17歳
甘美な秘密は目と鼻の先にある。
ここからは誰にも気づかれてはならない、その動作も勘付かれてはならない。”境界”に向かって一歩足を踏み出す。間髪入れずに感じる視線の矢。溜め込んだ冷や汗が背中と脇を濡らした。
誰の目がどんなところから飛んでくるかわかったものではない。突撃の決行には万全を期さねばならない。クラシックのCD棚まで30歩ほど後退する。たった数歩の移動だというのに、心臓が跳ね回っている。全く知らないピアニストが写ったCDジャケットを見ながら呼吸を整える。
焦るな、”境界”の隙間から見える肌色の誘惑はまだ僕を待ってくれているんだ。確かに、あと2ヶ月辛抱すれば僕は堂々とあの境界をくぐり、”向こう側”へと到達することができる。でももう好奇心が抑えられない。もはやはち切れる寸前だ!
もう待てるか。残り2ヶ月で得られる赦しがなんだ。定期試験で学校が早く終わった今日こそ”境界”の向こう側にたどり着いてやるんだ!
程なくして、その時は訪れた。最短ルートにいる客が棚に目を向ける。まるで海が割れるように、”向こう側”へのルートが目の前に開けた。
世界が誘っている。好機は今しかない。
できるだけ早く、しかしながら気配を消すように。辺りを見回す。知り合いはいない。その可能性もない。なぜならここは普段使う駅の6駅も先にあるビデオ屋だからだ。このために入念に入念を重ねたリサーチを行ったのだ。失敗などあり得るはずがない。
18歩。クラシックCDのコーナーを曲がる。”境界”が見えた。行く手を阻むようにこちらに向けられた手のひら。その忌々しい模様が描かれた暖簾が。閑散としている平日のビデオ屋では、少しの気の緩みが人目を引く原因になってしまう。雰囲気になりきるのだ。次の棚を物色するように、自然な動きで、12歩、風も立っていない、誰もこちらに目を向けていない、7歩、右の爪先から左の踵へ体重を移しながら前へ、3歩、風で少し暖簾が揺れた、あ、中見えそう、2歩、手が届く、布に触れる、1ッ
「あのォ〜すみません」
ちょうど右手が暖簾をしっかりと掴んだ瞬間だった。声が出せない。ゆっくりと、声の主に視線を向ける。
「すみませェん」
店員だ。しかも母さんと同じくらいの歳の人だ。血が首を伝って頭に上ってくるのを感じる。
「はぇふ」
何語の挨拶なんだか分からない音が口から飛び出た。
「お客様、先ほどからここを1時間くらいウロウロされてますよね?」
そんなに?
「防犯カメラの映像を見てたら、こことクラシックCDのコーナーを行ったり来たりされているので、念の為お声がけさせていただいたんですゥ」
防犯カメラだって?「あ」、真上にある。
「学生服を着てるし、ウチの息子と同じくらいの歳に見えるからなんとなく察しはつくんだけど、」
そんなこと思っても言わないでほしかった、
「何か盗ったりとかしてませんよねェ?」
「ハイ・・・」
してないです。
「で、その、そこなんですけど、一応18歳未満の方は入れないことになっているんですゥ」
あつい。
「ハイ」
のどがかわいた。
「なので立ち入りはご遠慮していただけると助かりますゥ〜」
「ハイ」
僕の返事を聞いた店員が踵を返して離れていく。僕の右手は、未だに「18」と手のひらが描かれた暖簾をしっかりと握りしめていた。
妻が夕飯の準備ができたことを知らせた。そして、息子が返事をしてダイニングへ向かっていく音が聞こえる。私は、机の上に置いていた記録媒体を手に取り、しばし若い頃の思い出に浸っていた。今日は息子の儀式の日だ。この家、情報科学者の家計に代々伝わる通過儀礼の日。
まだ通信技術が現在ほど発達していなかった時代、年端もいかぬものが大それた情報を手に入れるには、大きな壁が立ちはだかっていた。彼はその壁を越えようとし、失敗した。そして、決してこの”羞恥”を忘れなかった。
彼は人目につかない方法で18禁の秘宝にたどり着くべく通信技術を学び、生涯の仕事とした。その業績は人類に大きな恩恵をもたらし、様々な年齢の人間があらゆる場所で多種多様な情報にアクセスすることが可能になった。彼が成長し、家庭を持つ頃には、『すでにアクセスできない情報は存在しない』と評されるほど、情報インフラは発展を遂げていたのだ。
彼は『羞恥を乗り越えることこそが人を成長させる』と信じてやまなかった。そして、それは彼の息子に対して実行された。その儀式を通して息子も同様に情報科学の道を志すようになった。以降、この家ではこの儀式が脈々と受け継がれ、現在に至っている。
私が父から受け継ぎ改良したツールは、システム解析、ハッキング、痕跡の除去、システム復旧の全てをナノ秒単位で行うため、息子を含め全システムが不正を検知することは不可能だ。
その手の中にある媒体には、息子が今日に至るまでアクセスしていた18禁ゾーンに該当するサイトの閲覧情報と、アンダーディスプレイカメラなどで撮影された閲覧時の息子の様子、それらの場面を独自開発した『羞恥測定アルゴリズム』に当てはめ、本人が最も『羞恥心』を感じるように最適化された動画ファイルが収まっている。
儀式について一切を知らない息子と共に家族で夕食を囲みながら、この記録を鑑賞するというのが儀式の内容だ。
ダイニングに入る。父と母も食卓についた。これから何が起こるか知らない息子は、俯いて携帯端末をいじっている。
私も経験したが、きっとこのことは生涯忘れられない経験になるだろう。そして、我々も通ってきたように、激しい『羞恥』を経て大人になるのだ。
おめでとう。
息子は明日で18歳になる。
次の更新予定
2025年12月27日 18:00
少々ショートショート 矢張 宗輔 @YappariSohsuke
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