私は5年を選んだ ーランダムタイミングで終了する記憶の中での静かな最後ー
鏡聖
記憶の中で死ぬ
選べるのは、いつの記憶か。それだけだった。
期間は3年、5年、10年の中から選べる。
かつては「無期限」も存在したが、実際にそれを選んだ人の多くは、終わることのない幸福の中で、やがて壊れていったという。 人生を完全に二周することは、どうやら人間の構造には適さなかったらしい。
私は、5年を選んだ。 そして記憶の入り口として選んだのは、大学三年の夏休みの実家だった。
その夏は、とりたてて何か特別なことがあったわけではない。
部屋には、壁一面に貼った映画のポスターが少し日焼けしていた。
扇風機が回る音、キッチンから聞こえる包丁のリズム、冷蔵庫に入っている麦茶の味。 夜は父とビールを飲み、妹とくだらないテレビ番組を見て笑った。 お風呂のあとの髪がまだ湿っていて、ベッドに横になると、録画していた映画が再生される。
途中で眠くなって、画面はフェードアウトしていく。
——そういう、ただの「日常」。
でも、それこそが私にとって、一番生きていると感じられた時間だった。
記憶死(きおくし)。
肉体を維持したまま、意識だけを記憶に接続し、幸福な時間の中でゆっくりと死に向かう新しい安楽死。 この技術の登場によって、死の風景は大きく変わった。
医療の限界、孤独死、介護破綻、自殺—— それらに代わる「死に方」を、多くの人が求めていたのだ。
最初の頃は、入眠時に死を迎える仕組みだった。 だがそれは、多くの人に恐怖を与えた。 「寝ること」に怯える人が続出し、中には記憶の中で眠らなくなり、極端な神経症に陥る例も出た。
そのため制度は更新され、「ランダム終了方式」が導入された。 “いつ終わるかは分からない”。 この曖昧さが、逆に人々を救った。
未来が読めないからこそ、人は再び「日常」を生きることができるようになった。
「目覚めることは、もうありません」と、手続きの最後に告げられた。 その言葉には重みがあるはずなのに、不思議と私は、何も感じなかった。
自分で選んだ死なのだ。 病室でもなく、苦痛でもなく、誰にも迷惑をかけず、過去の自分と穏やかに向き合いながら終わる。
それは、きっと幸運なことだった。
母の作った肉じゃがの匂いが、廊下に漂ってくる。 テレビの音が遠くから聞こえる。妹がケラケラと笑っている。 机の上には、昔好きだった文庫本と、録画予約のリスト。 その隙間に、自分が今どこにいるのか、一瞬わからなくなる。
「今日も、もう寝ちゃうの?」
母の声がする。
「うん、眠くなってきた」
私は答える。
ベッドに入る。映画のイントロが始まる。画面は徐々に暗くなる。 まぶたが、重たくなっていく。
この記憶の中で、何度も朝を迎えるかもしれない。 もしかしたら、もう二度と朝は来ないかもしれない。
でも、それでいいのだ。
この何でもない夜が、 私にとっては、 いちばん、生きていると感じられるのだから。
カーテンから日が差し込み始めた。
リビングから良い匂いがしてきた。
今日の朝ごはんは何だろうか。
ベッドから起き上がり、階段を降り始めた。
「おはよう」
母の声がする方に顔を向けた。
「おは…」
【補遺:記録】
記憶死プログラム実行ログ: 氏名:不開示(依頼者希望) 記憶期間:大学3年夏〜大学4年冬
希望年数:5年(95%信頼区間 : 1.5〜8.5年)
終了年数: 1.5年 選択モード:ランダム終了 生理停止日時:未確定(プロセス継続中)
最終記憶内発話記録(自動抽出): 「おは…」
フィードバック : 発話途中での打ち切り。神経反応から、認識外のタイミングであったことを確認。
適合
私は5年を選んだ ーランダムタイミングで終了する記憶の中での静かな最後ー 鏡聖 @kmt_epmj8t-5
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます