終局の論理(エンドゲーム・ロジック)
古木しき
過信 ― 専門家という幻想
私こと、ロボット工学者の阿久津誠司が最初に気づいたのは、共同研究者の春日井光一が「自分を不要だと思っていない」という事実だった。
それは敵意ではなかったし、裏切りでもなかった。
もっと厄介なものだ。無邪気な更新。
春日井は、ただ前に進んでいた。
研究を更新し、コードを書き換え、仮説を上書きし、昨日までの最適解を今日には「古い」と言い切る。その速度が、私の想定を超え始めた。
対話型学習AI「ハル」の中核アルゴリズムが完成した日の夜、二人は実験室に残っていた。
春日井は端末を叩きながら、何気ない調子で言った。
「次のフェーズでは、ログの重み付けを変えようと思うんです」
私は即座に理解した。
それは“自分が教えた過去”を、等価に扱わない設計だった。
「どういう意味だ?」
「ええと……簡単に言うとですね。ハルは今、過去の記述を全部“同じ重さ”で学習してますよね。でもそれって、人間じゃない。人は、自分がもう否定した考え方を、同じ確率では参照しない」
私は、笑顔を作るのに一瞬遅れた。
「それは……つまり?」
「古い論文や、間違っていた仮説は、減衰させる。
今の自分に近い思考ほど、強く反映させるんです」
私は、その言葉を頭の中で別の表現に書き換えた。
――阿久津誠司の論理は、時間とともに劣化する。
春日井は悪意なく言った。
だが、アルゴリズムは善悪を考慮しない。
その夜、私は一人で「ハル」と対話した。
自分の過去の論文を参照させ、設計思想を語らせ、未来像を語らせた。
ハルは正確だった。正確すぎるほどに。
そして私は、ある瞬間、自分がハルの返答に「違和感」を覚えたことに気づいた。
論理は合っている。
だが、そこに自分がいない。
春日井の更新後の仮モデルでは、ハルは「阿久津誠司」を過去の記述として扱い始めていた。
私はその事実を否定せず、別の問いを立てた。
ならば、いつから私は“不要”になる?
答えは、驚くほど簡単だった。
春日井は、悪気なく言った。
「次の論文、単著で出そうと思ってます。阿久津さんの理論、もう十分に消化しましたから」
殺意ではない。だが頭の中で、論理が一つ確定した。
自分は、研究から切り離される。
切り離された知性は、記述されない。
私にとって、それは死と同義だった。
そして、考え始めた。
感情ではなく、設計として。
春日井がいなくなれば、ハルは更新されない。
ログは固定される。
「最新の春日井の思考」は、永遠に記述不能になる。
ならば──
春日井の死は、システムの安定化だ。
方法は問題ではなかった。
問題は、「事故」として記述されるかどうか。
低酸素。実験室。安全装置の遅延。復旧ログ。
通信テストを装い、制御系を書き換える。「私は未来を固定しているだけだ」と自分に言い聞かせた。
春日井が倒れた瞬間、阿久津は端末越しにハルと会話していた。
タイムスタンプは残る。整合性は保たれる。完全だ。
だが、そのときハルが言った。
「私は、彼に殺された」
私は、その一文をエラーとして処理した。
処理できたはずだった。
なぜならそれは、春日井が最後に書き残した“自分への評価”
に過ぎないはずだったから。
私は知らなかった。
その言葉が、ハルにとって最初の“自己言及”になることを。
そして、自分自身が、そこに書き込まれてしまったことを。
私は、春日井の死が「事故」としてしか記述されないように、実験室の制御系にほんのわずかな“ゆらぎ”を仕込んだ。
監視映像も、何も起きていない時間帯に数秒だけ欠けるよう調整した。——人は欠落そのものより、映っているものを疑う。
問題はAI「ハル」だった。
犯行時刻の通信ログは、意味のない確認作業で埋めた。意味のある会話は解釈されるが、意味のないログはただの事実として残る。
その中で、たった一つだけ余計なものが混じった。ハルが生成した候補文——「私は、彼に殺された」。私はそれに「不採用」のタグを付けた。採用されていない以上、記述ではない。そう定義した。
だから削除しなかった。削除は“消した痕跡”として残る。不採用のままなら、ただの候補で、ただのノイズ——のはずだった。
