ep9 雲のきおく
すん、と鼻をならす。
子供のように泣いたのなんて、いつぶりなんだろう。
立てた膝に額を押し当てる。
触り心地のいい薄手の毛布にくるまってベッドの上で後ろからセリアスに抱き込まれていた。
セリアスは何も言わず、落ち着くのを待ってくれている。
抱き抱えられて戻ってきたヒナタをみて、ミレナが悲鳴に近い声をあげていた。あとで、心配をかけたことを謝らないといけない。
涙が落ち着いてくると、この状況がひどく恥ずかしい。とても恥ずかしい。
そして、セリアスとの距離も近すぎる。
普段からスキンシップが激しいから慣れてはいたが、さすがにこの距離感はおかしい。
けれど、背中越しに伝わる鼓動が、なぜか心地よくて――そのままにしていた。
「泣いて恥ずかしい……男なのに……」
ぽつりと呟くと、ふ、と耳元に笑う息がかかった。そんなに近くに顔があったとは思わなかった。
「では、私はもっと恥ずかしいな。」
「あれは仕方ない。」
なんせセリアスは世界がかかってる。自分とは訳が違う。
「じゃあ、これも仕方ない。」
はっきりとセリアスが言うから、それもそうか、と素直に納得した。
泣く理由なんて、人の数だけある。悲しみも怒りも、どこがその人の限界値なのかなんて、決めようがないから。大小なんてない。――決して、言い訳ではない。
「聞いてくれる?」
自然と頼ることができたのは、セリアスだからかもしれない。
「いくらでも。――なんでも、聞かせて欲しい。」
ありがとうの代わりに、顔をあげてセリアスにもたれ掛かる。視線を上げると、優しい灰紫の瞳とかちあった。
「……俺はさ、けっこう、考えても仕方ない事は考えないって決めてるんだけど。」
「思い切りがいいのは、よく知っている。」
優しく微笑むその顔に、胸の奥がほどけていく。
「うん――でも今回はさすがにそれを超えたみたい。」
見上げるセリアスは下から見ても格好いい。わけもなく少しずるい気がする。
「俺さ、この世界に来てから、元の世界の記憶が少しずつ消えていってるんだ。」
ぴくりと、背後の気配が動く。
膝へ乗せた手に、労わるようにそっと手が重ねられた。
黙って続きを促すような仕草にあたたかさを感じる。
「……初めの日からなんだけど。
思い出せたのは、父さん、母さん、弟がいること。
それから友達4人――きっと、とくべつ、仲が良かったんだと思う。」
楽しかったこと、悲しかったこと、ほかにも――いろいろあったのだろう、と思う。
「――でも、この世界に来た日から、みんなの顔も名前も思い出せないんだ。あんなに大切だったのに。」
伝わってくる記憶は、どれも確かに愛だった。
自分が確かに誰かを愛しながら生きて、そしてそれと同じくらい相手も大切にしてくれていた。
わずかながら残っている記憶のそとでも、きっと色んな人と関わってきただろう。
「覚えてる人でも、全部は思い出せない。たまに、どんなやり取りがあったかなって。そう思い出すくらいで。」
断片的に思い出す記憶は、どれも過去の自分が大切にしてきて、今の自分そのものを作った根っこのようなものだと、心で感じていた。
それと同時に、知らぬ間にこぼれ落ちていくそれに、恐怖を覚えたのだ。
「今までの俺を作ってたもの、全部なくなっちゃうんじゃないかって、怖くなって。
今日のひかり――あのイルミネーションも、多分誰かと一緒に見たはずなのに。誰との記憶だったのか、ちっとも思い出せなくて。」
――その瞬間、急に、自分が不確かな存在になった気がした。
「それが無くなっちゃったら、俺っていう根本はどこにあるんだろうって……」
背後から、なにも言わずに、ぎゅっと抱きしめられる。
一拍の後、「ヒナタ。」と呼ばれて背中をそっと押された。
「……少しだけ、待っていてくれるか。」
なんだろう、とは思ったが、こくりと頷いて部屋を出ていく彼の背中を見送る。
――隠れて泣いてたら、どうしよう。
セリアスにとって、きっと胸が痛む話だったろう。
分かっていたのに、つい――今日はようやく魔法が成功して。その安堵も手伝って、抑えていた気持ちがダムのように決壊した。
おそらく、この記憶の欠けは“理”とやらが関係しているのだと思った。
異世界から来た自分は、それから外れているに違いない。
漠然としたどうしようもない不安を、黙って聞いてくれるセリアスがありがたかった。
彼は帰りたいか、とは一度も言わなかった。
優しい彼のことだ。喉元まで出かかったに違いない。
それでも、帰すあてもないのに、むやみに聞かない――その誠実さが好きだった。
今帰る事を考えても仕方がない。ヒナタ自身がそう割り切っていたからだ。
手段ができれば、また考えるのかもしれない。
けれど――今の、この不安定な記憶では、それさえも分からなかった。
膝を抱えてぼんやり思考をまとめていると、セリアスの気配がもどってきた。
同じ場所に腰を下ろし、また背中からそっと抱きしめられる。
そこに戻るんだ、とは思ったけれど、やっぱり心地いいので何も言わなかった。
「一人にしてすまない。」
少しの間なのに真摯に謝罪してくる彼へ、静かに首をふる。
「――これを、取りに行っていた。」
「手帳……?」
胸ポケットに入りそうな小さな手帳と、一本のペン。
「書き留めよう。」
