『「人をつまずかせる」だけの底辺能力持ちだった俺が、学園のマドンナを救っていつの間にかモテ男になっていた件』
@SoHL
第1話 その「つまずき」は、神の如く
超能力なんてものは、映画や漫画の中だけの話だ。
空を飛ぶヒーローも、炎を操るライバルも、現実の世界には存在しない。
この世界は物理法則に支配され、奇跡なんて言葉は、ただの幸運を大げさに言い換えただけの欺瞞(ぎまん)だ。
……少なくとも、俺以外の人間にとっては。
俺――結城湊(ゆうき みなと)には、誰にも言えない秘密がある。
あれは小学校低学年の頃、放課後の教室でのことだった。
テレビのアニメキャラが格好良く指を鳴らす姿に憧れて、俺はひたすら指パッチンの練習をしていた。
乾燥した冬の教室。何度も何度も、指を滑らせて、皮膚が赤くなるまで繰り返した。
ようやく「パチン」と、乾いた、心地よい音が鳴った瞬間だった。
目の前を歩いていた悪友の足が、何もないところでカクンと折れた。
「……え?」
最初は偶然かと思った。だが、二度目も、三度目も同じだった。
俺が特定のイメージを持って指を鳴らすと、狙った相手がほんの数センチ、つまずく。
それが、俺にだけ与えられた、神様のイタズラのような地味な能力【つまずかせ】の始まりだった。
期待しなかったわけじゃない。
自分は選ばれた人間で、いつか世界を救う日が来るのではないか。そんな中二病じみた妄想にふけった夜もあった。
けれど、現実は残酷だ。
数センチつまずかせる。ただそれだけの力が、一体何の役に立つ?
銀行強盗を止められるわけでも、美少女を救えるわけでもない。せいぜい、ムカつく奴のジュースをこぼさせるくらいの、性格の悪い嫌がらせが関の山だ。
結局、俺はこの力を隠すことにした。
誰かに話したところで「中二病乙」と笑われるのがオチだし、何より、こんな地味な力のために「特別」であり続ける努力をするのが面倒だった。
俺は背景の石ころとして、ひっそりと、目立たず生きていくことに決めたのだ。
「……はぁ、帰りたい」
蒸し暑い講堂の隅。
全校集会という名の、退屈な時間。
俺は壁に寄りかかり、ポケットの中でそっと指を重ねる。もうそれが癖になっていた。
壇上では、この学園の絶対的マドンナ、九条院麗華(くじょういん れいか)が演説を行っていた。
スポットライトを浴びる金髪は、まるでそれ自体が熱を帯びて発光しているかのように輝き、凛とした声がマイクを通してスピーカーから響き渡る。
九条院麗華。学園一の美貌を持ち、家柄は国内屈指の財閥。そして何より、彼女自身の振る舞いが完璧だった。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、大勢の視線を浴びても微塵も揺るがないその姿。
彼女のような「本物の主役」にとって、俺のようなノイズは、最も遠い存在なのだろうな、とぼんやり思う。
「――それでは、これで演説を終わります」
麗華が優雅に一礼し、演説を終えた。
講堂を揺らすような拍手の渦。彼女は完璧な所作でマイクから離れ、壇上の端にある階段へと歩みを進める。
その時だった。
俺の網膜に、不自然な「違和感」が走った。
階段の三段目。
古びた木の色と同化した、極細の釣り糸が張られている。
さらに、その階段を降りきった先、ちょうど転倒した人間が頭をぶつけそうな位置に、重厚な陶器製のプランターが不自然な角度で置かれていた。
あんなところにプランターがあるはずがない。
そして、あんな位置に糸が張られていることも。
麗華を妬む誰かの嫌がらせか。
完璧すぎる彼女を、全校生徒の前で無様に転ばせ、そのプライドをズタズタに引き裂こうという、低俗で、それでいて致命的な悪意。
麗華は気づいていない。
胸を張り、毅然とした態度で階段に足をかける。
一歩、二歩。
彼女の右足が、透明な罠を捉えた。
ヒールが糸に引っかかり、彼女の重心が急激に前方へと崩れる。
「――きゃ」
司会の短い悲鳴がマイクに拾われ、スピーカーから響いた。
時が止まったかのようだった。
前のめりに倒れる麗華。
その先には、角の尖った重いプランター。
このままでは、彼女は全校生徒の面前で、最も無様に、そして顔面から血を流して床に叩きつけられる。
誰もが絶望し、悲劇を予感して目を見開いた、その刹那。
俺の右手は、既にポケットの中で形を作っていた。
(……九条院さん。悪いが、一回『つまずいて』くれ)
意識を一点に集中させる。
対象は、彼女の「左足の軸」。
パチン、と。
ポケットの中で、俺にしか聞こえない、乾いた音が鳴った。
発動。
俺の、地味で、最低で――世界で唯一の、理外の力。
カクンッ。
不自然な音が、彼女の足元で鳴った。
前のめりに倒れ、プランターに激突するはずだった麗華の身体が、俺が「左足をさらにつまずかせた」反動によって、物理法則を無視した鋭い旋回を始めた。
舞い踊るドレスの裾。
空を斬り、黄金の尾を引く金髪。
彼女の身体は、まるで重力を忘れたかのように空中で華麗に一回転し――。
――トッ。
階段を一段飛ばしに飛び降りた衝撃を逃がすように、見事な着地を見せた。
片膝をつき、胸に手を当てる。
それは、物語の中の騎士が誓いを立てるかのような、あまりにも完璧な「騎士の礼(カーテシー)」のポーズだった。
一秒、二秒。
講堂を支配したのは、あまりの美しさに息を呑む静寂。
直後、天井が落ちるのではないかと思えるほどの、地鳴りのような歓声が爆発した。
「うおおおおおおっ! すごすぎる!」
「なんだ今の!? 演説のあとのパフォーマンスかよ!」
「カッコよすぎるだろ九条院さん!」
割れんばかりの拍手の渦が、波となって講堂を飲み込む。
悪意の仕掛けられた釣り糸も、重いプランターも、今の彼女の圧倒的な輝きの前では、計算された演出の一部にしか見えなかった。
しかし、当の麗華だけは、ポーズを決めたまま指一本動かせずにいた。
(……え? 私、今、何を……)
彼女は、自分の掌を見つめて微かに震えていた。
転倒し、奈落に落ちるはずだった自分の身体。それを救い、このポーズへと導いたのは、自分自身の意志ではない。
あの瞬間、身体の奥底に感じた、不可解な「つまずき」。
それは、間違いなく外部から加えられた力だった。
麗華は弾かれたように顔を上げ、全方位を見渡した。
自分を「操った」何者かを探して。
だが、そこには興奮して立ち上がる生徒たちがいるだけで、彼女の鋭い視線に耐えられる者などいない。
「……ふぅ。やれやれ、バイトに遅れる」
俺は、熱狂の渦から逃げるように、誰にも気づかれない速度で講堂の裏口から外へ出た。
夕方の冷たい風が、火照った頬をなでる。
指先にはまだ、彼女の重心に触れた感覚が微かに残っている。
俺の能力は、【つまずかせ】。
ただ人を転ばせるだけの、不運を運ぶ無能な力。
けれど……。
あの瞬間に見た彼女の瞳は、これまでの俺の人生にはなかった何かを、俺に予感させた。
まさか、この指一つで、俺の平凡な人生が劇的に、そして最高にややこしく激変し始めるなんて。
この時の俺は、まだ知る由もなかった。
次の更新予定
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