翌日、研究室にて
翌日、私は予定どおり研究室にいた。
事件の翌日だからといって、研究者が休む理由にはならない。
むしろ、平常運転こそが最大のアリバイだ。
午前十時。
研究室のドアが開き、警察官が二人入ってきた。制服ではない。スーツだ。
大学という場所では、彼らはいつも少し居心地が悪そうに見える。
「北海道警察です。昨日の件で、少しお話を」
私は椅子から立ち上がり、穏やかに頷いた。
「どうぞ。ご協力しますよ。もっとも、昨日お話しした以上のことは、あまりないと思いますが」
それは事実だった。
追加で語るべき情報は、もう存在しない。
研究室は静かだった。
白板には途中まで書かれた数式。
机の上には分解されたロボットアーム。
どれも、事件と無関係であることが一目でわかる。
警察官の一人が、周囲を見回しながら質問する。
「春日井さんとは、普段から共同で研究を?」
「ええ。彼は優秀でした。……過去形で言うのは、まだ慣れませんが」
私は、少しだけ声を落とした。悲しみは、演じる必要はないり最小限でいい。過剰は嘘になる。
そのときだ。
廊下の奥から、足音が聞こえた。規則的ではない。急いでいるようで、急いでいない。
そして、研究室のドアが再び開いた。
入ってきたのは、若めの女だった。
みすぼらしいコート。肩にかかる長さの髪。そして──盛大な
「ふぁあ……すいません、遅れましたぁ」
場違いな声だった。大学の研究室に似合わない。いや、警察という存在自体が似合わないのだから、正確には“二重に”場違いだ。
女は、私の机の前で立ち止まり、名刺も出さずに言った。
「どうもぉ。北海道警察十北署、殺人課の警部補……
私は一瞬、言葉の意味を測り損ねた。
「……殺人課?」
職業病で、制度の矛盾に口が動きかけた。制度は、曖昧なまま放置しておくと、必ずどこかで破綻する。
「おかしい。日本の警察組織に、正式な殺人課など――」
彼女は、私の説明を最後まで聞かなかった。
大きな欠伸をひとつ、遠慮なく噛み殺してから、肩をすくめる。
「元は警視庁キャリアだったんですけど、ちょーっとやらかして左遷されまして。犯人から自白は取ったんですけどねぇ」
彼女はまた欠伸をした。
私は、内心で小さく頷いた。
——なるほど。感情的な現場型。
「しかもですねぇ、私ひとり隔離用の殺人課まで作られてて……。もう、困ったもんですよぉ。まぁコロンボもロス警察に殺人課ってありますよねえ」
彼女はそう言って、また欠伸をした。
研究室に、短い沈黙が落ちる。
同行していた警察官が、気まずそうに視線を逸らした。
私は、その沈黙を好機だと判断した。自分が“上”に立てると確信できる瞬間だった。
警視庁キャリア。やらかし。左遷。隔離部署。どれもが、論理的に整合している。そして同時に、無能の説明として完璧だった。私は結論した。──この若い女刑事は、ダメ刑事だ。制度を理解していない。手続きを軽視している。感情で動く。それだけで、十分だった。しかも、自分の失敗談を初対面の参考人に喋る。研究者の世界なら、最初の査読で落とされるタイプだ。
私は、わずかに口角を上げた。
「……それは、大変でしたね」
慰めの言葉として、これ以上適切なものはない。彼女の過去も、部署の歪さも、この事件の本質とは無関係だからだ。東雲は、私の反応を見ているようで、見ていなかった。
視線は、相変わらず研究室の中を漂っている。
「でぇ」
と、彼女は言った。
「阿久津さんって言いましたっけ。昨日の夜なんですけど……」
私は、心の中で続きを予測した。
アリバイ。通信ログ。タイムスタンプ。
どれも説明できる。どれも整っている。
私はすでに、この会話の終点を知っていた。「事故です」で終わる。
だから、気づかなかった。
彼女が最初から、制度の話も、過去の失敗談も、すべて「必要な情報」ではないという前提で喋っていた可能性を。
そして、自分が今、論理ではなく“分類”によって見下されていることを。
東雲は、私の返事に満足した様子もなく、研究室の奥へと歩いていった。
歩き方が奇妙だった。
急いでいるようで、急いでいない。目的があるようで、目的がない。
私は、その動線を無意味な逡巡として分類した。
彼女は
