第3話 封入体

ある時、生物学とは無縁の学者が「脳に取り込まれる情報量が増えすぎると、何らかの防御反応が出るのではないか?」という、半分SFのような話をネット上で公開し、話題を呼んだ。


曰く、「人間を1人の個たらしめているのは、脳に集約された情報である。我々の身体は一定の周期で全ての細胞が入れ替わっているが、それでも我々の人格は変わらない。脳と脊髄だけを残し、残りを全て義体化したとしてもそれは1人の個体である。そのような部位に過剰量の情報が入力された場合、自分が上書きされることを防御するのは当然のことではないか?現在問題になっている若年層の狂牛病様の症状は、過剰量の情報摂取による行き過ぎた防御反応なのではないか?」


前半部分は昔からよく言われているものなので何とも思わなかったが、後半部分は面白い。自分にとって合わない環境に置かれると、身体が情報を遮断し、周りの音が聞こえにくくなるというのは聞くが、情報自体に対する生体防御というのは聞いたことがない。


そんなことを考えていると、その記事に対して物理学者がコメントをつけた。

「量子物理学的視点では、情報には質量があるとされる。すなわち、過剰量の情報は相当量の質量を持つ物質であり、生体防御が生じるということはあり得るかもしれない。」


この視点は我々生物学系の者達には無かった。


「自分というものを上書きされないため、質量を持った情報を異常プリオンという形で閉じ込めている。それでも防ぎきれなかった場合、個としての存在が上書きされ始め、現在広く見られる症状を呈する。スポンジ化は脳細胞のネットワークが切れ、壊死をした部分である」という説が、どこからともなく拡まった。



「異常プリオン、アミロイドβを封入体と考えるわけか。物質化した情報というのは、門外漢なので分からないが、未知の病原体が免疫反応として封入体に入れられていると考えるのは斬新だ。そうするとアミロイドβを接種した動物で反応がバラついていた理由も説明出来る。

これを証明するためには封入体を巻戻し(リフォールデォング)し、可溶化状態に持っていけば良いのだろうか。そうなると我々のフィールドの話になってくる」


「封入体」とは生体にとって有害なタンパク質や病原体を不溶性の凝集体として膜で包んだ状態で隔離するものである。ただし、ウイルスの中には、封入体を外界から隔離された増殖の場とするものもいる。

未知の病原体は、単に隔離されているのか、それともそこを増殖の場としているのか。はたまた、従来言われている通り、異常プリオンやアミロイドβは何も含まれていない、単なる変性タンパク質なのか。それは分からない。

しかし、これらの変性タンパク質が生体防御として機能している場合、それは前者、即ち有害物質を生体から隔離したものとなる。


一般的に、封入体となったものは、元の構造を取っていないため、機能を失っている。その構造を元に戻すことを「巻戻し(リフォールディング)」という。

リフォールディングは、尿素や塩酸グアニジンのような変性剤で、一度タンパク質を引き延ばす。その後、透析などを用いて変性剤の濃度を下げていき、最終的に正しい可溶性の構造(本当に正しい構造なのかは不明だが)に再構成する技術である。


とは言え、アモルファス凝集体(不定型の凝集体)と異なり、異常プリオンやアミロイドβは規則正しい構造を取っていることから、これを正しい可溶性の構造、即ち正常型に巻き戻すことは現実的なのだろうか。


