夕日とボクと世界の卵
桜无庵紗樹
世界の卵が割れました
この宇宙は昔、大きな。途方もないくらい大きな卵だったらしい。
中国神話では、その卵から盤古という巨人が生まれた。そして、殻の上部が空に、下部が大地になった。
インド神話でも、卵は始まりの存在で。ヒラニヤガルバという黄金の卵から宇宙が生まれたらしい。
とりあえず、【世界の卵】ってのがある。
この意味のない書き出しで、それだけ理解してくれればいい
◇◇◇◇◇
世界の卵は、ある日突然として、僕の前に現れた。
それは放課後だった。
特別なことは何もない日。部活にも入っていない僕は、寄り道もせず、駅へ向かうために校舎裏の通路を歩いていた。
西日に照らされたコンクリートは無意味に暖かく、遠くから運動部の掛け声が聞こえる。世界は今日も、驚くほど平常運転だった。
だからこそ、目の前にそれが「ある」ことを、僕はすぐに受け入れてしまったのかもしれない。
白い卵が、そこにあった。
大きさは、人ひとりが抱えられるくらい。
表面は陶器のように滑らかで、ひび一つない。影の落ち方すら、妙に整っていた。
誰かが置いたにしては、あまりにも意味がなく、あまりにも堂々としている。
――世界の卵だ。
そう思った瞬間、理解は完了していた。
説明はなかった。声も聞こえなかった。
なのに僕は、それが何なのか、なぜここにあるのか、割るとどうなるのかを、全部知っていた。
割れば、世界は変わる。
痕跡は残らない。過去も因果も再構成され、誰も「前の世界」を覚えていない。例外はない。僕自身も含めて。
宗教的な象徴であり、哲学的な比喩であり、そして現実の装置。それが世界の卵。
「ああ……なるほど」
声に出しても、現実感は失われなかった。夢にしては、あまりにも整いすぎている。
驚きは、不思議と遅れてやってきた。というより、驚く理由が見つからなかった。
この世界が卵で、いつか割られる可能性がある、という発想自体は、昔からどこかで聞いたことがある。神話でも、寓話でも、SFでも。
ただ、それが今、僕の前に物体として存在しているだけだ。
「割る?」
そう呟いて、卵に手を伸ばしかけ、止めた。
割ってもいい。割らなくてもいい。
選択権が、完全に僕に委ねられていることも、なぜか分かっていた。誰かに報告する必要もない。期限もない。見張りもいない。
そして僕は気づいた。
――割っても、僕は何も失わない。
この世界に、守りたいものはない。
大切な人も、絶対に手放したくない日常もない。
学校も、家も、クラスも、全部「代替可能」だ。今の世界が消えても、別の世界で似たような役割を与えられるだけだろう。
それなら、迷う理由なんてないはずだった。
なのに。
僕は、卵の前に立ち尽くしたまま、動けなかった。
「……⋯?」
不思議な感じだ。割ればいい。退屈な世界が終わる。
何も期待できない未来が、強制的に更新される。
メリットしかない。
なのに、身体が言うことを聞かない。
「……⋯⋯なぜ?」
僕は高校二年生だ。
人生の分岐点だとか、青春の真っただ中だとか、そういう言葉を周囲は無責任に使う。でも実感はない。
毎日は均されていて、角がない。
それなのに、世界規模の選択を前にして、僕は初めて「迷っている」という状態に直面していた。
その事実に、僕は驚いた。
――僕、悩める人間だったのか。
感情に振り回されるタイプじゃない。少なくとも、自分ではそう思っていた。合理的で、省エネで、どうでもいいことは切り捨てられる。
だからこそ、この悩みは異常だった。理由が分からない悩みほど、気持ち悪いものはない。
僕は卵から一歩離れ、校舎の壁にもたれかかって、考えることにした。
徹底的に、検証しよう。
なぜ僕は、世界の卵を割れないのか。
恐怖?
違う。未知は嫌いじゃない。
責任感?
違う。世界の責任なんて、背負った覚えはない。
罪悪感?
誰に対して? 世界? 人類? そんな大層なものに、僕は感情を抱いていない。
じゃあ、何だ。
夕焼けが、卵の表面に映る。綺麗だと思ってしまった自分に、少しだけ腹が立つ。
そのとき、ふと浮かんだ考えがあった。
――もし、割らなかったら。
世界は、明日も続く。退屈な授業も、意味の薄い会話も、何も起こらない放課後も。
それを想像して、僕の胸は、わずかに――本当にわずかに――波打った。
変わらない世界。
それは僕が、ずっと文句を言いながら生きてきた場所だ。
でも同時に、何も選ばなくていい世界でもある。
卵を割るという行為は、世界を変える選択だ。
そしてそれは、「自分がこの世界をどう評価していたのか」を、はっきりさせる行為でもある。
退屈だと断じて、本当に切り捨てられるのか。それとも、退屈を言い訳に、何も選ばずにいただけなのか。
気づいてしまった瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
ああ。
僕は世界に未練があったわけじゃない。
未練があったのは、「退屈なままでいられる自分」だ。
それを壊す覚悟が、まだなかった。
世界の卵は、今も僕の前にある。
割ってもいい。割らなくてもいい。でも、もう一つだけ、確かなことがある。
僕は今日、初めて本気で悩んだ。
世界のことじゃない。自分のことを。
それだけで、この退屈な世界は、ほんの少しだけ、色を持った。
夕日とボクと世界の卵 桜无庵紗樹 @Sakuranaann_saju
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