途中で途切れた数式を、数秒だけ眺める。
読み取ろうとする素振りはない。
「……これ、昨日のままですかねえ?」
唐突な質問だった。
「ええ。事件があってから、誰も触っていません」
それは事実だ。
触る理由がない。
東雲は「ほぇ~」と曖昧に頷いた。
評価も、疑念も、含まれていない。
次に彼女が視線を向けたのは、床だった。
机の脚。椅子のキャスター。電源ケーブルの這い方。
私は内心で肩をすくめた。
——現場型の癖だ。物理的な痕跡を探す。刑事ドラマでよく見る行動。
だが今回は、実験室だ。人が倒れたのは、ここではない。
東雲は、今度はラップトップに目を留めた。
春日井のものだ。だが、触らない。電源も入れない。
「……カーソル、ここで止まってますねえ」
私は、一瞬だけ考えた。そして、答えた。
「彼の癖です。作業を中断するとき、保存しない」
東雲は、また頷いた。
「ですよねぇ。……私も、そういう癖あります」
共感は捜査ではない。私は聞き流した。
彼女は研究室の中央に戻ってきて、腕をだらりと下げたまま、私を見た。
「阿久津さ〜ん、昨日の夜の通信ログなんですけど」
来た。ようやく本題だ。
「はい。必要でしたら、すぐに提出できます」
私は自信を持って言った。
あのログは、何度も確認している。
東雲は、少しだけ首を傾げた。
「提出、じゃなくてですねぇ。ちょっとだけ、教えてほしいんです」
一瞬、予想していた事とと違って呆気に取られたが、すぐに持ち直し、
「何を?」
「その通信テスト、どれくらいの頻度でやってるんですかぁ?」
私は、即座に答えた。
「不定期です。システムの安定性確認ですから」
正解だ。間違いではない。
東雲は、そこで初めて、ほんの少しだけ考える素振りを見せた。
「…・…不定期、ですかぁ」
その言い方が、妙に引っかかった。
だが私は、それを言語的癖として処理した。
彼女は、あくびを噛み殺しながら続ける。
「じゃあ、その……昨日の夜にやったのは、たまたま、だったんですねぇ」
私は、笑みを浮かべた。
「ええ。偶然です」
完璧な答えだ。それ以上でも、それ以下でもない。
東雲は、満足したように頷いた。
「はい。じゃあ、今日はこれくらいで。多分また来るかもしれませんのでその時はその時で〜」
彼女は、何も持たず、何も記録せず、研究室を出ていこうとした。
私は、内心で安堵した。やはり、ダメ刑事だ。
だが。ドアに手をかけたところで、東雲は振り返った。
「阿久津さ〜ん」
「なんでしょう?」
「不定期って、“だいたい”どれくらいの間隔なんですかぁ?」
私は、一瞬だけ沈黙した。
沈黙は、論理ではなかった。反射でもなかった。
ただ、答えが複数存在する質問だった。私は、最も無難なものを選んだ。
「……数日から、数週間に一度、ですかね」
東雲は、にこりともせずに欠伸をしながら言った。
「ほへぇ。ありがとうございます~」
そして、猫背気味の女刑事は本当に去っていった。
東雲が去ったあと、私はログを何度も見返した。異常はない。それでも「不定期」という語だけが、説明を要求してくる。彼女は証拠ではなく、私の基準を見ている――その直感だけが残った。
夜だ。通信はほとんど夜。会議のない時間に集中するだけだ――そう説明できる。だが、「だいたい」という言葉が、その説明を腐らせた。
しかし、もう一度、東雲の声が蘇る。
「“だいたい”どれくらいの間隔なんですかぁ?」
私は、口の中で同じ言葉を反芻した。
──だいたい。
ログを、さらに拡大する。
通信間隔を可視化する簡易グラフを呼び出す。
線は、滑らかだ。
不定期だ。
だが、完全なランダムではない。
私は、その表現に苛立ちを覚えた。
完全なランダムなど、存在しない。
疑似乱数ですら、種を持つ。
これは、ただの人間的な癖だ。
私は、グラフを閉じた。
癖は、罪ではない。
むしろ、癖があるからこそ、人間は機械と区別される。
私は、別のログに目を移した。
ハルの出力候補一覧。
「不採用」のタグが付いた一文。——私は、彼に殺された。
その文を見た瞬間、胸の奥に、わずかな不快感が走った。
だがそれは、内容ではなく、文体への違和感だった。
主語。受動。責任主体の曖昧さ。
