれ? 私、エビ感足りなかった?」
そう思った私は気を利かせたつもりで、より深く背中を曲げた。それはもう、冷凍むきエビのごとく。しかしその行動が、先生の手元を狂わせる原因になってしまったようだ。
言い訳がましい思考を終えて、怖い、と思った。
叱られたことがじゃない。こんなの慣れっこだ。妊娠直前まで働いていた信用金庫では、失敗のたびにコンプラぎりぎりの叱られ方をしたものだった。
けれど、仕事のミスで損なわれるのは所詮他人の金である。それに比べて今自分の迂闊な行動で危険にさらされているのは、自分や胎児の健康や命だ。そのことが今更とても怖かった。
出産は命懸けであると、わかってはいる。今だってこれから命懸けの大仕事に臨むつもりで処置台に横たわっていた。
けれど、これから、ではないのだ。私が今エビの姿を思い浮かべながら横たわっているのは、もうすでに「命懸け」の渦中であった。
叱られてしまったバツの悪さと、知らぬ間に非日常に絡め取られていた恐怖感。それらによる動悸を宥めるために、悪い癖だ、私はわざと遠い異国に思いを馳せた。
ラクサから立ちのぼるエビの匂い。極彩色の街並みに誘われ迷い込んだアラブ・ストリート。冗談みたいに青い空には夏の光があふれて、マーライオンの水しぶきに弾けていた。
私が妊娠に気付いたのは、シンガポール旅行の真っ最中だった。
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