月見坂の帰り道

陽炎

第1話

十五夜の夜だった。


私、西川は中学校の教師をして十五年になる。今夜は問題児として有名な田村君の家庭訪問の帰り道だった。腕時計の蛍光塗料が薄暗い街灯の下で青白く光っている。午後九時を回っていた。田村君の母親と長い時間話し込んでしまったのだ。


「息子がご迷惑をおかけして」


母親は何度も頭を下げた。その姿を思い出すと、胸が締め付けられるような気持ちになる。田村君は最近、授業中に奇声を上げたり、突然教室を飛び出したりする行動が目立っていた。同僚の教師たちは「問題児」として片付けがちだったが、私にはそれが単純な反抗ではないような気がしていた。そして今夜の話し合いで、その直感が正しかったことが分かった。


父親の借金で家計が逼迫し、母親は持病が悪化して入退院を繰り返している。田村君なりに家族を支えようと、深夜にコンビニでアルバイトをしていたのだ。授業中の居眠りや突発的な行動は、疲労とストレスからくるものだった。十四歳の少年が背負うには、あまりにも重い現実だった。


帰り道は月見坂と呼ばれる長い坂道を下るルートだった。この坂は地元でも有名で、江戸時代から十五夜の夜には月が特に美しく見えるということで名付けられたと聞いている。確かに今夜の満月は見事だった。雲一つない澄み切った夜空に、まん丸な月が煌々と輝いている。月光は銀色の絨毯のように坂道を照らし、石畳の一つ一つまでくっきりと浮かび上がらせていた。


この美しい月を田村君も見ているだろうか。少しでも心が軽くなってくれればいいのだが。

秋の夜気は肌寒く、コートの襟を立てても首筋に冷たい風が忍び込んでくる。木々の葉が風に揺れて、さらさらと乾いた音を立てている。どこかで虫の音が聞こえるが、夏の頃に比べるとずいぶんと寂しげだ。季節の移り変わりを感じながら歩いていると、足音が妙にはっきりと響くことに気づいた。


コツ、コツ、コツ。


革靴が石畳を叩く音だ。この時間帯に歩いているのは私だけのようで、住宅街の明かりもまばらだった。時折、テレビの明かりが窓から漏れているのが見えるが、多くの家は既に就寝の準備に入っているようだ。静寂の中で、自分の足音だけが妙に大きく感じられる。


坂の勾配は思ったよりもきつく、膝に負担を感じ始めていた。最近、運動不足が祟って体力の衰えを実感することが多い。職員室で同僚たちと話していても、若い頃のような活力を感じなくなった。教師という職業は精神的なストレスも多く、田村君のような複雑な事情を抱えた生徒と向き合うたびに、自分の力の限界を感じてしまう。


ふと気づくと、前方に人影が見えた。


小柄な老婆だった。白髪を後ろできちんとまとめ、黒い着物を着ている。月明かりで輪郭がぼんやりと浮かび上がっているが、どこか現実感に欠ける印象を受けた。まるで古い写真から抜け出してきたような、時代を感じさせる佇まいだった。老婆は私と同じ方向に、ゆっくりと歩いている。


この時間に一人で歩くには危険ではないだろうか。月明かりとはいえ、街灯のない区間もある。転倒でもしたら大変なことになる。教師としての職業意識も手伝って、私は老婆に声をかけることにした。


「すみません」


私の声が夜の静寂を破った。自分の声なのに、妙に遠くから聞こえるような感覚があった。

老婆がゆっくりと振り返る。月明かりに照らされた顔は皺だらけで、小さな目が深く窪んでいた。その目が月明かりの下で異様に光って見える。まるでガラス玉のような、生気のない光だった。見つめられていると、なぜか背筋がざわざわとする感覚に襲われた。


