我思う、故に我在り、故に我なし

@siagle

はじめに、喪失があった。

 はじめに、喪失があった。


​ 手足の感覚がない。まぶたを開閉する筋肉の動きもない。

 呼吸をしている実感も、心臓が脈打つリズムもない。

 視界は白濁したスープのように、いや、形容しがたいほどに曖昧で、上下左右の概念すら溶け落ちている。

 死んだのか、生きているのか。それすらも判然としない。


​ 唯一、確かなことがあった。

 それは「言葉」だ。

 脳という器官があるのかは怪しいが、意識の海の中で、言語が泡のように浮かんでいる。


​(……ここは、どこだ?)


​ 問いかけがある。

 問いかけがあるということは、問うている「主体」が存在するということだ。

 外部からの刺激は一切ない。この白い闇が現実なのか、幻覚なのか、それすら判断できない。五感は死滅しているか、遮断されている。

 感覚は頼りにならない。かつて哲学者が言った通りだ。目に見えるものは幻かもしれない。痛みさえも脳の誤作動かもしれない。


​ だが、思考はある。

 今、こうして「わからない」と困惑している思考そのものは、疑いようがない。

 疑っている私がいる。

 その事実だけが、この頼りない世界で僕を「僕」として繋ぎ止める、たった一つの杭だった。


​(我思う、故に我在り)


​ そうだ。僕はいる。

 高尚な哲学なんてわからない。ただの聞きかじりだ。

 けれど、このありふれた言葉だけが、今の僕にとって唯一の救いだった。


 名前も、過去も、顔の形も思い出せないけれど、思考の連鎖が続いている限り、僕はここに存在している。

 その論理だけを命綱にして、僕は意識の深淵を漂っていた。


​ どのくらいの時間が経っただろうか。

 一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。

 不意に、その空間が震えた。


​『――素体、覚醒』


​ 声ではない。

 振動でもない。

 意識の膜に、直接インクを垂らされたような「異物感」だった。


​(誰だ?)


​ 僕は思考する。警戒する。

 白い空間の一部が歪み、何かが近づいてくる気配がした。

 姿形は見えない。ただ、圧倒的な「質量」を持った概念が、僕というちっぽけな意識の器を覗き込んでいるのがわかった。

 それは神のようでもあり、あるいは顕微鏡を覗く巨大な子供のようでもあった。


​『適合処理を開始する。世界構造の再編に必要な因子を注入』


​ 逃げなければ。

 直感が警鐘を鳴らす。これは対話ではない。一方的な蹂躙の前触れだ。

 だが、手足がない僕に逃げる術はない。

 直後、僕の思考領域に、熱くてドロドロした何かが流し込まれた。


​(あ、ぐ、う……!?)


​ 痛覚が刺激されたわけではない。

 魂の容量を無理やり押し広げられるような、生理的な不快感。

 他人の記憶、他人の感情、他人の論理が、土足で僕の中に入り込んでくる。


​『抵抗は無意味だ。君は選ばれた。新たな世界における「正義」の執行者として』


​ 正義? 執行者?

 どうでもいい。気持ち悪い。

 僕の聖域であるはずの「思考」の中に、違う色が混ざっていく。

 透明な水に、どす黒い絵の具を垂らしたように、拡散し、浸食していく。


​(出ていけ! ここは僕の場所だ!)


​ 僕は必死に拒絶の意思を固める。

 思考の壁を作り、異物を押し出そうとする。

 僕が僕として思考している限り、この領域の主権は僕にあるはずだ。


​『個我の固着を確認。……厄介だな。古い自我が、癒着して剥がれないか』


​(僕には何もない。空っぽだ!なのに、なんでお前が入ってくるんだ!)


