子供の世界
増田朋美
子供の世界
「この学校が、日本の私立小学校であることを、もう少し認識してもらえないでしょうかね。武史くんの素行の悪さには、目を見張る者があります。もうちょっと、お父さんから注意をしてもらうようにしてもらえませんか?」
校長先生からそう叱責されて、どうしたら良いものだかわからないジャックさんは、大きなため息をついた。
「お父さんが、着物を着て、日本の文化に馴染もうと頑張っていることは理解できますが、武史くんの授業妨害にはもうちょっと気をつけてもらいたいです。」
隣りにいた教頭先生にまでそんなことを言われて、まるでダブルパンチを食らったような気持ちで、ジャックさんは二人の先生方が話すことを聞いていた。だけど、どういうことなのか、正直に言えば理解できないのである。まず初めに、日本の私立小学校である、というのが理解できないのだ。私立小学校だから何だと言うことである。毎回毎回、学期が終わるごとに呼び出されてこの言葉を聞かされるが、本当にわからないなあと思う。
そんなことを考えながら、流石にその日はまっすぐに自宅へ帰る気にはならず、車を別の方向に動かして、製鉄所へ向かったのであった。
「はあ、なるほど。具体的にどんな授業妨害をするのか、話してもらえないかな?」
ジャックさんの話を聞いて杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。一方で武史くん本人は、水穂さんにピアノを聞かせてもらって楽しそうにしていた。
「実は、一応私立小学校ですから、いち早く英語の授業を導入したらしいのですがね。」
と、ジャックさんは話し始める。
「その授業で、武史が英語教材をAとEの発音を同じにして読んでしまうので、授業を妨害したというのです。武史の話によると、僕が電話で喋っているのを真似しただけだと言うのですが、、、。」
「なるほど。いわゆる、コックニーと呼ばれるものですか。いわゆるマイ・フェア・レディとか言う映画でも出てきましたね。AとEの発音を同じにするとか、Hの音を落とすとか、そういう特徴がありますよね。でも、どなたかご家族にそういう人がいましたか?」
ジョチさんは、そう彼に聞いた。
「多分ですね、先日ロンドンへ電話していた際にそうなったんじゃないかなと思いますが、僕も注意はしているつもりなんですけどね。でも、ロンドンの祖母は耳が遠いので、どうしても本来の話し方になってしまいますよね。」
ジャックさんは、どうしたら良いのかわからないという顔で言った。
「そんなもん気にしなくて良いんじゃないの?だって、日本だって東北弁みたいな、通訳無しではわからない言葉だってあるんだし、英語にもそれがあったってしょうがないでしょう。それが授業妨害になるってのがそもそも間違いじゃないの?」
杉ちゃんがそう言うと、
「そうですね。英語だって、様々な方言があって、特にイギリスの場合は地方差が大きいと聞きます。それを、授業妨害としてしまうのは、なんだか英語そのものを否定してしまうような気がするんですけどね。」
ジョチさんもそういった。
「僕はその、学校が器が小さすぎると思うんだけどなあ。英語の授業があるのはよく分かるが、日本にも東北弁があるように、英語にもそうやって違うものがあるというように持っていけないものかな?そういうことなら、学校を変わったほうが良いかもしれないよ。」
「いや、それも無理なんですよ。」
杉ちゃんがそう言うとジャックさんは言った。
「実は、武史には大変な親友がいましてね。同じくらいの佐藤正男くんという男子生徒なんですが、彼に勉強を教えてやっていることが、武史には生きがいになっているようでして。なんでも正男くんの家ではカバネスを雇う余裕がないので僕が代わりにやってあげると言うのです。」
「はあ、そうですか。その正男くんという方はどんな家庭の方なんですか?カバネスといいますと、家庭教師ですね。昔の家庭教師と今の家庭教師はちょっと意味がちがうんですけどね。」
ジョチさんは、そう彼に言った。
「ええ。佐藤正男くんという武史の同級生なんですが、何でも家があまり裕福でないので、宿題をしてわからないことがあったとしても、カバネスに聞くことができないということで、それで武史が勉強を教えているということでして。」
「はあ、つまり塾とかに行く余裕もないってことか。親御さんの職業は何をしているんだ?」
杉ちゃんがその間に割って入った。
