第3話 その船は銀海を往く

 大型救護艦〈こんぺき〉はその名の示す通り、二〇〇メートル余りの巨体を誇る船舶だ。しかし乗組員である第六救助隊の面々は三十名程度と、船の大きさに対してあまりにも少な過ぎる。


 これは〈こんぺき〉が多くの救護者を格納するための船舶であることと、第六救助隊が特務海上保安庁内でも比較的新しく結成された隊であることに起因した。


 ハイドラの襲撃に備えるため、装甲版を幾重にも重ねられた船体は、堅牢な要塞を思わる。甲板に計二十基が配置された消火剤の噴射ノズルは、無骨な砲門のようで、総じて救護艦というよりも軍艦らしい見てくれをした〈こんぺき〉だが、鋼助はこの船での生活を気に入っていた。


「ふぅ……これでよしっと!」


 心地の良い潮風と炎天の下で。デッキブラシを肩に担いだ鋼助は、満足げな息を漏らす。その眼前に、ピカピカに磨き上げられた甲板が広がっていた。


〈こんぺき〉内の炊事洗濯、その他諸々は基本的に当番制で回されている。だから、雑な隊員が当番の日によっては、掃除が細部まで行き届いていないことだって珍しくない。


 だが、こと清掃当番において鋼助の右に出る隊員はいなかった。


 今日も良い仕事をしたと、自分を褒めてやりたいものだ。


「おっ! ちゃんと綺麗になってるじゃん」


 軽快な靴音を鳴らしながら蛍も甲板に上がって来た。


「けど、ここはどうかしら?」


 彼女はツーと指先で手すりをなぞってみせた。


 口うるさい姑みたいなことをしだす彼女だが、そこも当然抜かりなく。きちんと耐水ペーパーで磨き上げておいたのだ。


「ご心配なく」


「ほほう。こんなところまで綺麗にしてるなんて、さすが新人くん! 掃除だけはもう立派に一人前ね!」


「掃除だけって……それじゃあ他が一人前じゃないみたいなんすけど……」


「あら? 掃除以外はまだまだダメダメなのが新人くんでしょ?」


 彼女が手厳しいのは相変わらず。せめて褒めるか貶すかはどっちかにしてほしい。


「ははは……」


 苦笑いを浮かべる鋼助に彼女は、ヒョイと五〇〇ミリリットルのペットボトルを放った。取りこぼしそうになるもキャッチ。途端にひんやりとした感触が鋼助の掌に広がる。


「ご褒美よ。いつもお掃除ご苦労様」


「おわっ、とっと……あ、ありがとうございます!」


 わざわざ下の売店で買ってきてくれたのだろう。


 涼しげな水色のパッケージには「PURIFIED WATER(浄化済み水)」とある。


「後輩をねぎらうのも仕事のうちだからね。けど、また自販機の値段……というか水全般の値段が上がったみたい。これが一本六〇〇円なんて。馬鹿馬鹿しくてやってらんないわ」


 蛍は自分の分のペットボトルの蓋を軽くつまんで、口元を尖らせながらぼやく。


「銀海のせいで、綺麗な水も貴重になってきましたからね」


 粘質を持ち、鉛をグツグツと煮詰めたような表層をした海────その大半を占める汚染物質の正体は、未知のバクテリアだと言われている。


 十年前に太平洋・中心部で発生し、海流に運ばれることで世界中に広まったこのバクテリアは、そこにいた生物達を片っ端から蝕み、死に至らしめ、ごく稀に生き残った個体すらもハイドラへと変えてしまった。


「……まぁ、ウチの国はアレがあるだけマシな方なのかしらね」


 港に停泊した〈こんぺき〉。そこから見える遥か向こうに、三〇メートルはあろう円柱状の影が見えた。


 ピラー型浄水システム〈みずかみ〉。日本の大陸をぐるりと囲むよう等間隔に浮かぶ計九本の柱状施設だ。


 汚染の黎明期、多くの国々は海岸沿いに防護壁を築くことで、銀海化現象の脅威から身を守ろうとした。しかし、所詮は急ごしらえの籠城策に過ぎず。侵攻するハイドラによって防護壁を破られ、生物災害(バイオハザード)による甚大な被害が多くの国々を吞み込んでいった。


 世界で六番目に広大な経済水域を誇り、四方を海に囲まれた日本だって、本来であれば他国と同じ結末を。いや、それ以上の惨状を招くはずだった。


 だが、今日も日本は未だ国家としての機能を維持したまま存続している。急造された〈みずかみ〉が領海内のバクテリアを取り除き、領海内への汚染拡大を防いでいるからだ。


「〈みずかみ〉によって、日本は領海内のおよそ半分の〝蒼い海〟を取り戻した。今や世界中で汚染されてない海を見られるのなんてウチの国か、そもそも寒さでバクテリアが死滅しちゃう北極と南極くらいなものだからね」


「そう……ですよね」 


 ペットボトルの中身はすぐになくなってしまった。炎天の下、カラカラに乾いた喉を潤すには少し足りない。


 天然の水を口にしたのもどのくらい前になるだろうか? 地下の水源から汲み上げられた純水なんて高級品、そう滅多に口にできるものではない。


「特務海上保安庁の職務は多岐に渡るわ。例えば、領海内に紛れ込んだハイドラの駆除や、〈みずかみ〉の防衛に、海難事故の救護活動。当然、銀海の調査もそのひとつ……だけどさ、新人くんはどう思う? 仮に何かを掴めたとして、私たちはもう一度青い海を取り戻せると思う?」


「それは……」


 鋼助は漠然と水面を眺めた。


 ただ、その視線は〈みずかみ〉の影響範囲外。遥か向こうに広がる銀色の海と、そこに蠢くハイドラたちを据えた瞳で睨んでいるようであった。


「難しいことだと思います。けど、この海で誰かが助けを求めているのなら、俺はその声に全力で応えたいんです。実は俺、小さい頃に『必ず助けるから』っていう女の子との約束を守れなかったことがあって……」


 溜め込むように俯く。だが、その視線をすぐに前方へと向け直した。


「だから、今度こそ、その約束をちゃんと守りたいんです」


「なるほど。君が特務海上保安庁の中でも出来たばかりのウチの隊を選んだのは、そういう理由だったわけね」


「同じく人命救助に特化した第五とも迷いましたが、人手不足だと伺っていたので。俺はこの第六で自分を一から鍛えたいと思いました!」


 蛍は納得したように頷くも、次にかける言葉は厳しいものだ。


「けど、午前中の訓練みたいな有様じゃ、その約束も守れないわよ。ホラ、腕立て三セット!」


「はっ……はい!」


 彼女が声を張り上げれば、条件反射で鋼助の体が動いた。この半年間、彼女には随分とシゴかれたのだ。ワンセット目を終えたところでハッと我に返る。


「ちょっ……いきなり、何をやらすんですか!」


「さっき自分で言ったじゃないの、自分を鍛えたいって。なら筋トレしかないでしょ? ひとまず、腹筋と懸垂も三セットずつね」


「うっぐ……この後、船内の掃除も残っているんですが……」


「さっきの訓練での罰も含んでるの。それじゃあ、私は持ち場に戻るから。今日は洗濯当番だしね」


 ヒラヒラと手を振って彼女は階段を降りていく。しかし、そこで何かを思い出したのか足を止めてしまった。


「あっ……」


 踵を返し、蛍は鋼助に一つ伝言を残す。


「そういえば、ドクター姉崎(あねざき)が呼んでたよ。『鋼助くんはどこ行ったかなぁ? お話したいんやけどなぁ』って」

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