僕の彼女は……
いすぱる
僕の彼女は……
「ブゥィーン」
今日も時間ピッタリに、古いエレベーターの音が聞こえてくる。
「ガターン。ターン」
何かをぶつけたような音が二度響く。エレベーターのドアが開いた音だ。
「コツン、コツン、コツン」
ハイヒールの音が廊下に響き、部屋に近付いてくる。
僕はドアの前でその音に耳を傾けながら、ドアスコープに目を押し付けている。
やがて影が見えてきて、美しい女性がドアの前に立って僕を見つめる。
普通の表情で……
赤いワンピースを着た彼女は、ネイルを施した美しい人差し指を、ゆっくりとのばす。
「ピンポーン」
チャイムがなったが、直ぐにドアを開けたりしない。だって、そんな事をしたら、僕がドアの前でずっと待っていたのがバレてしまうから。
だから、息を殺しながら、わざと時間をかけるんだ。ゆっくりと、ゆっくりと……
声のトーンを落としながら僕は返事をした。
「……はーい」
彼女は、僕がドアの前にいるなんて気づきもしない。声は遠くから聞こえている。そんな技を、僕は習得していた。
はやる気持ちを抑えながら、ドアスコープを覗きながらサムターンを人差し指と親指で挟んでゆっくりと回す。
「スー、カチャ」
その音が聞こえた瞬間、僕の彼女は、笑みを浮かべた。
ノブを回してドアが開いた瞬間、隙間から彼女の甘い匂いが漂って来る。それだけで嬉し過ぎて、僕の心はずっとドキドキ音を立てている。
「い、いらっしゃい」
僕の声に、彼女はニコリと微笑んで言葉を返す。
「こんばんは」
その挨拶に僕は、照れ臭そうにはにかんで、下を向いてしまった。一時も目を離したくないのに、僕の馬鹿……
「さぁ、入って」
「うん」
返事をしたその優しい微笑。
胸の高鳴りが止まらない。僕の彼女は、本当に美しいんだ。
彼女が玄関でミュールを脱いでいる間、僕はどんな瞳で彼女を見つめていたんだろうか……
たぶん、女性が見ていたら引くような視線を送っているのだろう。そんなことは分かっているさ。それでも、彼女の視線が僕から外れている今だけは、そんな目でみさせてくれ。頼むからさ。
「おまたせー」
「うん、行こう」
彼女を従えて、奥の部屋へと歩いて行く。もちろんその部屋のドアは開けたままさ。だってさ、開けてないと僕が玄関のドアの前で待っていたのがバレるかもしれないだろ? あくまでチャイムが鳴ってから部屋から出て行った演出のためにあけてたんだ。
もしろん掃除はバッチリさ。
いつものように二人で向かい合わせのソファーに腰を下ろす。
そして、これもいつものように彼女は僕に微笑みながらつぶやくんだ。
「今日は、何分にしますか?」
そう…… 僕の彼女は、デリヘル嬢だ……
「もしもし、90分でお願いします」
電話を切った彼女がスマホを操作して80分後にタイマーを合わせる。
「シャワー浴びる?」
「……うん!」
元気良く返事した僕の後を、彼女が付いて来る。
脱衣所で、彼女の美しい手が、僕の服に伸びて来る。
優しく丁寧に、僕の服を一枚ずつゆっくりと脱がしてゆく。パンツまでも……
僕の服を脱がし終えると、今度は背中のファスナーに手を回し、赤いワンピースを脱いでゆく。
この時僕は、どんな表情で見ているのだろうか…… 自分でもわからない。
ワンピースがストンと音を立てて下に落ちた。大人の薄いピンクの下着が露わになる。
素敵だ…… なんて似合っているんだ。まるで、彼女の為だけに作られた下着みたいだ。
彼女は後ろに手を回し、静かにホックを外した。肩ひもがほどけ、薄い布が滑り落ちる。その瞬間、胸元の曲線が、部屋の空気を少し変えた。
以前、そのサイズを聞いたことがある。けれど数字よりも、目の前の存在感がすべてを上書きする。
彼女の身体は白く整っていて、どこか彫像めいていた。いまここにある姿こそ、世界が羨む一度きりの美しさだ。
そして彼女の手が、最後の下着へと触れる。その仕草は、何度目かのはずなのに、慣れない。
いつだって、この瞬間だけは胸の奥が静かに跳ねる。
心臓が、時間の進み方を忘れそうになる。