「はい。なんでも、町工場の社長さんの家で、メイドとして働いているそうです。住み込みではないそうですけれど、帰ってくるのはいつも遅く、正男くんは一人で夕食を食べて、一人で朝食を食べて学校に来るんだと言うことです。」
「お父さんはいらっしゃらないのか?」
杉ちゃんがそう言うと、
「はい。お父様は正男くんが生まれてすぐに、なくなったと言っていたそうです。」
ジャックさんは答えた。
「そうか。母子家庭か。それでは確かに不自由だと思うけど、でも、逆に誰か親御さんの代わりになる人がいてくれたらもうちょっと楽になると思うんだがな。」
「ええ、僕も福祉制度とか、使ったらどうかと正男くんのお母さんに申し上げたことがありますが、一向に使おうとしてくれないのですよ。」
「それもまた不思議ですね。母子家庭であれば、補助金とかそういうものがあっても良いはずなんですがね?」
ジョチさんは杉ちゃんといっしょに不思議そうに言った。
「で、そのお母さんが働いている町工場の社長さんというのは?」
杉ちゃんは余計なことまで聞いてしまう癖があった。
「ええ、株式会社なんとかとか言うネジを作る会社だそうですけどね。かなり大規模な会社だそうですが。」
「というと、すごい豪邸にでも住んでるんかなあ?」
杉ちゃんはでかい声で言った。
「それはどうか知りませんが、いずれにしても正男くんのお母さんは、仕事が忙しすぎて、正男くんは家の中で一人ぼっちであることから、武史が正男くんのことをかわいがっているといいますか、うーんどうしたらいいですかねえ。」
「まあ武史くんは、とても感性のいい子ですからね。困っている人を見ると放置しておくことはできない子供さんです。だから、正男くんのことを放っておけないんでしょう。それによって、大人以上の友情を持っているのかもしれませんよ。それを、大人が壊してしまうことは、ちょっとかわいそうなところもあるかもしれません。しばらくは、正男くんと一緒にいさせて上げたほうが良いかもしれませんね。」
ジョチさんは、困っているジャックさんにアドバイスした。
それから数日が経って。ジャックさんが今度は一人で製鉄所に現れた。武史くんはどうしたんですかとジョチさんが聞くと、正男くんの家に出かけてしまったと答えた。
「実は今日も、学校から呼び出されました。なんだろうと思ったら、武史が、正男くんに英語を教えて、正男くんがAとEの発音を間違えるようになったそうなんです。こんな悪影響をさせたら教育にならないので、すぐにやめさせろというのですがね。」
「はあ、それはつまり、またおばあちゃんに電話をしていたのか?」
杉ちゃんが、ジャックさんにそういうのであるが、
「いや、ロンドンの祖母に電話をかけていたのは、一度だけです。今のスマートフォンでは国際電話もかけられますが、お金がかかるので、月に一度程度にしてます。しかし、その一度だけの電話で覚えてしまうものでしょうかね?」
と、ジャックさんは言った。
「ええ。子供さんは、大人よりもきれいな汚れない目で大人を見るって、相田みつをさんの書にも書いてあった。それはしょうがないことだ。だけど、今どきの学校はうるさいもんだなあ。それじゃあまるで東北弁を話してはいけないと言ってるようなもんじゃないか。」
杉ちゃんは、ジャックさんの言葉に続けていった。
「そうですね。こういうことは、どんな教育者でも解決できない問題だと思うんです。武史くんは好意で正男くんに英語を教えているわけですし、イギリスには今でもコックニー訛りがある人は大勢います。今では完全にコックニー訛りがある人は少なくなっているとはいうものの、やはり高齢者であれば、多少残っていることがあるかもしれません。」
ジョチさんが二人の話をまとめるように言った。
「それではどうしたら良いということですかね?これからもロンドンには電話をしなければならないですし。祖母は耳が遠いところがありますから、大きな声で喋らなければならないことも確かですしね。まさか、僕が英語で電話しているときは聞かないでいいなんて武史に言うこともできないですしね。」
ジャックさんは、困ってしまった顔で言った。
「そうですね。イギリスでは英語が当たり前ですから、そういう訛りがあってもまあ良いやで片付いてしまうと思いますが、日本では、特に子供にとって、生まれて初めて学ぶ外国の言語です。それを正しい文法で学ばせようと言う学校の狙いもわかるんですけれども、そういう差異が出てしまうというのは、日本の学校は想定していないのでは?」