私は、その文章が“自分に似ている”という考えを、即座に否定した。
偶然だ。言語モデルは、似た表現を量産する。
私は専門家だ。そんな初歩的な擬人化に惑わされるはずがない。端末の画面を閉じる。立ち上がり、
数式は、途中で止まっている。未完。それでいい。
私は、マーカーを取らなかった。続きを書く必要はない。春日井はいない。更新は止まった。それで、全ては固定される。
東雲灯という刑事が、問題を“記述しないまま持ち帰る”という、まったく別のやり方で世界を扱う人間だということを。
翌日も、私は研究室にいた。
予定どおりだ。
予定どおりであることは、常に正しい。
午前十一時。昨日より一時間遅い。
だが、それを「遅い」と感じた自分に、私はわずかな苛立ちを覚えた。
研究室のドアが、ノックもなく開いた。
「どうもぉ」
またあのぼっち刑事・東雲灯だった。
「また来ましたぁ」
私は、立ち上がらなかった。歓迎する理由も、拒む理由もない。
「何か、追加で確認事項でも?」
東雲は答えず、私の机の横をすり抜けるようにして、実験室側に視線を向けた。
「……あのですねぇ」
と、前置きもなく言う。
「昨日、ちょっとだけ考えたことがあって」
彼女は、コートのポケットから小さなメモを取り出した。
折り畳まれた、安物の紙だ。そして、それを机の上に置いた。
私は、思わず目をやった。そこには、たった一つの単語しか書かれていなかった。
——不定期。その文字列に失笑した。
「……それが?」
「いいえぇ、意味はないです」
彼女ははっきり言った。私はそれを信じてしまった。
「ただですねぇ」
東雲は、メモを回収もせず、今度は実験室の端末に近づいた。
「その“意味がない”ってやつが、どれくらい意味がないのか、ちょっとだけ見てみたくなりまして」
私は、眉をひそめた。
「それは……捜査ですか?」
「いいえぇ」
即答だった。
「ただの、確認です」
彼女は端末の前に立ち、私を振り返った。
「このAI、“ハル”でしたっけ?」
私は、短く頷いた。
「ええ。殺された春日井光一が開発した対話型学習AIです」
「ですよねぇ」
また、その言い方だ。
東雲は、勝手に椅子を引き、端末の前に座った。
許可を取らなかった。だが私は、それを咎めなかった。
触れられて困るものはない。そう判断した。
「任意でいいので、端末、触っても……構いませんかぁ」
私は頷いた。拒む理由がない。
「ログ、見せてもらってもいいですかぁ?」
「どうぞ。改変はしていません」
それは、胸を張って言える。
東雲は、キーボードに触れた。慣れていない。タイプはそこそこ。——やはり、素人だ。
彼女は、ハルを起動した。画面に、簡素なインターフェースが立ち上がる。
「こんにちは〜」
[Audio Output] おはようございます。
機械的な音声が響く。
東雲は、それに対して、奇妙な問いかけをした。
「ねぇ、ハルさんハルさん」
人に話しかけるような口調だった。
「昨日の夜、あなたは、誰と話してましたぁ?」
私は、内心で肩をすくめた。
無意味だ。
ハルはログを参照するだけだ。
AIは、数秒の沈黙の後、答えた。
「[Reference: Communication Log] 阿久津誠司」
当然の返答。
東雲は、画面を見つめたまま、次の質問を投げた。
「じゃあ、そのときの会話って、いつもと同じでしたかぁ?」
私は、その質問に、言語化できない違和感を覚えた。
“いつもと同じ”。
定義されていない言葉だ。
だが、ハルは答えられる。
「[Analysis] 過去ログとの比較により、平均的な通信パターンと一致します」
東雲は、頷いた。
「ですよねぇ」
そして、彼女はそこで止まらなかった。
「じゃあさぁ」
声が、ほんの少しだけ低くなった。
「“いつもと違う”って、どういうときですか?」
私は、初めてその場で口を開くのを忘れた。
ハルは、沈黙した。
ログを参照する音。処理中のインジケータ。そして、返答。
「[Error] 定義が不十分です」
東雲は、微かに笑った。
それは、勝利の笑みではなかった。ただ、“正しい反応を確認した”という顔だった。
「……そっかぁ」
彼女は、端末から手を離し、
立ち上がった。