「お月様が呼んでいるわね」


老婆の声は細く、どこか遠くから聞こえるような響きがあった。唇の動きと声にわずかなズレがあるような気がする。まるで古い映画の吹き替えを見ているような違和感だった。


そう言うと、老婆は再び前を向いて歩き始めた。その歩き方も奇妙だった。足音がしないのだ。私の革靴がコツコツと石畳を叩いているのに、老婆の足音は全く聞こえない。

変わった人だなと思いながらも、あまり関わらない方がよさそうだと判断した。夜中に一人で歩いている老人に声をかけたのは善意からだったが、どこか常識的ではない雰囲気を感じる。私は足早に老婆を追い越して、坂を下り続けた。


家まではあと十分ほどの距離だ。早く帰って風呂に入り、今日の出来事を整理したかった。田村君のことをどうサポートしていけばいいのか、具体的な方策を考える必要もある。

しかし、歩いても歩いても景色が変わらない。


同じような住宅、同じような街灯、そして前方にはあの老婆の姿。私は確実に坂を下っているはずなのに、まるで同じ場所を歩いているような感覚に襲われた。これはおかしい。私はこの道を何度も通っているのだから、道に迷うはずがない。


不安が胸の奥でくすぶり始めた。疲労で方向感覚が狂っているのだろうか。それとも暗闇で距離感を見誤っているのか。


時計を見る。九時十五分。


さっきと変わっていない。


いや、それはおかしい。私は確実に十分以上歩いているはずだ。時計が止まっているのだろうか。文字盤を耳に近づけてみる。かすかにチクタクという音が聞こえる。確かに秒針は動いている。しかし長針は九時十五分を指したまま、微動だにしない。


心臓の鼓動が速くなってきた。何かがおかしい。明らかに異常な状況だ。


再び前を見ると、老婆がまた振り返っていた。さっきと同じ場所で、同じように。まるで最初から動いていなかったかのように。


「お月様が呼んでいるわね」


同じ言葉を繰り返す。今度はその声に、何か切羽詰まったような響きがあった。老婆の表情も、月明かりの下でより鮮明に見えた。深い皺に刻まれた顔には、強い意志のようなものが宿っている。それは諦めとも、警告とも取れる複雑な表情だった。


私は混乱しながらも、老婆を追い越して足早に坂を下った。この状況から一刻も早く抜け出したかった。家族が心配しているかもしれない。妻は私の帰りが遅いと不安になる性格だ。携帯電話で連絡を取ろうと思ったが、ポケットを探っても見当たらない。田村君の家に忘れてきたのかもしれない。


だが、また同じ光景が目の前に現れた。


同じ住宅、同じ街灯、そして同じ老婆。

今度は老婆が私の方を向いて立っていた。まるで私を待っていたかのように。その姿は先ほどよりもはっきりと見えた。着物の柄まで確認できる。菊の花が描かれた古風な着物だった。しかし、その美しさとは裏腹に、老婆の存在自体に得体の知れない恐怖を感じた。


「お月様が呼んでいるわね」


三度目の言葉。老婆の口元がかすかに動いているのが見えたが、声は別の場所から聞こえてくるような感覚があった。まるで空気中に響いているような、不思議な響きだった。

私は立ち止まって、深呼吸をした。冷たい夜気が肺に流れ込み、少しだけ冷静さを取り戻すことができた。これは夢なのだろうか。それとも疲労とストレスで幻覚を見ているのか。田村君の家庭訪問で精神的に疲弊していたのは確かだった。重い現実を目の当たりにして、心のどこかでバランスを崩していたのかもしれない。


時計を見る。九時十五分。


針が止まっている。いや、止まっているのではない。動いているのに時間が進まない。そんな馬鹿なことがあるはずがない。物理法則に反している。


私は走り出した。


坂道を駆け下りる。息が上がり、心臓が激しく鼓動する。足音が石畳に響き、その音が妙に大きく感じられた。住宅の明かりが流れていく。これで確実に前進しているはずだ。風が頬を打ち、汗が額に浮かんでくる。間違いなく私は動いている。

