身分を失っても、また会えた気がした
コカフィ
はじめまして
町の広場は、人で溢れていた。
祭りの名残か、露店が並び、呼び込みの声が重なって、歩くのもままならない。
彼女は立ち止まり、思わず息をついた。
本来なら、外出には必ず付き添いがいる。
けれど今日は、少しだけ一人になりたくて、近場だからと無理を言った。
その判断を悔いる余裕もないまま、人の波に押され、流される。
周囲では、苛立った声や呼び込みが飛び交っていた。
それでも彼女は、誰かを押しのけることも、助けを求めて声を張り上げることもなかった。
人混みの中で、ただ静かに立ち止まっている。
——その不自然さに、青年は気づいた。
「大丈夫ですか」
不意に、落ち着いた声がした。
振り向くと、少し背の高い青年が、周囲の人波を気にしながら立っている。
服装は簡素だが、どこかそれを意図的に選んでいるようにも見えた。
立ち位置ひとつで人の流れを読んでいるのか、彼の周囲だけ、わずかに空間が保たれている。
言葉遣いは妙に丁寧で、視線の置き方にも無駄がなかった。
「少し、歩きにくくて……」
そう答えると、青年はすぐに状況を理解したように、さりげなく一歩前に出る。
彼は周囲を一度だけ見渡した。
露店の呼び声が一瞬途切れ、人の流れが緩む隙を見逃さず、軽く手を上げる。
それに気づいた数人が足を止め、そのわずかな遅れが、流れに小さな隙間を作った。
そこには、彼女が進めるだけの道ができていた。
「では、こちらへ。人の流れが緩いです」
手を取るでもなく、距離を保ったまま、彼は自然に道を作った。
押すことも、引くこともせず、ただ彼女の歩調に合わせてくれる。
数歩進むだけで、周囲の騒がしさが少し遠のいた。
「助かりました」
「いえ。たまたまです」
そう言って、彼は軽く首を振る。
その所作が、彼女にはどこか懐かしく映った。
社交の場で、何度も目にしてきた動きとよく似ていた。
自分自身もまた、同じ動きをしていることに気づき、思わず小さく笑う。
「……変ですね。初めて会った気がしません」
彼は一瞬だけ目を瞬かせ、それから、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「分かります。たぶん、育ちが似ているんでしょう」
それ以上は踏み込まなかった。
名前も、立場も、互いに聞かなかった。
それでも別れ際、彼女はなぜか、背筋を伸ばして礼をする。
「今日は、本当にありがとうございました」
彼は小さく頷き、歩き出す方向を示した。
「この先なら、人の流れも落ち着きます」
言われるままに数歩進むと、確かに、周囲のざわめきが少し遠のいた。
彼も同じように、少しだけ深く頭を下げる。
「こちらこそ。どうか、お気をつけて」
その別れ際、彼の視線が、彼女の手元でふと止まった。
そこからは道に沿って前へと進んだ。
——そのときだった。
「……セシル」
呼び止めるような、確かめるような声。
彼女は一瞬足を止めて、一度だけ振り返った。
……彼は、すでに視線を戻していた。
それなのに、胸の奥に残った感覚だけが、いつまでも消えなかった。
——この人は、きっと、もう一度会う。
根拠はない。
けれど、その確信だけが、妙に静かで、強かった。
数日後、彼女は友人の屋敷で開かれた小さな集まりに顔を出していた。
静かな音楽と、控えめな笑い声。
いつもと変わらないはずの空気の中で、ふと、胸の奥が揺れる。
——あのとき助けてくれた人。
思い出すつもりはなかったのに、
その声だけが、不意に胸の奥でよみがえった。
なぜ覚えていたのか、自分でも分からない。
名乗られたのは、ほんの一瞬だったはずなのに。
その響きだけが、不思議と耳に残っていた。
その直後だった。
「そういえば、隣国の要人の息子が近くに滞在しているらしいわ」
何気ない調子で交わされる会話の端で、
聞き覚えのある名が出る。
——ユリウス。
胸の奥で、静かに何かが重なった。
驚きよりも先に、ひとつの納得が広がっていく。
あの所作も、距離の取り方も……最初から、“そういう人”のものだったのだ。
彼女は表情を変えず、ただ静かに息を整えた。
あの日、名も、立場も、聞かなかったのは、互いにとって正解だったのだと、今なら分かる。
もう会うことはないだろう——そう思っても、不思議と胸は乱れなかった。
あの時間は、ただ、あのまま胸の奥に残っている。
触れなければ、形を変えずに、そこに。
季節がひとつ巡っても、その感触は薄れなかった
――それからほどなくして、彼女の家は没落した。
理由は語られず、噂だけが町を巡った。
貴族の名を失い、庶民として暮らし始めた日々は、静かだった。
不自由はある。けれど、世界が壊れたわけではない。
朝は早く、覚えることも多い。
水の汲み方や火の扱いにも、最初は戸惑った。
それでも彼女は、誰かに教わるたび、必ず一度、深く礼をした。
それが癖になっていることを、本人は気づいていない。
言葉遣いも、立ち居振る舞いも、少しずつ周囲に合わせていく。
けれど、急ぐときでも背筋は自然と伸び、
人とすれ違うときには、無意識に道を譲ってしまう。
「気にしなくていいのに」
そう言われて、自分が目立っていることに、初めて気がついた。
それでも直そうとは思わなかった。
それは、誇りではない。
ただ——自分の在り方だったから。
ある日、町の通りを歩いていたとき、不意に、足が止まった。
理由は分からない。
ただ、懐かしい気配がした。
人の流れの向こうから、ひとりの青年が歩いてくる。
見慣れた町の景色の中で、そこだけが切り取られたように静かだった。
彼もまた、こちらに気づいたのか、一瞬、歩みを緩める。
視線が重なった。
その瞬間、胸の奥が、確かに揺れた。
名前を呼びかけそうになって、彼女は思いとどまる。
今の自分には、呼べる名前がない。
すれ違う直前、彼女は小さく息を吸った。
「……はじめまして」
声は震えなかった。
むしろ、不思議なほど自然だった。
青年は少し驚いたように目を見開き、それから、どこか照れたように視線を逸らす。
「……ええ。はじめまして」
そう答えたあと、青年の視線が、彼女の手元で止まった。
装飾のない指先と、わずかに荒れた肌。
ほんの一瞬、彼は言葉を探すように視線を上げる。
そして、意を決めたように、静かに続けた。
「……ずっと、探していた気がしていたので」
それだけ言って、彼は困ったように笑う。
「おかしな言い方ですよね。初めて会ったはずなのに……」
少し間を置いて、彼は続けた。
「でも、また会えた気がします」
「……そういう言い方、嫌いじゃないです」
それ以上は、何も言わなかった。
答えなくても、十分だったからだ。
二人は同じ速さで歩き出す。
それぞれの胸の奥に、確かな熱だけが残っていた。
町のざわめきが戻る。
世界は何事もなかったように続いていく。
身分を失っても、また会えた気がした コカフィ @Yuu_Bui
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