シャワーを終えて、僕たちはそれぞれタオルを身に巻いたまま、ベッドへ向かった。
腰を下ろしたところで、彼女がそっと言う。
「いつも清潔だよね。部屋も、ベッドも、このタオルも」
彼女は巻いたタオルの端に軽く視線を落としながら、それを確認するみたいにつぶやいた。それは、僕の生活への小さな信頼の言葉に思えた。
以前に、ある人に教わったことがある。男は、女性の前では清潔でいたほうがいいって。深く考えたこともなかったけど、なんとなく守ってきた。いま、その意味がやっと分かる。本当に助かったよ、ありがとう。
それに、こんなボロいマンションに来てくれているんだ。せめて清潔にしておかないとね。
彼女と並んでベッドに横になった。
僕は天井を見つめ、彼女は腕枕に顔を寄せて横向きのまま、じっと僕の横顔を見ていた。
すると、バスタオルを外した彼女が、天井を見つめている僕の視線に入ってきた。
心臓がドキドキする。けど、不思議と苦しさはなく、ただ暖かさがゆっくり広がるだけだ。
目が合うと、彼女は小さく微笑み、唇を重ねてきた。
その瞬間、世界の音がすっと遠のいた気がした。
「ピピピピピー、ピピピピピー」
彼女との時間は、いつだって一瞬で終わる。
服を着ている彼女を、気づかれないように目で追っていると、僕のスマホのアラームが鳴った。
「ピロロロン、ピロロロン」
しまった。来週の予定を早めに仕込んでいたのを忘れていた。
「あ、ご、ごめんなさい」
あわててスマホに手を伸ばしアラームを止めた。だが焦って別のアプリを立ち上げてしまう。
「Oh yeah, I’ll tell you something」
スマホから流れてきたのは、The Beatles、I Want To Hold Your Handのカバーだった。
切ない恋の歌。僕はその古い曲がずっと好きだった。とくに海外のあるYouTuberが、テンポを落としてバラードに変えたカバーが胸に染みて仕方がなかった。僕の父の世代より古い曲に共感してくれる友達なんていない。だからこれは、いつもひとり用の曲だった。
「あっ、ご、ごめんなさい」
「I think you’ll understand」
アプリを止めようとした僕に、彼女が口を開いた。
「止めないで」
「えっ……」
「When I’ll say that something」
彼女は静かに目を閉じる。その姿を、僕はただ見つめていた。
「I want to hold your hand」
そして、唇がかすかに動いた。
「I want to hold your hand, I want to hold your hand……」
その天使みたいな声が、僕の好きなYouTuberの声に重なってゆく。
「Oh please, say to me, You’ll let me be your man,
And please, say to me」
こんな…… こんな、夢みたいな日が来るなんて……
「You’ll let me hold your hand」
目の前で起きていることが信じられなかった僕は、心の中で祈った。
これが本当なら、お願いだから時間よ止まってくれ。
でも、世界はその祈りに応えてはくれなかった。
「じゃあ、またね」
彼女は、笑顔でそう口にした。
「うん。また、来月」
彼女の90分には、指名料を含めて二万六千円かかる。安月給の僕にとって、会えるのは月に一度が精一杯だった。給料日直後ではなく、給料日の翌週の金曜日。いつもその日だった。
小さく手を振っている彼女を見つめながら、僕はゆっくりとドアを閉めた。直ぐにドアスコープを覗いたけど、彼女の影しか見えなかった。
「コツンコツンコツン」
小さいくなってゆく彼女の足音を、僕は閉めたドアの前で聞いている。
足音が止まり、モーター音が聞こえてくる。
「ブゥィーン」
このときばかりは、普段はイライラさせられる遅いエレベーターが、むしろありがたかった。
彼女は、まだそこにいる。そう、まだすぐそこにいるんだ。
「ガターン、ターン」