しかし、息を切らして立ち止まると、またしても同じ場所だった。

同じ住宅、同じ街灯、そして振り返る老婆。


「お月様が呼んでいるわね」


四度目。


今度は老婆の声に、哀れみのようなものが混じっていた。まるで私を哀れんでいるような、それでいて諦めているような響きだった。その表情にも、深い悲しみが宿っているように見えた。


私は絶望に近い気持ちになった。この状況から抜け出すことができるのだろうか。時間が止まり、空間がループしている。これは現実ではありえない。しかし、感じている恐怖や困惑は紛れもなく現実のものだった。


「あなたは何者ですか。なぜ同じことを繰り返すのですか」


私は震え声で老婆に問いかけた。もう恐れている場合ではない。この異常な状況の原因を探る必要がある。

老婆は答えなかった。ただゆっくりと月を見上げた。その仕草には、深い悲しみと諦めが込められているように見えた。

私も釣られて空を見上げる。満月が、さっきより大きく、より明るく輝いているような気がした。まるで私たちを見下ろしているかのように。月の表面の模様も、人の顔のように見えてくる。慈悲深い表情なのか、それとも冷酷な微笑みなのか。


「あなたもお気づきでしょう?」


老婆が初めて、違うことを言った。その声は先ほどまでとは違い、どこか人間らしい温かみを帯びていた。


「何にですか」


私の声も震えていた。何かとんでもない真実を知らされる予感があった。


「時間が止まっていることに。この坂から出られないことに」


背筋が寒くなった。老婆の言葉は、私が薄々感じていた恐怖を明確に言語化したものだった。確かに私は同じ場所を何度も通っている。時計の針は九時十五分を指したまま動かない。


「な、なぜこんなことが」


私の声は掠れていた。喉が渇いているような感覚があった。


「お月様が呼んでいるからです」


老婆は再び同じ言葉を口にした。しかし今度は、その言葉の意味が違って聞こえた。単なる繰り返しではなく、何か深い意味を持った言葉として。

月が呼んでいる。私を。そして老婆も。


「あなたも同じなのですか」


私は老婆に尋ねた。その答えを聞くのが怖かったが、知らなければならないような気がした。

老婆は静かに頷いた。月明かりの下で、その表情がより鮮明に見えた。深い皺の一本一本、窪んだ目の奥にある悲しみ、すべてがはっきりと見えた。


「私は五十年前から、この坂にいます」


その言葉の重さが、私の胸に突き刺さった。五十年間。


「あなたは」


「昭和四十八年の十五夜の夜でした。私は孫の迎えに行く途中、この坂で転んで頭を打ったのです。気がつくと、同じ時間を繰り返していました」


老婆の声は淡々としていたが、その言葉は私の心に重くのしかかった。五十年間、同じ夜を繰り返している。同じ時間を、同じ場所で。その絶望感を想像すると、息が詰まりそうになった。


「では、私も」


言いかけて、言葉が詰まった。心の奥で、既に答えを知っているような気がした。

思い返してみれば、田村君の家を出てからの記憶が曖昧だった。坂を下り始めた時のことを、はっきりと思い出せない。なぜ記憶があやふやなのか。なぜ同じ場所を繰り返し歩くのか。

老婆が私を見つめている。その目に、深い同情と理解が宿っていた。同じ境遇にある者として、私の困惑と恐怖を理解してくれているようだった。


「お気づきになりましたね」


老婆の声は優しかった。もはや恐怖の対象ではなく、同じ運命を背負った仲間のような存在に感じられた。

私は震える手で頭に触れた。後頭部に、何かぬるりとした感触があった。手を見ると、月明かりの下で黒い液体が光っている。それは紛れもなく血だった。既に乾き始めているが、確実に血液だった。


記憶が断片的に蘇ってきた。


田村君の家を出て、坂を下り始めた時。石畳が月明かりで濡れているように見えていたが、実際は露で滑りやすくなっていたのだ。足を滑らせて派手に転倒し、後頭部を石に強打した。その瞬間の激痛を、今になって思い出した。


そして、それ以降の記憶がない。

つまり、その時から私の時間は止まっていたのかもしれない。老婆と同じように。


「どうすれば」


私の声は震えていた。この状況から逃れる方法があるのだろうか。五十年間も同じ夜を繰り返している老婆を見ていると、希望を持つのが難しかった。


「お月様が呼んでいます」

老婆は空を指差した。満月が、今度はより一層大きく見えた。まるで手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じられる。月の光は以前より強くなり、私たちを包み込むように降り注いでいた。


「お月様の元へ行けば、楽になれます」


老婆の言葉が、不思議と温かく聞こえた。その声には、長い苦しみからの解放への憧れが込められていた。五十年間の孤独と絶望から、ようやく解放される希望を感じているのかもしれない。

この繰り返しから解放される。同じ夜を、同じ時間を生き続ける苦痛から逃れることができる。田村君のことを考える必要もない。家族の心配も、職場のストレスも、すべてから解放される。


私は月を見上げた。


美しい満月だった。十五夜の夜に相応しい、完璧な円を描いている。その光は優しく、包み込むような温もりを感じさせた。月面の模様も、今度は慈悲深い表情に見えた。まるで私たちを迎え入れようとする、慈愛に満ちた存在のように。


「一緒に参りましょう」


老婆が手を差し出した。皺だらけの小さな手だったが、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、安らぎを与えてくれる存在のように思えた。五十年間の孤独を耐え抜いた、強い意志を感じる手だった。


私はその手を取った。


瞬間、体が軽くなった。足が地面から離れ、ゆっくりと宙に浮き上がる。月の光が私たちを包み、温かな感覚が全身を満たした。これまで感じていた恐怖や困惑が、嘘のように消えていく。代わりに、深い安らぎと解放感が心を満たしていった。

坂道が遠ざかっていく。住宅の明かりも、街灯も小さくなっていく。地上の世界が、まるで別の世界のことのように感じられた。

私たちは月に向かって昇っていく。


老婆と一緒に。五十年間の孤独を分かち合い、新たな世界への旅立ちを共にする仲間として。


もう時間を気にする必要はない。もう同じ道を歩き続ける必要もない。田村君の複雑な事情も、家族への責任も、すべてが遠い昔のことのように感じられた。

月の世界で、私は永遠の安らぎを得るのだろう。

老婆と一緒に。


翌朝、月見坂で男性の遺体が発見された。

近所の犬の散歩をしていた住民が、坂道の途中で倒れている男性を見つけたのだ。中学校教師の西川さん(35)は、前夜の家庭訪問の帰り道、坂道で転倒して後頭部を強打し、失血死したと推定される。


発見者によると、西川さんは月を見上げるような姿勢で倒れており、その顔には穏やかな表情が浮かんでいたという。まるで美しい夢を見ているかのような、安らかな顔だった。

警察は事故として処理したが、現場検証では不可解な点もあった。西川さんの足跡が、同じ場所を何度も行き来していたような痕跡を残していたのだ。まるで同じ道を繰り返し歩いていたかのように。


地元住民の間では不思議な噂が流れている。


月見坂では昭和四十八年にも、老婆が同様の事故で亡くなっているのだ。当時の新聞記事によると、藤田タケさん(78)が孫の迎えに行く途中、坂道で転倒して亡くなったとされている。

そして十五夜の夜、この坂を通る人は時々、白髪の老婆と中年男性が一緒に歩いているのを見かけるという。二人は決まって同じことを呟いている。


「お月様が呼んでいる」


そう言って、満月を見上げながら坂道を歩き続けているのだと。

今夜もまた、十五夜の月が月見坂を照らしている。

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