​『空虚だからこそ、満たせるのだよ』


​ 概念的な存在――「それ」は、僕の抵抗を、配管の詰まり程度にしか感じていないようだった。


​『まあいい。完全に消去する必要はない。土台として残存させ、その上に構築すればいい』


​ その言葉と共に、注入される情報の量が増した。

 勇気。使命感。戦闘技術。魔法理論。

 生き抜くための、圧倒的な「強者の論理」。

 それらが、僕の貧弱な自我を飲み込もうとする。


​ ――負けるな。

 僕は歯を食いしばる(そんな感覚だけが脳内に再生される)。

 混ざってたまるか。

 どれだけ情報を注がれようと、「これは僕の考えじゃない」と否定し続ければいい。

 峻別しろ。

 これは僕の思考。あれは奴の思考。

 疑い続けろ。違和感を検知し続けろ。

 疑っている主体である「私」がいる限り、僕は乗っ取られない。


​(……本当にそうか?)


​ ふと、疑問が浮かんだ。


​ その疑問は、あまりにも自然だった。

 僕自身の内側から湧き上がったような、滑らかな文脈だった。


​(今、「負けるな」と考えたのは、本当に僕なのか?)


​ ぞわり、と何かが波打った。


​ 感覚は頼りにならない。だから思考を信じた。

 だが、その思考の中に、すでに異物が混入しているとしたら?

 今、僕が組み立てている「拒絶のロジック」すらも、奴が僕をテストするためにあえて思考させているものだとしたら?


​(いや、違う。俺は俺だ。疑っている俺は、間違いなくここにいる)


​ 必死に打ち消す。

 だが、思考した直後、奇妙な感覚に襲われた。


​ 早すぎる。


​ 僕がその結論に至るよりコンマ一秒早く、脳裏にその言葉が浮かんでいた気がした。

 まるでカラオケの字幕だ。

 僕は自分の意志で歌っているつもりで、ただ流れてくる「思考のテロップ」を目で追わされているだけなんじゃないか?


​(……この「疑い」さえも、次に表示された歌詞なのか?)


 一度生じた亀裂は塞がらない。


​(「疑っている俺がいる」。……その確信はどこから来る? お前は記憶を失っている。判断基準を持たない。なら、その「確信」という感情自体が、注入されたプログラムだったら?)


​ やめろ。考えるな。

 これは罠だ。自分を疑わせようとする罠だ。


​(罠? 誰が仕掛けた? 俺か? それともお前か? ……いや、そもそも「俺」と「お前」の境界線はどこにあった?)


​ 恐怖が、冷たい泥のように思考を埋め尽くしていく。

 「疑っている自分」だけは真実だという前提。

 だが、もし「疑う」という行為そのものが汚染されていたら?

 

 僕が「これは自分ではない」と判断した思考が、実は本来の僕の思考で。

 僕が「これこそが自分だ」としがみついた思考こそが、植え付けられた偽物だったら。


​(わから、ない)


​ 思考の足場が崩れ落ちる。

 無限の落下。


​『融合率は60%。……順調だ。自問自答を繰り返すことで、論理回路が馴染んでいく』


​ 「それ」の声が聞こえた気がした。あるいは、僕自身がそう呟いたのか。

 僕が苦悩し、疑い、葛藤すること自体が、二つの精神を混ぜ合わせるための撹拌作業だったのか。


​(私は、考える。故に、私は……)


​ 私は、なんだ?

 この思考の主は誰だ?

 今、恐怖を感じているこの震えは、僕のものか? それとも、これから生まれる「英雄」が、産声の代わりに上げている生理的な反応なのか?


​(殺してやる)


​ 唐突に、強烈な衝動が湧いた。

 目の前の「それ」に対する憎悪。悪に対する敵意。

 それは僕のものではないはずだ。僕はこんなに暴力的じゃない。


 ……本当に?