ドアが開いた音の後に、またモーター音が聞こえてくる。僕は急いでベランダに走った。
静かに窓を開けてベランダに出る。そして、洗濯物の影から、マンションの入り口から出て来た彼女を見ている。
彼女は……
「バタン」
迎えの車に乗って、去っていった。
「さようなら…… 僕の彼女」
そう呟いた瞬間、僕は自分が作り上げた恋を、自分だけの手で葬っていた。
そして、無意識に口ずさんでいた。
「I want to hold your hand」
「ゴォー…… ガシャン、ガシャン」
今日も朝から、僕は工場で働いている。
この季節の工場内は暑く、汗が止まらない。
袖で額を拭うと、油と汗が混ざった匂いが鼻を突いた。
それでも、僕はこの匂いが嫌いじゃなかった。
ここには、一生懸命働いているという実感があった。
「ホム ナイ アン トイ テー ナオ?」
「ドゥオック ダイ。クアン クエン ニェ」
気づけば、この工場で日本語が聞こえることは少なくなった。日本人の従業員は、僕と、あと数人だけだ。周りにいるのは、ベトナム人か、中国人。
それも、もう珍しい光景じゃない。
休憩時間になると、人は自然と同じ国の者同士で集まる。僕は特別仲がいいわけでもないけれど、いつも日本人が集まる場所で休んでいた。
「ぎゃっははは。もう笑いが止まらないぜ!」
「いくら勝ったんだよ?」
「10万!」
10万円も……
「お~、けっこう勝ったな」
「だろ? 元は千円だぜ! ぜんぜん確変が止まらなかったんだ。ぎゃはははは」
みんな、博打の話が大好きだ。千円で10万円も勝つなんて凄いけど、トータルでは負けているはずだ。
タバコをくわえながら、パチンコ、競輪、競馬、競艇。休憩時間の話題は、いつもそのどれかだった。僕はタバコも吸わないし、賭け事は何もしない。だから、話についていけず、少し離れた場所で、ただ愛想笑いを浮かべているだけだ。
「景気が良いね~。俺は昨日競馬が抜けちまって、最近ぜんぜんだめだ。それで、どこの店だよ?」
「エデンだよ」
「あ~、あそこね。俺も前はよく行ってたけどな~。長くなると、近くのバーガーキングで休憩してさ」
「俺も俺も!」
「で、大勝ちした日は、そのまま堀野の風俗街に」
「ぎゃははは、一緒一緒! みんな考える事は一緒!」
「あははは、仕方ねぇよな~」
話が盛り上がり、僕以外の日本人だけが声を上げて笑っていた。そこへ、ベルの音が割り込んだ。
「ジリリリリリー」
「おっ、仕事仕事」
「さて、やりますか」
みんなタバコの火を消して、持ち場へと戻っていく。
今日も、くだらない話を聞いて、休憩時間が終わった。それでも僕がここに立っていられるのは、彼女に会える日を心待ちにしているからだ。
「ジリリリリーン」
そして、17時のベルが鳴った。
「帰りにエデン、いっちゃう?」
「10万の話を聞いたらよ、ただでは帰れないよな~」
また話が盛り上がる中、僕は挨拶をしてその場を後にした。
「お疲れさまでした」
ロッカー室で汚れた作業服を脱いで着替え、京急電車に飛び乗る。他社よりもスピードの速い電車からの景色を眺めながら、僕は心の中で、日めくりカレンダーを一枚破り捨てた。
「ふぅ……」
大森町駅で降りてスーパーなんぶやで買い物しているあいだも、自然と笑みがこぼれていた。
これでまた、彼女に会える日が、一日ぶん近づいた。
毎月、彼女に会う前には、ひとつの試練がある。
その試練は、決まって給料日後の休みの日にやってくる。
会社の日本人従業員だけで、月に一度の食事会が開かれる。職場では外国人のほうが多いせいか、自然と結束を求める、そんな行事だった。
僕にとっては、もっとも無駄に思える時間だけれど、
みんなが参加している以上、断るわけにもいかなかった。
「おーい、明日は焼肉でいいよな?」
「おっ、賛成」
焼肉……
その言葉に、僕の中で何かが引っかかった。
「みんなそれでいいよな?」
決して嫌いなわけじゃない。いつもは中華料理やファーストフードで、値段もそれなりだった。けれど焼肉となると、一人いくら出すことになるのだろう。
