叛逆の灰兵、異能の戦場を駆ける ―元異世界の処刑人は、九つに裂けた日本で軍神と呼ばれる―
いぬがみとうま
第1章:泥濘に降る銀の灰
空は鉄の味がした。
降り続く重たい雨が富士山麓を底なしの泥濘に変え、兵士たちの絶望をこねくり回している。
関東皇国軍、第三国境守備隊。この最前線に国家の威信など存在しない。あるのは湿った火薬の焦げた臭いと、汚物にまみれた土、そして死を待つ者たちの吐息だけだ。
少年兵は恐怖で歯の根を鳴らし、装填も忘れた手つきで小銃を抱きしめている。数日前までは故郷の村で鍬を握っていたという少年は、いまや恐怖という名の怪物に魂を食い荒らされていた。
迅の意識は、この泥塗れの戦場から遠く離れた記憶の深淵に沈んでいた。
かつて、彼はジークフリートと呼ばれていた。剣と魔法が支配する異界の地で、神の名の下に罪人を屠り続けた聖騎士団の処刑人。何千もの命を銀色の灰に変えてきた報いか、彼は仲間に裏切られ、断頭台で果てたはずだった。
目を覚ませば、この裂けた日本という戦場に立っていた。文明が異能と呼ばれる歪んだ超能力で塗り潰され、九つの国に分かれて同族同士が殺し合う、狂った世界。
「敵影ッ! 中部の装甲歩兵だ! 全員構えろ、撃て、撃てええええ!」
観測兵の悲鳴が雨音を切り裂いた。濃霧を割り、中部城塞列国が誇る鋼鉄の巨躯が現れる。全身を二センチ厚の魔導鋼板で包み、二十ミリ機関砲を直結した魔導装甲歩兵だ。
ドォォォォォン!
着弾の衝撃が隣の新兵を泥と共に宙へ舞わせた。叫び声すらなかった。
迅は手にした官給品の六四式魔導小銃を泥の中に捨てた。三発しか残っていない鉛の礫では、目の前の怪物の外装を傷つけることさえ叶わない。
二十キロを超える鋼の怪物が、迅の頭上へ巨大な機械の拳を振り下ろそうとする。
迅は逃げなかった。一歩も引かなかった。代わりに、泥に汚れた右手をゆっくりと前へ突き出した。
「《銀灰の処刑――シルバー・アッシュ・エグゼキューション》」
それは、この世界の理に基づいた異能ではない。魂の核に刻み込まれた死の権能だ。
迅の掌から、砂のように微細な魔力が滲み出した。
次の瞬間、装甲歩兵の拳が迅の手に触れた。
キィィィィィィィン!
金属が分子レベルで根底から崩壊する音が響く。
強固な魔導鋼が、風もないのに砂となって解けていく。装甲の中にいた兵士も、悲鳴を上げる暇なく肉体ごと銀色の灰へと成り果てた。
「な……んだ、と……?」
生き残った兵士たちが硬直する。自分たちを蹂躙していた鋼鉄の死神が、少年の手に触れただけでただの灰の山へと変わったのだ。
迅は無造作に灰の山を跨いで歩き出した。
降り続く雨が迅の銀色の魔力を洗い流そうとする。だが、彼が歩くたびに足元の泥は白く乾き、命の気配を失っていく。それは死神の行進だった。
後方の霧から複数のエンジン音が響き、黒塗りのジープが現れた。車体には、精鋭鴉の羽の紋章。
降り立ったのは、凛とした眼差しの女性将校、九条凛中隊長だった。彼女は灰の山と迅を交互に見つめ、その瞳に宿る虚無を見抜いた。
「貴様が、報告にあった灰を撒く死神か?」
「灰堂迅、二等兵です」
運命の歯車が、この泥濘で確実に回り始めた。
三時間後。迅は皇国軍の臨時拠点にある尋問室にいた。
ガラス越しの観測室には、九条凛と魔導技師たちが陣取っている。
凛は迅に命じた。戦場で見せた力を、用意された強化合金板に対して振るえと。
迅が板に手を置くと、銀色の霧が立ち上った。
十センチを超える厚さの金属が、熱も火花もなく、砂糖菓子のように崩れ落ちていく。
「測定不能。これは破壊ではありません。崩壊、いえ、消滅です」
技師たちの驚愕の声が響く中、凛は確信した。この力は既存の異能ではない。世界の理の外側にある異物だ。
彼女は部屋に入り、迅のすぐ傍まで歩み寄る。
「灰堂、貴様に与える席は、私の直属にある斥候分隊デッドマンズ・スクワッドだ。戦場で最も生存率が低く、最も汚れ仕事が多い場所だ。だが、貴様のその異常な力を振るうには、最適の死に場所でもある」
「拒否権はないのでしょう」
「物分かりが良くて助かる。だが、その素手だけで戦い続けるのは限界がある。貴様の魔力は強大すぎる。肉体がその出力に耐えきれず、いつか自分から壊れる」
凛は迅の袖を捲り上げた。そこには銀色の血管が浮き出ており、皮膚が僅かに壊死し始めていた。異世界の術式を現代の肉体で発動させている歪みは、確実に彼を破滅へと追い込んでいる。
「来週から、中部国の中核都市への大規模侵攻が始まる。そこが貴様の初陣だ。死神であることを証明し続けろ。貴様が使い物にならなくなるその日まで、私は貴様を戦場へ放り込み続ける」
迅は自分の右目を指先で触れた。
光を失い、白く曇った瞳。異世界を捨て、この日本に転生した際に支払った代償だった。
「命令は了解しました。戦場を片付けるだけです」
「いい返事だ。ようこそ、地獄の鴉の羽へ」
九条凛は冷たく微笑み、去っていった。
迅は一人、掌に残る銀色の残滓を見つめた。
窓の外には、荒廃した日本の山河が広がっていた。
かつて日本と呼ばれたこの島国は、五十年前の「大崩落」で完全に崩壊した。
大地が裂け、空から未知の魔力が降り注いだあの日から、国は九つの武装国家に分裂した。
関東神聖皇国、中部城塞列国、北海、東北、近畿、中公、四国、九州、琉球。
各国が血を流し、終わりなき内戦を続ける理由はただ一つ。崩落と共に現れた「異能資源」の奪い合いだ。
この資源から得られる魔力がなければ、今の文明を維持することはできない。土地を奪い、資源を奪い、敵を排除する。それが、この壊れた世界における唯一の正義だった。
どの国が勝ち、どの国が滅びようが、迅には関係のないことだった。
九つに裂けた日本。使い捨ての兵士。全ての断片が、血の交わる戦場で一つに繋がろうとしていた。
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