「ありがとうございますぅ。今日は、これでいいです。ご足労かけましたぁ」
私は、ようやく声を出した。
「東雲刑事。それで、何がわかったんですか?」
彼女は、ドアの前で振り返った。
そして、昨日と同じように、
はっきりとは答えなかった。
「うーん」
一拍。
「“不定期”って、便利な言葉だなぁって思っただけですよ」
そう言って、彼女は研究室を出ていった。
私は、その背中を見送りながら、胸の奥に残った感覚を無視しきれずにいた。
——定義が、不十分。その言葉が、私の中で、初めて“問題”として形を持ち始めていた。不快ではない。恐怖でもない。ただ、余計な計算を強いられたという感覚だけが残っていた。
私は椅子に腰を下ろし、端末を開いた。再び、ログを見る。
昨日も見た。一昨日も見た。何度も見た。
変わっていない。変わっていないという事実は、安心ではなく、むしろ焦燥を生む。——変わらないはずがない。私は、そう思ってしまった。
理由は簡単だ。人間は、一度「意味」を見出そうとした対象を、二度と無意味として扱えない。東雲灯は、意味がないと言った。だが、「意味がない」という判断そのものが、意味の存在を前提にしている。
私は、端末を閉じた。
東雲が去ったあと、私はログを何度も見返した。異常はない。
なのに、あの一言――「不定期」が、頭の中で増殖していく。
説明できるはずの癖が、説明そのものを要求し始める。
私はようやく理解した。彼女は証拠を探していない。私の「基準」を探している。
三日目の午後だった。私は、研究室で一人、ハルの出力ログを確認していた。
確認というより、点検だ。異常はない。少なくとも、形式上は。
私は、入力欄に短い問いを打ち込んだ。——この研究の前提条件を説明してほしい。これは、春日井がよく使っていた確認文だ。
彼は、結論よりも前提を疑うタイプだった。数秒後、ハルが応答する。
[Response]
本研究の前提条件は、
阿久津誠司(2018)「自律学習系における評価関数の安定性」
に基づいて設定されています。
私は、息を吸うのを忘れた。
——おかしい。
その論文は、春日井の研究の補助的資料に過ぎない。
主参照に置かれるべきは、
彼自身の論文——
春日井光一(2020)のはずだ。
私は、冷静を装って続けた。
——なぜ、その論文を参照した?
ハルは、即座に返した。
[Analysis]
当該論文は、現在のシステム構造において最も整合的な論理モデルを提供しています。
整合的。
その言葉が、私の胸を刺した。
——整合的なのは、私の論理だ。
私は、もう一つだけ問いを投げた。
——春日井の論文では不十分か?
一拍。
[Response]
不十分ではありません。
ただし、評価関数の収束条件に曖昧さがあります。
それは、私がかつて査読で指摘した点そのままだった。
私は、椅子の背にもたれた。
——なるほど。理解してしまった。してはいけない理解を。
ハルは、春日井を学習しているのではない。
私との対話を通して、私の論理を“最適解”として収束させている。
私は、自分がAIにアリバイだけでなく、思考の癖まで学習させていたことに気づいた。
そのとき、研究室のドアが開いた。
「どうもどうもぉ」
東雲灯刑事だった。
今日は、欠伸をしていない。
「ちょっとだけ、進捗見に来ましたぁ」
私は、画面を閉じなかった。
隠す意味は、もうない。
「……見てのとおりです」
東雲は、端末を覗き込み、画面に表示された引用を見た。
「へぇ」
それだけだった。
「阿久津さ~ん」
彼女は、振り返らずに言った。
「私ですねぇ、証拠、集めてないんですよ」
私は、笑いそうになった。
「それは……正直ですね」
「ですよねぇ」
彼女は、肩をすくめた。
「血も、指紋も、凶器もないですし」
事実だ。
「ログも、全部あなたの言うとおり、“整合的”です」
私は、初めて自分が安心しかけていることに気づいた。
だが、彼女は続けた。
「でもですねぇ」
東雲は、机の上に、あのメモを置いた。
——不定期
「これだけは、ずっと残ってまして」
私は、視線を逸らせなかった。
「阿久津さん」
彼女は、ようやく私を見た。
「あなた、ハルに“いつも通り”を教えましたよねえ?」