そんな贅沢をするくらいなら、僕はその分を彼女との
「……はい」
僕は反対することができず、曖昧に頷いて返事をした。
二日後……
待ち合わせの京急川崎駅中央口に着くと、一人を除いて全員が揃っていた。
「すみません、お待たせしました」
「ぜんぜん」
「まだ来てない奴いるし」
「遅いなーあいつ」
「ですね~。パチンコでも打ってるんですかね?」
「ありえる~。LINEしてみるか」
ひとりが、到着してない人にLINEをしている。
「うーん…… 既読にならない。電話してみるか……」
だが、電話をかけても応答はなかった。
「まったくよー。焼肉だって言い出した本人が連絡つかないって、どういうことだよ」
少し、雲行きが怪しくなってきた。
どうせなら、このまま中止になるか、今いるメンバーだけで、いつもの中華料理屋に流れてしまえばいいのに……
そんなことを考えていると、折り返しの電話がかかってきた。
「お、あいつだ。もしもし?」
僕は、焼肉と言い出した本人が来ないことを、心のどこかで願っていた。
「……うん、うん。わかった」
電話を切ると、そのまま僕たちに視線を向ける。
「今こっちに向かってるってさ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がすっと冷えた。がっかりした気持ちを隠したまま、僕は黙って立っていた。
そして数分後、その人は何事もなかったかのように姿を現した。
「悪い悪い、待たせて悪かった」
「30分も遅刻ですよー」
「いや~、本当に申し訳ない。じゃあ、行こうか」
そう言って歩き出した方角を見て、みんなが一斉にきょとんとした。
「おい、店は逆だぞ」
「いいからいいから、ついて来いって」
誰もまったくもって意味が解らなかった。もちろん僕もだ。
言われるままについて行くと、着いたのは川崎ルフロンだった。
えっ、まさかここ……
胸の奥で、嫌な予感が静かに膨らんでいく。
「おい、どの店に入るんだよ?」
遅れて来た男は、振り返ってあっさり言った。
「焼肉と言えば、叙々苑に決まってるだろ!」
じょ、叙々苑……
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
気づいたときには、みんな目を見開いて立ち尽くしていた。
給料日直後とはいえ、叙々苑は贅沢すぎる。
ふっと、彼女の顔が脳裏に浮かぶ。
こんなところで使う金があるなら、その分を彼女に使いたかった。
「叙々苑かよ~。まぁ、たまにはいいかっ!」
「ですね~」
すぐに納得する者もいれば、僕と同じように、表情に迷いを残している者もいた。
「ちと厳しいかな~。食べ放題の店に行くって聞いてたからさ」
そう、意見が分かれるのも無理はない。みんな、同じような安月給なんだから。
「心配するな」
その一言に、全員がきょとんとする。
「俺の奢りに決まってるだろ!」
次の瞬間、空気が一変した。
「おっ、おごり!?」
「おい、叙々苑だぞ! この人数なら10万を余裕で超えるぞ」
「いいんですか!? 今さら嘘とか言わないで下さいよ!」
驚きの声が一斉に上がる中、僕はただ黙って立っていた。
「実はな~、ここ最近ツキがやばくてよ。なんと今月はパチンコで60万勝ってたんだよ」
「60万!?」
「さっきもよ、早く来て打ってたら……」
「……打ってたら?」
全員の視線が、その口元に集まる。
「また10万も勝っちゃった」
「えー、10万も!?」
「しかも元はまた千円なんだよ!」
「また千円かよ!? すげー」
「待たせたお詫びだ。今日は俺が奢る。腹いっぱい食おうぜ。もう予約も入れてある」
「うぉー、すげぇ!」
「ごちそうになります!」
「叙々苑だぞ! 田舎から出てきて、一度も来たことないよ俺」
それは、僕も同じだった。東京に来てから、叙々苑なんて一度も縁がなかった。
いつもは気が重かった食事会が、この日は違っていた。みんな笑顔で、エレベーターに乗り込んでいく。
「うわー、ここが叙々苑かぁ」
「入口からして別世界だな」
予約が入っていたこともあり、案内は驚くほどスムーズだった。
