第2章:一胴八度と桃の籠手
関東皇国軍、前線拠点の一角。そこは華やかな本部とは切り離された、死臭と重油の臭いが混ざり合う吹き溜まりだった。
灰堂迅は、支給されたばかりの古びた背嚢を担ぎ、指定された天幕の前に立っていた。
案内役の憲兵は、汚物を見るような目を迅に向けると、吐き捨てるように言った。
「ここがデッドマンズ・スクワッドの拠点だ。死に損ないにはお誂え向きの場所だろう」
憲兵は足早に去っていった。迅は無言で天幕の入り口を跳ね上げた。
中は薄暗く、煙草の煙が充満している。奥には数人の男女がいた。この部隊をまとめる豪徳寺が、手にしたナイフを木のテーブルに突き立てて立ち上がった。
「俺は豪徳寺だ。新しい捨て駒か。名前は?」
「灰堂迅です」
「お前の噂は聞いている。素手で装甲歩兵を灰にしたそうだな。気味が悪いことだ」
豪徳寺の言葉にはあからさまな棘があった。
迅の隣で、一人の女性が銃の手入れを止めた。魔導狙撃手のレイだ。彼女の瞳は氷のように冷たく、迅の内側を見透かすような鋭さを持っていた。
「仲良しごっこをするつもりはないわ。戦場で足を引っ張るなら、後ろから撃ち抜くだけよ」
レイはそう告げると、再び自分の仕事に戻った。
迅は空いているスペースに荷物を置いた。彼らにとって自分は、いつ死ぬかわからない消耗品に過ぎない。それは異世界で処刑人を務めていた頃と同じだった。
不意に、天幕の入り口が開いた。
九条凛が数名の部下を連れて現れた。部下たちは、布に包まれた巨大な荷物を抱えている。凛は迅を見据え、その荷物を床に置かせた。
「灰堂、貴様に与える武器だ。
凛が布を剥ぎ取ると、そこには異様な存在感を放つ刀があった。
日本刀の形をしているが、その長さは迅の身の丈ほどもある。刀身は黒く、不気味な光沢を放っていた。重さは優に二十キロを超える。並の人間では振ることさえ不可能な代物だ。
「これを使え。貴様の魔力の出力を、この刀の芯材が受け止めるはずだ」
迅は無造作にその柄を掴んだ。
凄まじい重量が腕にかかる。迅は銀灰の魔力を僅かに流し込み、無理やりその巨刀を引き抜いた。
キィィィィィィィン、と空気が震えるような音が響く。
「……いい重さだ」
迅の曇った瞳に、僅かな光が宿った。
それから数時間後。デッドマンズ・スクワッドに初任務が下された。中部国との国境付近にある、移動式の防衛拠点への夜襲だ。
深夜。雨は止み、深い霧が立ち込めていた。
空が裂けた。中部国が放った魔導榴弾の飽和攻撃だ。
無数の光の尾が夜空を塗り潰し、次の瞬間、迅の周囲は光と衝撃に包まれた。
ドォォォォォォン!
鼓膜を揺らす爆音。地面が激しく跳ね上がり、逃げ遅れた兵士たちが泥と共に宙へ舞う。
着弾の熱が雨を蒸発させ、戦場は視界ゼロの白濁した世界へと変わった。足元は血と泥が混ざり合い、一歩踏み出すごとに体力が奪われる底なしの沼だ。
「灰堂! 聞こえるか、灰堂ッ!」
通信機から豪徳寺の怒鳴り声が響く。
ノイズ混じりの声は、この世の終わりを告げる警笛のようだった。
「前方の礼拝堂跡に、九州連合から派遣された聖女が取り残されている。名はサクラ・ミナモトだ。その女は皇国にとって重要な交渉札になる。何が何でも生かして連れ戻せ!」
命令は簡潔だった。道は中部国の重機関銃が作り出す弾丸の網に覆われている。
迅は一胴八度の柄を握りしめた。
先ほどの戦闘で酷使した両腕の筋肉が、焼けた鉄を押し当てられたように熱い。皮膚の下では銀色の血管がドロドロと脈打ち、指先が勝手に震えている。
「処刑人に、休息はないな」
迅は低く呟き、白煙の向こう側へと駆け出した。
すぐさま敵の自動防衛ポッドが反応する。二十ミリ口径の魔導弾が、迅の足元を容赦なく削り取っていく。
泥濘が足を捕らえ、速度が上がらない。
迅は背中から一胴八度を引き抜いた。二十キロを超える黒い刀身を、泥の中に深く突き立てる。
「……ふんッ!」
一胴八度を支点にし、迅は力任せに体を跳ね上げた。
泥を蹴るのではなく、刀を軸にして空を飛ぶ。弾丸の雨を頭上でやり過ごし、迅は礼拝堂の崩れた屋根へと着地した。
その瞬間、迅の脳裏に異世界の光景がフラッシュバックした。
大聖堂。ステンドグラスから差し込む光。その中心で神の意志を説いていた一人の聖女。