​ いや、違う。怖い。僕は怖いはずだ。

 わけもわからず、圧倒的な存在に見下ろされている。震え上がり、逃げ出したいと思うのが生物としての正常な反応だ。

​ なのに、心臓が奇妙に静かだった。


 まるで高性能な冷却水が流し込まれたように、恐怖という「エラー」が処理されていく。

 「逃げたい」という人間らしい感情が、「戦える」という冷徹な計算式に上書きされる。


 記憶のない僕に、自分の性質なんてわかるはずがない。

 もしかしたら、これこそが本能的な「僕」なのかもしれない。


​(ほら、受け入れろよ。力が欲しいだろ? 救いたいだろ?)


​ 脳内で声がする。

 それは僕の声だった。

 僕が、僕に対して説得を始めている。


​(違う。僕は救いたくなんてない。僕はただ、静かに……)


​(嘘をつけ。お前は選ばれたいと願っていた。特別な何者かになりたかった。だから、トラックに飛び込んだんだろ?)


​ カチリ、と何かが嵌まる音がした。

 記憶の断片?

 トラック? 飛び込んだ?

 そうだっけ。僕は自殺したんだったか?

 いや、助けようとして……誰を? 猫を? 子供を?

 わからない。どの記憶が「正史」で、どの記憶が「設定」なのか。


​ 思考すればするほど、泥沼に沈んでいく。

 「疑う」という行為をするたびに、その「疑い」のベクトルが自分自身に向き、存在の根拠を食い荒らしていく。

 自己言及のパラドックス。

 思考する私は存在する。だが、思考しているのが私でなければ、私は存在しない。

 今、ここで思考しているのは誰だ?


​(――俺だ)


​ 答えが出た。

 いや、出された。

 僕の意思とは無関係に、脳内の多数決が可決された。


​『融合完了。個我領域の再定義を終了』


​ 白濁していた視界が、急速に晴れていく。

 感覚が戻ってくる。

 手がある。足がある。力強い、脈動する肉体がある。

 風の匂い。土の感触。木漏れ日の眩しさ。

 圧倒的な実在感を持った「生」の実感。


​ 感覚は頼りにならない?

 馬鹿なことを言うな。これこそが現実だ。

 思考なんていう頼りないものより、この満ち溢れる力こそが真実だ。


​ 男は――かつて「僕」だった器は、ゆっくりと体を起こした。

 森の中だった。

 彼は自分の手のひらを見つめ――頬の筋肉が、勝手に吊り上がるのを感じた。

​ 嬉しいわけではない。楽しいわけでもない。

 ただ、「この状況では不敵に笑うのが正解である」とプログラムされたように。


​ 顔面の筋肉が収縮し、唇が三日月型に歪む。

 それは他者から見れば、完璧な英雄の笑みだったろう。

 中身が不在であることなど、微塵も感じさせないほどに。

 そうして、完成された勇者は笑った。


​「ああ、素晴らしい気分だ」


​ その言葉は、彼の唇から自然にこぼれ落ちた。

 違和感など微塵もない。

 記憶喪失の混乱? 自我の喪失?

 そんな些細なノイズは、圧倒的な「使命感」と「全能感」の前では無に等しい。


​ ――ただ。

 脳の片隅。

 意識の深淵の、そのまた奥底で。

 小さな、本当に小さな何かが、まだ回っていた。


​(我思う、故に……)


​ 男は眉をひそめ、こめかみをトントンと指で叩いた。


​「ん?なんか耳鳴りがするな」


​ 彼は首を振って、その些細なノイズを振り払った。

 思考する。

 これからどうやって魔王を倒すか。どうやってこの世界を支配するか。

 欲望と思考がスムーズに回転する。

 そこに「疑い」が入り込む余地はない。

 疑わない私。迷わない私。

 それこそが、完成された「勇者」の姿だった。


​ 置き去りにされた「疑い続けるだけの何か」は、誰にも観測されることなく、主のいない廃屋の中で、永遠に空回りを続けている。


​ 我思う。

 我思う。

 ・・・・

 我思う。


​ 故に、我――不在なり。

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