第4話 ドクターはどこか危うい女性……?
パイプの剥き出しになった廊下を歩いて、端っこの突き当たり。そこに彼女の待つ医務室があった。
「来ましたよ、ドクター姉崎。いらっしゃいますか?」
「その声は鋼助はんやね。いま手が離せないから、勝手に開けてくれてええよ」
船医室のドアの向こうから返ってきたのは、京都弁混じりののんびりとした声だ。
ドアを開けたなら、ツンとした消毒液の匂いではなく、リラクゼーション効果のあるアロマの香りが嗅覚を擽った。
白を基調とする清潔感に溢れた空間。休息用のベッドも用意され、丸い舷窓さえなければ、病院の診察室にも見違えるだろう。
「やぁ、やぁ」
デスクの方には、電気ケトルを手にした女性の姿があった。
癖っ気混じりで跳ねた髪に、いつも閉じっぱなしの左目。眠たげに「ふわぁ……」とあくびを漏らした彼女が姉崎白恵(しろえ)。第六救助隊所属、共に〈こんぺき〉に乗り合わせる船医だ。
「ドクター……その様子だと、また徹夜ですか」
「あはは、そんなことはないで。ただ、ちょっーと寝てないだけやから」
そうは言っているが、彼女の目元にはマーカーペンで引いたような青黒いクマがある。この様子だと二徹……いや、三徹はしていたことだろう。
「いま、ちょうど珈琲を淹れるとこやったんよ。鋼助はんも飲むやろ?」
言うが早いか、彼女はすでに二人分のカップにケトルの中身を注いでいた。
「ウチ、珈琲を淹れるのだけは上手いんやで」
だが、差し出されたカップの中身に鋼助は思わずギョッとしてしまう。
自分が知る限り、珈琲とは豆を挽いた粉末を熱湯で煮だしたものであるはず。それなのにカップへなみなみと注がれたそれは、泥色をしたペースト状の何かだった。
「えっと……これはなんでしょうか」
「最近、また水が値上がりしたからなぁ。少なめのお湯で濃ゆーく作ったんやで」
「いや……これ、お湯と粉末の割合が一対九くらい……というか、ほぼ珈琲の粉じゃないですか⁉」
「んー……ちょっと、ちゃうかなぁ。ウチが好きなのはモカとかキリマンジャロとかのアフリカ産のお豆さんなんやけど、そこらへんも銀海が広がったせいでなかなか輸入されんくなったからのう。アジア産の豆を一割程度」
「待った! ……それじゃあ残り八割はなんなんですか?」
「ん? ビタミン剤と粉末カフェイン剤。あとは不眠薬とその他諸々の錠剤をすり潰したヤツやで」
そんな激物飲めるわけがない! これは珈琲ではなく薬学の暴力だと断言できる!
「すみませんッ! ドクターのご厚意はありがたいのですが、さすがにコレは飲めませんッ!」
「あれれ、もしかして鋼助はんって珈琲苦手なん? なんや、おこちゃま舌なんて可愛いとこもあるやなぁ」
珈琲は好きな方だが、今はそういうことにしておこう。
「それなら、これもウチが」
「えっ……ちょっ」
またも言うが早いか、彼女は鋼助の泥ペーストまで飲み干してしまった。
「そんなの飲んでたら、マジで死にますよ! まだ銀海の水を直で飲んだ方がマシですって!」
「むっ、それは流石に失礼やなぁ。ちゃんと美味しいで。それに最近はこれだけ飲んでも、どうにも目が覚めなくて……ふわぁぁ」
これだけの量を摂取してなおも眠いのならば、もう何らかの中毒だ。
こんな姉崎だが、それでも彼女が「ドクター」と慕われるのには相応の理由がある。
一つは彼女が高度な知見を持った船医であるから。そしてもう一つは、彼女が研究者という意味での「博士(ドクター)」でもあるからだ。
彼女は船医と研究員を兼任している。主な研究対象はハイドラであり、現在判明している奴らの習性の幾つかだって、彼女によって解き明かされたものだ。ハイドラの行動パターンをよりリアルに再現した訓練が可能になったのだって、彼女の功労といっても過言ではない。
詰まるところ、姉崎はちょっとした天才なのだ。
だが、それゆえに多忙かつ寝不足。他隊に比べ、比較的に新しく結成された第六救助隊は根本的な人手不足でもあり、姉崎もいらぬ負担を被っているのが現状であった。
「というか、薬の用法、要領くらい守りましょうよ。曲がりなりにも貴女は船医なんですし」
「んー? これでも守っているつもりやで。まったく、鋼助はんは大袈裟やなぁ」
彼女はケラケラと笑ってみせたが、その目はやはり片方が閉じっぱ。開いている方も何処か虚気である。
ハッキリ言って、今すぐ休んでもらいたい。そんな本音を抱くと同時に、鋼助は一つの疑問を覚える。
多忙であるはずの彼女がどうして、伝言を頼んでまで自分を呼び出したのか?