ジークフリートと呼ばれていた頃の自分が、その手で首を撥ねた女だ。処刑される瞬間まで、彼女は慈悲深い微笑みを浮かべていた。
迅は頭を振り、過去の幻影を振り払った。崩落した礼拝堂の中央。そこに一人の少女がうずくまっていた。
桜色の装束に身を包み、周囲に淡い桃色の結界を張っている。その結界は敵の攻撃にさらされ、今にも砕け散りそうだった。
「あなたが、サクラ・ミナモトか」
迅は屋根から飛び降り、彼女の前に着地した。同時に結界が限界を迎え、ガラスが割れるような音と共に消滅した。瓦礫の隙間から敵の装甲歩兵が銃口を向ける。
迅は両腕の激痛を無視し、一胴八度を横一文字に振るった。
銀灰の魔力が黒い刀身を駆け抜け、白い輝きが爆発する。放たれた衝撃波は、迫りくる弾丸をすべて粉砕し、背後の装甲歩兵を壁ごと灰へと変えた。
凄まじい反動が迅の全身を突き抜ける。
両腕から鮮血が噴き出し、銀色の血管が浮き出て波打った。
迅は膝をつきそうになるのを、一胴八度を杖にすることで耐えた。
背後の少女、サクラが恐る恐る顔を上げた。彼女の瞳に、泥と血にまみれ、死神のような殺気を放つ一兵卒の姿が映る。
迅はサクラの腕を掴み、強引に立ち上がらせた。
彼女の顔は、かつて自分が殺した聖女と酷似していた。迅にとって、彼女はただの守るべき任務対象に過ぎない。
「行くぞ。ここはもうすぐ沈む」
迅は彼女を連れ、再び戦火の渦中へと飛び込んだ。
撤退ポイントに到着した時、迅は限界だった。両腕の感覚は完全になくなり、視界は端から欠け始めている。
サクラは自分を救った少年の顔を、じっと見つめていた。
迅の曇った瞳。光を反射せず、ただ虚無だけを湛えたその目。
「……あの」
サクラが、震える声で呟いた。彼女の視線は、迅の動かない右目に向けられていた。
「……あなたの右目、死んでいますね?」
迅の動きが止まった。爆炎の音が遠のき、周囲の喧騒が消える。サクラの言葉は、迅の魂の奥底にある秘密を正確に射抜いていた。
翌日。野戦病院の天幕に、圧倒的な殺気と共に皇国の軍神、黒岩大佐が現れた。
彼は迅のベッドに歩み寄ると、脇に抱えていた武骨な鋼鉄の箱を床に置いた。ドォォォン、と重い音が響く。
「灰堂迅二等兵。貴様の戦果は聞いた。一振りの刀で中部国の装甲車を沈めたそうだな。だが、その代償に両腕を壊した。それでは本当に使い捨てだ」
黒岩は箱のロックを解除した。中から現れたのは、鈍い光沢を放つ一対のガントレットだった。
装飾は一切なく、ただ実用性だけを追求したかのような鋼の塊。手の甲には不気味な桃の紋章が刻印されている。
「桃の籠手だ。いにしえの時代、この日本に蔓延った鬼を討つために、一人の英雄が使ったと伝わる伝説の防具だ。皇国の地下深くで眠っていたものだが、貴様ならこれに耐えられるかもしれん」
黒岩は籠手を取り出し、迅の両腕に装着させた。
装着した瞬間、迅は全身を貫くような衝撃に襲われた。
「が、は……っ!」
両腕の魔力回路が、強引に、暴力的なまでに拡張される。
迅の内側に眠る銀灰の魔力が、籠手の内部構造と共鳴し、凄まじい熱量を放ち始めた。銀色の血管が今まで以上に激しく浮き上がり、籠手の隙間から銀の魔素が溢れ出す。
「この籠手は、持ち主の魔力を強制的に引き出し、増幅させる。耐えろ。ここで死ぬなら、貴様の価値はその程度だったということだ」
迅は歯を食いしばり、意識が遠のくのを堪えた。やがて熱は冷え、代わりに冷徹な力が両腕に宿った。籠手は迅の腕の一部となったかのように、ぴったりと馴染んでいる。
驚くべきことに、二十キロを超える一胴八度を支えるための補助力が、籠手から常に発生していた。
迅は立ち上がり、一胴八度を背負った。
黒岩は冷徹な眼差しで、迅を見下ろした。
「その籠手は鬼を殺すためのものだ。鬼を殺すものは人に非ず。これでお前も、人でなくなったわけだ」
人でなくなった。その言葉は、迅にとって絶望ではなかった。
異世界で処刑人として生きた日々に、ようやく追いついたような奇妙な安堵感があった。
人でなくなった死神が、九つに裂けた日本の大地を灰へと変える時が来たのだ。
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