ジョチさんが、そう静かに言った。
「それで今日も、武史くんは、正男くんのところへ勉強を教えてやりに行ってるわけだね。」
杉ちゃんが言うと、
「ええ、このまま仲良くしていると、武史が正男くんの学習態度に悪影響を与えているからやめさせろとも言われたんですが、でも武史は毎回楽しそうに正男くんのお宅へ行っているようですし、それを壊してしまうのもまたどうかと思うんですよね。」
ジャックさんは、更に困った顔をする。
「そうだよねえ。多様化とか、合理的配慮とかいっておきながら、そういう教育に不適応なものが現れるとすぐ排除したくなるんやな。本当に、日本の学校は百害あって一利無しだ!」
「はい。コックニー訛りは、間違った英語ではございません。イギリス英語は様々な種類があることも、本来であれば教えなければならないことです。」
杉ちゃんとジョチさんはそういったのであった。
「そういうことなら、学校に文句行っても良いんじゃないか?武史くんのしていることを否定するような教育方針では、多様化ということに反すると。」
杉ちゃんがそう言うと、
「そう言ってくれてありがとございます。ですが、こんなに何度も学校から呼び出されている僕が、学校へ文句行っても効果ないんじゃないですかねえ?」
ジャックさんは自信がなさそうに言った。
「そういうことだったら、僕と杉ちゃんで行ってみましょうか?」
ジョチさんは、そう提案してみた。
「よし、そうしようそうしよう。学校の先生とちゃんと話したほうが良い。そういうことは、間違いじゃないってことを教えられる先生でなければ、教育者とは言えない。」
杉ちゃんもそう言ったので、ジョチさんと杉ちゃんは、武史くんの小学校へ行ってみることにした。ジャックさんが運転する軽自動車に乗り込み、小学校へ乗せていってもらった。
その小学校は確かに私立というところがあって、校舎もきれいだし、いわゆるボロ学校という感じではなかった。杉ちゃんたちは正面玄関の前でおろしてもらったのであるが、玄関入口には段差があって、車椅子では入れなかった。ジョチさんが受付にスロープはないかというと、そのようなものはないという。すると、花壇の掃除をしていた、高学年と思われる男子生徒が何人か集まってきて、
「おじさん入れなかったら持ち上げてあげます。」
と、杉ちゃんを背負って、中に入れてくれた。中に入ると、また再び車椅子に乗せてくれた。
「おう、どうもありがとうよ。また帰りも頼むな。」
と、杉ちゃんが言うと、生徒たちは、ああわかりましたといった。
「それでは授業時間に間に合わなくなるのではありませんか?」
とジョチさんが聞くと、
「良いんだ。だって、どうせ僕らは落ちこぼれで、勉強できないんだから。」
と男子生徒たちは答えるのであった。そういう彼らに見送られながら、杉ちゃんたちは、校長室へ向かった。
「すみません。校長先生でいらっしゃいますか?僕達は、田沼武史くんのことで文句言いに来た。」
杉ちゃんは頭を下げすに、すぐに言った。校長先生が、あなた何者ですかと聞くと、
「はい。僕達は、製鉄所という福祉施設をやっております。実は、僕らの施設でも学校に絶望した人たちがたくさん来ていまして、みんな学校教育の歪んだところで、絶望されてきた被害者です。」
と、ジョチさんが答えた。
「関係ないとは言わせないぜ。武史くんの素行が悪いと言っているようだけど、具体的にどこが悪いのか、教えてもらえないかな?」
杉ちゃんはすぐに言った。
「ええ。この際ですから申しておきましょうか。意見のある時は手を上げて言うと指導しても、すぐに口を出しますし、他の生徒にカンニングを促すような真似をするのです。それでは、授業妨害も甚だしい。そのような態度を、武史くんには改めてもらいたいと何度も言っていますが、お父さんはイギリスではそうなっているからと言って、認めようとしてくれないのですよ。」
校長先生の隣に立っている教頭先生が言った。
「それは、ある意味では仕方ないと思うのですけどね。先生、武史くんのお父さんが、コックニー訛りがあるのでそれを注意されたそうですけれども、お父様はどうしてもそうしなければ話が通じないと仰っておられます。確かに、正式な英語ではないかもしれないですけど、それで武史くんの素行が悪いというのは、まずいのではありませんか?」
ジョチさんがそう言うと、