驚いて、思わず身を起こして背後の彼と向き合った。
「たしかに、こぼれ落ちてしまったものは、もう拾えないのかもしれない。
それでも――今から書き留めて、遺すことはできる。
それをなぞれば、ヒナタの大切な記憶だって、きっと遺るはずだ。」
言葉のひとつひとつが、胸の奥に静かに沁みていく。
尽きたはずの涙が、またぽろりとこぼれた。――これは、嬉し涙だ。
僅かに震える彼の指先が、優しさを伝えていた。
しばらく、何も言えなかった。
その沈黙のあいだに、心の奥がゆっくりほどけていく。
涙を拭ってくれる指も、こちらを見つめる灰紫の瞳も、どこまでも優しい。
――ああ、この人は。
この世界で新しい思い出を作ればいいとか、「俺がいる」とか、そういう、安直な事を言わない。
一緒に記憶を大切にしていこうと、そう言ってくれているのだ。
途端に目の前の男が、どうしようもなく愛しく、そして愛らしく思えた。
もとより絆されていたのかもしれないが、もはやそれは分からなかった。
「ありがとう――セリアス。ありがと、……。」
「私では足りないかもしれない――だけど、一緒に背負わせてくれないか。向こうでの君も、私は知りたい。」
「今よりずっとガサツだったよ。……今でもそうとか、言うなよ? 王族と比べたら、日本人のほとんどはガサツなんだから。」
お前にだけは言われたくない――そう、友人たちの声が聞こえた気がする。
「ヒナタのことなら、何でも聞いていて楽しい。」
優しい声がくすぐったい。
「そもそもなんだけどさ、俺、字が汚いんだよね。そんな小さな手帳に書けるかな。」
気恥ずかしさから、若干誤魔化すように口をついてでたが、本当のことでもある。
なにせ、ルーエンの言葉を借りるなら一本線もまともに書けないのだ。文字が綺麗になるはずもない。
こちらに来て日本の言語も文字も、すっかりこちらのものに書き換えられてしまったが、文字が汚かった事は覚えている。
友人が休んだとき、ノートを貸したら「解読に時間がかかりすぎて時間の無駄」と言っていた。それでも、ちゃんと解読してくれたのだけど。
「それなら、私が書こう。ヒナタが書いたものも、あとで私が清書して本にまとめればいい。」
「そこまで?」
「いくらでも。なんてことはない。」
あらやだイケメン、と茶化すひどく場違いな親友の声が聞こえた気がした。思わず笑う。
それから、セリアスはゆっくりと話すヒナタの言葉を、手のひらに載せた手帳に器用に書き込んでいった。
母さんは、しっかりした人で、馬鹿ばっかりする俺にいつも呆れてて。……でも愛情深い人だった。優しい瞳が好きだった。
父さんは、少年心を忘れない人で、たまに一緒に騒いでくれた。母さんにもよく怒られてた。学習しないところがそっくり、って母さんが言ってた。
弟は、四つ年下の14歳なのに俺よりもしっかりしてて、ちゃんと夢をもって努力してた。自分で服を作ったりして、いつもばっちりきめてて格好良かった。きっといいファッションデザイナーになれる。
友人Aは、ムードメーカーで、やんちゃで。二人でいつもバカをやって先生に怒られた。でも「アホコンビが」って言いながら笑う先生も優しかった。あの先生好きだったな。よく二人でゲーセンで散財したっけ。あいつがいると場が明るくて楽しかった。
友人Bは、家庭の事情で留年してて、怖い顔してたから、変な噂を立てられていつも一人だった。席が隣になってから仲良くなって、ぶっきらぼうだけど大人びていて優しいやつ。陰できっと猫とか拾ってる。上級生に絡まれた時真っ先に助けてくれた。
友人Cは、最初ちょっと睨まれたりして怖かったけど、仲良くなったら何だかんだ言いながら一緒にいてくれた。俺の世界ではね、ツンデレって言うんだよ、こういうの。頭が良くて、いつもいろんなことを先回りして考えてくれてた。
親友は――皮肉ばっかり言うくせに、いつも傍にいた。たぶん、一番頼ってた。俺が入学した高校も、あいつが言ったんだ。「一緒に行こうぜ」って。おかげで思ったより頭がいい高校で困ったけど、二人でアホみたいなことやって、死ぬほど笑った。最後、ゲーム返せなかったな。あいつ、しっかりしてるけど意外と寂しがりやだから、今頃すねてるかもしれない。
みんな、幸せに生きてほしい。
長い話のあいだ、時折ことばの意味をたずねながら、セリアスが丁寧に書き留めてくれるのを眺めた。
そして書き上げたそれを、お守りのように手のひらごと握って手渡してくれた。
「……最後のは、ちょっと妬けてしまったな。」
「なにそれ。」
小さく笑うセリアスがちょっと面白くて、笑ったあと、胸に顔をよせた。
初めてのことに驚いたのだろう、恐々と背中に手を伸ばしてきた。いつもくっついてくる癖に、くっつかれるのは慣れていないらしい。
――そこは、犬とは違うんだな……。
いつか、“犬みたいだな”って思ってたこと、言ってみようか。彼はどんな顔をするのだろう。
ふと顔を上げた先、見つめた灰紫の瞳がこちらに落ちてきて、自然と瞼を閉じた。
唇がふれた瞬間、彼からふわりと優しい匂いがした気がした。
彼の与える温もりが、確かに“今ここにいる”という証だった。
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