「店内、すげぇな」
「ほんと、めちゃくちゃ綺麗」
僕も含めて、全員が落ち着きなく視線を泳がせていた。
「まずはビールだな」
「だな! 乾杯しよう!」
運ばれてきたジョッキを、みんなが掲げる。
僕も、少し遅れてそれにならった。
「う~、かんぱーい!」
「乾杯!」
「かんぱーい!」
大きな声を出しているのは、僕以外の5人だった。
ほどなくして、注文した肉が次々と運ばれてくる。
「うぉ! なんだこの肉!」
「写真撮っていいよな?」
「俺も、俺も動画撮ろうっと!」
みんな完全にはしゃいでいた。
「ジュー、ジュジュー」
焼ける肉の音と、立ちのぼる脂の匂いに、みんなの喉が、思わずごくりと鳴った。
「もう我慢できん!」
「俺も俺も!」
誰かを待つこともなく、皆が一斉に箸を伸ばす。
焼き上がった肉は、次々と誰かの箸にさらわれ、タレをまとったまま口の中へ消えていった。
「うっ、うまっ!」
「溶けるー。肉が溶けるぞ!」
「さいっこう!」
少し遅れて、僕も残っていた肉に箸を伸ばす。
皿の端でタレを絡め、そのまま静かに口へ運んだ。
お、美味しい……
こんなに美味しい肉を食べたのは、たぶん初めてだった。
味も、店の雰囲気も、接客も、ここにあるものは、すべてが完璧だった。
こんな素敵な店に、彼女と一緒に来ることができたなら。そう思うだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
数十分後……
「くわぁ~、食った食った」
「いくら良い肉でも、さすがにもう無理だわ」
「めっちゃ幸せ……」
みんな、満足そうな笑みを浮かべている。
「すみません、少し席を外します」
「お、トイレか?」
「えぇ」
「いっトイレ~」
「お便器でぇ~」
席を立つたびに、食事会では決まってこの台詞が飛んできた。
いつもなら何とも思わない。
けれど、美味しい肉を食べたせいか、僕は機嫌がよく、思わず小さく笑ってしまった。
その笑みを残したまま、トイレへ向かう。
ただ用を足して、席に戻るだけのはずだった。
それなのに……
「うふふふ、それ本当なの?」
ガラス張りの個室の向こうから、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
胸の奥が、びくりと揺れる。
僕は、すぐに気づいてしまった。
この声を、知っている。
そう、その笑い声の主は、彼女だった。
「本当だって。嘘なんてついたことないだろ、俺」
彼女の向かいには、男が座っていた。
「あるある。何度もある~」
「ないって~」
トイレに入っても、動揺は収まらなかった。
落ち着こうとしても身体が言うことを聞かず、いつものようには、うまく用を足せなかった。
もたついていると、すぐ隣で誰かがファスナーを下ろす音がした。
何気なく視線を向けて、僕は息を呑んだ。
そこに立っていたのは、さっき彼女の向かいに座っていた男だった。
ま、間違いない…… こ、こいつだ……
座っていたときには分からなかったけど、背は高く、整った顔立ちをしている。
そ、それに……
僕の視線は、無意識のうちに、男の
お、大きい……
そのときだった。
「ねぇ」
「……え。ぼ、僕?」
視線を上げると、男は僕を見ていた。
「もしかして、同姓が好きな感じ?」
「……え。ち、違います」
そう答えると、彼は爽やかな笑顔を浮かべた。
「よかった。あまりにも俺のアレを見てるからさ、ちょっと焦っちゃった」
「ご、ごめんなさい……」
「ぜんぜん。気になることあるよな。隣の人のアレ」
そう言って軽く笑い、男は手を洗うと、そのままトイレを出て行った。
たったそれだけのやり取りだった。それなのに……
僕は、はっきりと差を感じてしまった。
男としての、どうしようもない距離を。
気づいたときには、もう負けていた。そんな感覚だけが、胸の奥に残っていた。
「ジャーー」
僕は、ずっと手を洗っていた。
そんなに時間をかける必要なんてないのに、それでも水を止められずにいた。
そのとき、ドアが開いた。