鋼助は最近、大きな怪我をしたわけでも、風邪を引いたわけでもない。心当たりらしい、心当たりがないからこそ、首を傾げてしまうのだ。
「それで、どうして俺を呼び出したんですか?」
「せやった、せやった。大事な話があるから鋼助はんを呼んだんよ。とりあいず、ホラ、座りなさいな」
姉崎はデスク上のPCモニターに鋼助のカルテを映しながら、タッチペンを構えた。
差し出された椅子に腰を下ろせば、自然と彼女に向き合って、診察を受けるような形になる。
「まずは確認なんやけど、どうして特務海上保安庁が、既存の海上保安庁とは異なる組織として新設されて、『特務』だなんて大層な冠を被せられてるのか? 鋼助はんは、その点をキチンと理解しとるよな?」
「えっと……それは俺たちが銀海での防衛・調査・救命活動により特化した組織だから……でしたっけ」
「ほとんど正解やね。なら、銀海での活動に必須なものも何か分かっとるよな?」
「高度な訓練と、ハイドラと交戦するための人体機能の拡張……通称〈EXD(エクステンド)手術〉を受けることですね」
汚染海域のバクテリアに生物が汚染され、なおかつ迅速に的確な処置が解かされなかった場合、その死亡率は八割を上回ると言われている。
ただ、ごく稀にバクテリアへの抗体因子を保有する個体が現れることも確認されていた。もっとも、その因子を持ったほとんどは理性を消失し凶暴化、体組織が巨大化することで、最後にはハイドラへと成り果ててしまうのだが。
「〈EXD手術〉は駆除したハイドラの死骸から、バクテリアへの抗因子を抽出。その因子を人体へ移植することで、脆弱な人間の身体でも銀海での活動を可能にするための手術なんや。さらには副次的効果として、因子の移植ベースになった生物の特徴を人体でも再現可能になる。つまりは────」
姉崎はその整った輪郭に指を添わせた。
「身体から魚のヒレやらナニやらが生えてくる、ビックリ人間改造・手術ちゅーことやな!」
「……えっと、最後の方はかなり雑にまとめましたね」
「医師の仕事は患者に分かりやすく解説することやで。それに小難しいことを小難しく解説したって面白くないやろうし。何よりウチが眠くなっちゃうから」
その点に関しては鋼助も同意せざるを得なかった。訓練校で習った〈EXD手術〉の概要はあまりに長ったらしく説明されるので、講義中に何度睡魔の水底へ轟沈したことだろうか。
「さて、前置きもここまでにして本題に入ろっか!」
彼女はモニターに生物名一覧を表示した。そこに羅列されるのは、特務海上保安庁が現在保有する生物の因子の一覧だった。
「蛍ちゃんは『まだ早い!』っていうと思うけど、ウチはそろそろ鋼助はんも手術を受けてええんやないかなって思うんよ」
〈EXD手術〉は誰でもすぐに受けられるというものではない。
手術に必要なのは、第一に抵抗因子を摘出するためのハイドラの死骸。第二に手術を受ける者の強靭な肉体が必須条件となる。
「さっきも言うたと思うけど〈EXD手術〉は他生物の因子を、力任せに人体へ埋め込むようなもんなんや。貧弱な身体に埋め込めば、因子が身体と拒絶反応を起こして、壊れてしまう。それに一度因子を埋め込めば、再度摘出することも不可能や」
補足だが、因子保有者の体に常時ベースとなった生物的特徴が現れるわけではない。
専用の因子起動剤を摂取することで初めて、外見的な特徴が現れる。蛍を筆頭とした〈こんぺき〉の乗組員たちが良い例だ。
「せやから、特務海上保安庁に入ってもまずは因子に適合するよう身体を鍛えたり、ベースにする生物を選んだり、キチンと準備する時間が必要なんよ。けど、鋼助はんの場合はそろそろ身体も仕上がった頃やろうし、このリストの中から候補くらいは決めてて欲しいなーって思って……ほら、手術を受ける場合は、ウチが申請書やら何やらも書かんとあかんやん」
「いや、申請書くらい自分で書きますから。ドクターの悪いところは、そうやって自分から、他人の仕事まで背負おうとするところですよ」
「せやけど蛍ちゃんも鋼助はんも、他の隊員さんたちだって必死に頑張ってるやで。なのに、ウチだけゆっくりするってのも、どうにも寝覚めが悪くてなぁ」
「寝覚めが悪いのは、薬物ペースト(あんなもん)を常用しているせいもあると思いますが……」
鋼助はモニター上に現れた自分のカルテと、生物リストの一覧を交互に見合わせる。特に高い適合率が期待される生物にはわざわざ赤線まで引かれていた。
アカエイ。
イセエビ。
サカマタシャチ。
タスマニアキングクラブ。
モンハナシャコ。
自分と相性の良い因子は、甲殻類が多めだろうか。
分厚い殻を発現させる性質上、甲殻類の〈EXD手術〉はどうしても動きが鈍重になりがちだ。出来るなら高い潜水能力とスピードが欲しいのだが。
「そうですね……この中ならシャチ辺りが、」
鋼助がリストの中から生物を選ぼうとした途端────艦内にアラートが響いた。
『〈みずかみ〉第八号から、救援要請。総員、至急準備されたし。繰り返す〈みずかみ〉第六号から、救援要請』
唸るようなアラートは腹の奥にまで響く。原子炉エンジンが緩やかに稼働する小さな振動はが〈こんぺき〉発艦の合図だ。
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