未知の病原体がその中に「収められて」いるとすると、完全に巻き戻す必要は無く、袋の封を切るように、その構造を緩めて中の物を出せば良いのかもしれない。


過去の論文では、尿素で異常プリオンの凝集体を可溶化出来ることが示されているため、最初は尿素を用いてみることとした。

その時の論文では、「高濃度の尿素」が生体に悪影響を与えるため、治療法として使用不可とされていたが、今回は目的が異なる。


私は8Mの尿素下で異常プリオンを撹拌を開始した。

目的はリフォールデォングではなく、封を切ること。そう考えると操作が変わってくる。


通常のリフォールデォングは、溶液の白濁が無くなるまで撹拌を続け、尿素などの変性剤の濃度を下げていく過程で再度溶液が白濁したら失敗と考える。

しかし今回は違う。


溶液の再白濁など関係ない。

一度構造を緩めることが重要なのだ。

タンパク質ではなく、その外液が研究対象だ。

希釈法で尿素の濃度を4Mまで下げた時点で溶液の再白濁を認めた。


「関係ない」


私はPBS希釈を続けた。

実験動物に投与できる濃度まで尿素の濃度を下げ終わった。

白濁した液体を遠心し、その上清を検体とした。


さっそく用意したマウスに検体を接種した。「物質化した情報」を扱っている体であるので、接種方法は点眼接種を選択した。


接種後、PBS接種群と検体接種群の観察を続けた。接種後1週間経過時点で、両群間では何も差が認められなかった。


アルツハイマーなどの症状がゆっくりと進むことを考えると、観察期間を延ばすことは妥当だかもしれない。


観察期間を1ヶ月とすることにした。


接種後3週、検体接種群で「歩行のふらつき」「斜傾」をはじめとする症状が見受けられ始めた。


「これは…」


さっそくマウスを解剖し、脳組織を観察すると、そこにはアミロイドβの沈着が認められた。


当たりかもしれない。

しかし、異常プリオンを解いたものを接種したのに、出来たものはアミロイドβというのはどういうことだろうか。


次に、コッホの四原則に従った実験を開始した。

即ち、発症したマウスから得たアミロイドβを先述した方法で処理し、新たなマウスに接種した。


その結果、マウスは接種後3週で同様の症状を示した。


コッホの四原則が成立し、異常プリオンの中に「収められて」いた物は、アルツハイマー様症状の原因である確率が限りなく高いことが示された瞬間だった。


数十年の間謎とされてきた異常プリオンの正体を掴み始めた。


しかし異常プリオンではなく、アミロイドβが形成されていたという所が気になる。

これでは症状の完全再現とは認められない可能性がある。


暫く頭を悩ませる日々が続いたが、ある時、以前読んだ論文がフラッシュバックした。


1. 急速な脳のスポンジ化によるCJDもしくは狂牛病様の症状の流行開始時期が、新しい通信技術の使用開始時期と完全に一致している

2. 新しい通信技術を使用したVRを長時間体験後、数日以内に発症したケースが多い


これの意味する所は、アルツハイマー様症状と狂牛病様症状はシークエンシャルな関係であるということではないだろうか。つまり「物質化した情報」の接種量に依存し、症状が変わっているだけなのでは?

「新しい通信技術を使用したVRを長時間体験後、数日以内に発症」というのは、摂取量が過剰となり、免疫による対応が間に合わなかった結果なのではないか。


私はこの仮説を証明するため、「情報」の濃縮を試みることとした。

タンパク質やウイルスの濃縮と違い、「目的物」が溶媒側にあるため、濃縮カラムは使えない。物が全く認識出来ないので一般的な方法は難しそうだ。


しかし高濃度の尿素が生体に悪影響を与えることは自明だ。

分子量という概念があるのかも不明。

そうなると透析や既存の濃縮キットは使えない。


さて、どうするか。


発想を変えてみよう。

異常プリオンから取り出した情報を一度何かにトラップした後、少量のPBSで溶出するというのはどうだろうか。


アフィニィティクロマトグラフィーの要領だ。


問題は何でトラップをするかだ。

通常の物質の場合は、化学的に結合する物質や抗体などを使って目的物をトラップ、即ち吸着する。


だが今回の対象物はその性状が何も掴めていない。


取り敢えず珈琲を飲むことにした。

珈琲から立ち昇る湯気を眺めながら操作について考えを巡らせた。


変性剤を使い、異常プリオンの中から未知の物質?物質化した情報?を取り出した。


…取り出した。


そうか、対象物は異常プリオンでトラップされる可能性が高い。

変性した異常プリオンから未知の物質が「漏れ出た」ことを考えると、変性剤後の異常プリオンのトラップ能力は低下していることが推察される。


異常プリオンを超音波破砕したものをカラムに詰め込むのはどうだろうか。


サンプリングした異常プリオンを少量のPBS中に沈め、超音波破砕機の先端を液中に沈めた。

甲高い音が部屋に響いた。

液が白濁した。


白濁した液をカラムに充填し、カラムの上から8M尿素処理で得た「検体」を注ぎ、遠心処理を実施した。次いで、複数回PBSを注ぎ入れては遠心処理という操作を繰り返した。

生体に悪影響を与える高濃度尿素の除去が目的だ。

最後にカラムを上下逆転させ、改めて上から少量のPBSを注ぎ入れたのち、遠心処理した。


異常プリオンが未知の物質(物質化した情報?)を取り囲むようにしていると仮定すると、破砕された異常プリオンはトラップこそすれど、取り囲むことは出来ないのはずなので、おそらくこの最後の操作で高濃度の物質化した情報が溶出されるはずだ。


濃縮した検体、前回と同じ希釈法で得た検体、それぞれの操作のネガティブコントロールをマウスに接種した。


接種後3日、濃縮した検体を接種したマウスが異常行動を示し始めた。人道的エンドポイントを迎えたと判断し、安楽殺後、解剖を実施した。

その結果は驚くべきものだった。

濃縮していない検体はアミロイドβを蓄積させていたにも関わらず、濃縮したそれは、脳をスポンジのさせ、異常プリオンの蓄積を引き起こしていたのだ。


今まで、アルツハイマー様症状とCJDや狂牛病のような症状は別々の物と考えられてきたが、この実験からこれら2つが連続したものであることが分かった。


私の仮説は正しかった。

現在問題になっている症状は、物質化した情報に起因する。アミロイドβや異常プリオンは瘡蓋の様なもので、それを研究しても得られるものは少ない。

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