「しかし、教育というものは正しさが必要です。間違った英語を日常的に使うような子供が、すぐに授業でやじを飛ばし、他の生徒にも影響を与えてしまうというのは、教育上やってはいけないことだと思います。そのような子供をうちの学校においていたら、」
「学校のメンツに関わるか。別にさ、日本の東北弁だって間違った日本語ではないだろ?それも学校のメンツで行けないっていうのかい?それは違うんじゃないのか?だから学校は百害あって一利無しって言うんだよなあ。」
そういう教頭先生に杉ちゃんはすぐ口を挟んだ。
「そうですね。それに武史くんが、正男くんに英語を教えているのは、正男くんが家庭教師のような補助的な手段を選ぶ余裕がないので、自分が変わりに教えているのだそうです。そういうことなら、学校の英語の授業がきちんと行われていないということにもなりかねません。それを矯正するほうが先ではないかと思うんですけどね。もう一度いいますが、英語にも多様性があり、地域によってかなり違うということもございます。それが間違った英語というのは、実際に話されている方に失礼な気がします。」
「それともあれか、そういう英語を話すやつは身分が低いから出て行けとでもいいたいのか?はあ、嫌だねえ。みんな違ってみんないいと教えるのが学校ではないってことだねえ。」
ジョチさんと杉ちゃんは、すぐにそういった。
「ええ、我が校は私立の小学校です。将来は、高等教育機関に進んで、優秀な人生を歩んでいくための教育を施しています。そのような中で、」
「はあ、それじゃあ、人種差別もいいところじゃないか!」
教頭先生がそう言うと、杉ちゃんがでかい声で言った。
「それで、僕のことをおんぶしてくれたでかい体の小学生が、勉強は嫌だといったわけか。ははは。なるほど。そういう汚いところをみんな見てるってことやな。」
「皆さん、一体何を言っているんですか。我が校は、今までもこれからも、優秀なものを多数輩出するためにあるのです。その中で、間違った英語を使用している人がいるとなれば、甚だしい授業妨害ということで、そこはご理解いただけないと。」
と、教頭先生はそういうのであるが、
「結局のところ、英語が必要ないからそういうことが出ちまうんじゃないのか?英語なんて必要だからではなく、ただ勉強を教える武田目にあるものであって、お前さんたちが使うわけではないからそういうことになるんだろう。そうじゃなくてさあ、本来そういう意味で英語を教えるわけではないってことを、もうちょっと考え直してくれ。お前さんたち、武史くんが、正男くんに勉強教えるさまを見たことあるか?きっと真剣に教えていると思うよ。」
杉ちゃんがそう言っても、結局糠に釘で、先生方を説得することはできなかった。結局、校長先生は黙ったままだし、口の上手な教頭先生は、いわゆるうちの学校では容認発音と呼ばれる上流階級の英語を学習させているのだから、海外から来たお父さんであっても、それはちゃんと学習してもらいたい、日本で学習している英語というのは、みんな容認発音でやっているとの一点張りで、通じることはできなかった。でもそのうち、火口湖英語に変わりつつあるのではとジョチさんは言ったが、それも通じなかった。
その間にも、小さな武史くんと正男くんは、一生懸命今日出された宿題をやっているのであった。もちろん英語の宿題もあるので、二人で英文を読んだりしているのであるが、武史くんの読み方は、紛れなくイギリスでは普通に話されているのであるが、容認発音とは明らかに違っていた。だけど、英語のわからない正男くんは、武史くんの読み方をそのまま模倣して呼んでいるだけであった。二人の勉強は真剣だった。なぜなら、小さな子どもたちにとっては、それしか日常世界というものがないからであった。大人の世界とはまた違う、子供の世界なのだろう。
一方で、ジャックさんを初めとして、杉ちゃんたちはこれからどうしようか悩んでいた。まず初めに、コックニー訛りというものを捨てることを課せられたが、ロンドンの祖母は、容認発音をしないのだ。使い分けるというのは、相当厳しいと思うのだが、それも日本でやっていくためには必要なことだろうか、、、。
日本では、ちょうど冬真っ盛り。容赦なく冷たい風が、住宅街を吹き抜けていった。それなのに、子供の世界はそういう風が吹いても傷つかないところがすごいものであった。この違いはどこからくるのだろうか?
子供の世界 増田朋美 @masubuchi4996
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