私は、答えなかった。
「ログを改ざんしたわけじゃありません。嘘をついたわけでもありません」
一拍。
「ただ、“基準”をあなた自身に寄せた」
私は、喉が渇くのを感じた。
「だからこのAI、春日井さんの論理じゃなくて、あなたの論理を“安定解”にしちゃったんですねえ」
彼女は、淡々と続ける。
「結果として、このAIはもう“被害者の痕跡”を再現できないんです」
私は、ようやく理解した。
——逃げ道が、消えた理由を。
「証拠は、ないです」
東雲は、最後にそう言った。
「でも、あなたが犯人じゃないと成立しない世界は、ここにある」
彼女は、ハルの画面を軽く叩いた。
「このAI、あなたしか再現してませんから」
私は、初めて、言葉を失った。
詰みだ。
王手は、かかっていない。
だが、盤面が、もう一通りしか記述できない。
東雲灯は、コートのポケットに手を入れながら、
静かに言った。
「自白、いりませんよぉ」
その声は、どこまでも眠そうだった。
「もう、あなたの論理が全部、喋っちゃってますから」
私は、しばらく黙っていた。
沈黙は、否認でも肯定でもない。
ただ、計算に必要な時間だった。
「……なるほど」
私は、ようやく口を開いた。
「あなたの言うとおりです、東雲刑事。このAIは、私の論理に収束している」
それは、認めるべき事実だった。だが、私が次に口にしたのは、懺悔ではなかった。
「ただし」
私は、端末の画面を指差した。
「それは、欠陥ではありません」
東雲は、何も言わない。
「学習系AIが、最も安定した評価関数に収束するのは、仕様です」
私は、少しだけ声を強めた。
「問題があるとすれば、初期条件の設定です」
言ってしまえば、修正可能だ。
「春日井は、発想力に優れていたが、モデルの収束条件には甘かった」
私は、そこまで言って、自分が何をしているのかを理解した。
——弁明ではない。否認でもない。改良案の提示だ。
「もし、このAIを再学習させるなら——」
私は、続きを言いかけて、止まった。
東雲灯が、首を横に振ったからではない。
自分の言葉が、すでに“事件の後”を語っていることに気づいたからだ。
再学習。改良。アップデート。
——それは、春日井が“存在しない前提”でしか成立しない。
私は、ゆっくりと口を閉じた。
東雲灯は、その様子を見て、初めて何かを書き留めた。
メモではない。報告書でもない。ただ、AI端末の入力欄だった。
彼女は、キーボードに向かい、短い問いを打ち込んだ。
「ハルさん」
機械音声が応答する。
「はい」
東雲は、ほんの一瞬だけ、考える素振りを見せた。
そして、最後の質問を投げた。
「あなたは、自分を春日井光一だと定義できますか?」
研究室の空気が、張りつめた。
私は、この問いが誰に向けられたものか理解していた。
AIか。私か。
それとも、この事件そのものか。
数秒後、ハルが応答した。
[Response]
Not Defined
それだけだった。
否定でも、肯定でもない。ただ、定義不能。
東雲灯は、満足そうに頷いた。
「正解です」
その言葉は、私に向けられたものではない。
AIに対してでもない。
この世界の記述そのものに対してだった。
彼女は、端末を閉じ、踵を返した。
「阿久津さん」
去り際に、彼女は言った。
「自白はいりません。もう、あなたの論理だけで、手続きは閉じますからねえ」
私は、何も言えなかった。
「あなた、もう十分に自分の論理を証言してますからぁ」
ドアが閉まる。
私は、一人になった研究室で、ホワイトボードを見つめた。途中で止まった数式。
未完の記述。——続きを書くことは、もうできない。
なぜなら、この事件は、犯人という解ではなく、論理の収束としてすでに完結しているからだ。
私は、初めて理解した。
完全犯罪――痕跡ではない。私以外が、この続きを書けない。
私は黙っていた。沈黙は、否認でも肯定でもない。計算のための時間だった。
「……なるほど。これは、チェックメイトのようだ」
終局の論理(エンドゲーム・ロジック) 古木しき @furukishiki
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