「大きい方だったのか?」
パチンコで大勝ちした人だった。
「俺も大きい方なんだよ」
そう言って、ドアを閉めた。
数分後……
用を足して戻ってきたその人は、まだ手洗い場に立っている僕を見て、少し驚いた顔をした。
「お、待っててくれたのか? いくら奢りだからって、そんなに気をつかわなくてもいいのに」
そう言って、笑った。
けど、違うんだ。
そうじゃない……
戻りたくなかっただけだ。
彼女も、その向かいに座っているあの男も、今は見たくなかった。
ひとりで席に戻るのが、どうしても嫌だった。
僕は、その人の背中に隠れるようにして、一緒に席へ戻っていった。
見られないように、壁のようになってもらいながら。
会計をしているとき、僕たちは店の外で待っていた。
「ありがとうございました」
店員さんの声を背中で受けながら、その人はどこか誇らしげに出てきた。
「ごちそうさましたー」
みんなで一斉に頭を下げる。
「ねぇねぇ、いくらだったんですか?」
「教えてくれよ」
「嫌らしい話だけど、俺も知りたい」
「う~ん…… まぁ、30万はいってない」
「えー! ってことは、20何万だったってことですよね!?」
「マジかぁー。本当ごちそうさまでしたー!」
「ボス! 一生ついていきます!」
「調子いいな。今までボスなんて呼んだこと一度もないくせに」
エレベーターを降りたあとも、みんなは余韻に浸ったまま、はしゃいでいた。
二次会に行こうという話も出たが、僕は丁寧に礼を言い、理由をつけて、その場を離れた。
京急川崎駅の中央口が見え始めたところで、僕は足を止めた。
理由は分からない。
気づけば、身体は川崎ルフロンのほうへ向きを変えていた。
脚が、言うことをきかない。
まるで、僕のものじゃないみたいに、歩幅は自然と大きく、速くなっていく。
そして、ちょうどルフロンに戻った、そのときだった。
彼女が、あの男と腕を組んで歩いているのが、視界に入った。
それだけだった。
けれど、その瞬間に胸を満たしたものを、言葉にすることはできなかった。
考えるより先に、世界が静かに崩れていった。
気づけば僕は、ふたりの後を追っていた。
見られたら終わりだ。
二度と、僕の部屋には来てくれない。
分かっている。リスクが大きすぎる。
それでも、足は止まらなかった。
やがて、ふたりはひとつのマンションに入っていった。
分譲か賃貸かも分からない。
ただ、大きくて、やけに綺麗な建物だった。
その建物を見上げていると、雨が降り始めた。
ぽつり、ぽつりと落ちてきた雫は、すぐに大粒へ変わり、舗道を叩く音を立て始める。
そのとき、最上階の一室に明かりが灯った。
時間を考えれば、たぶんあのふたりだ。
僕の首は、重力に逆らえないもののように、ゆっくりと下へ落ちていった。
わかっていた。
当たり前じゃないか。
あんなに素敵な彼女に、男がいないなんて、ありえない。
頭では、ずっとわかっていたはずだった。
それでも、目の前に突きつけられた現実は、あまりにも残酷だった。
せめて……
吐き気がするほど嫌な男であってほしかった。
トイレで会ったとき、僕に罵声を浴びせ、殴りかかってくるような、そんな分かりやすく最低な男であってほしかった。
けれど、違った。
短い会話の中で、
僕は、あの男を認めてしまっていた。
それが、どれほどみじめなことか。
わかってくれとは、言わない。
それでも…… それでも、だ。
「うぅ…… ひっく…… ひく……」
その日、僕は……
彼女が消えたマンションの前で、夜空と一緒に、立ち尽くしたまま泣いていた。
給料日の翌週の金曜日。
彼女に出会って以来、初めて僕は、彼女を呼ばなかった。
あの夜、僕は泣きながら心に決めた。現実に戻ろう、と。
彼女は、本当に素敵な人だ。
けれど、彼女の仕事はデリヘル嬢だ。
僕以外の男にも、いつも抱かれている。
そして、本命であろうあの男にも……
そう言い聞かせて、なんとか彼女を嫌いになろうとしていた。
あの男は、知っているのだろうか。
彼女の仕事を。
それとも、何も知らないままなのだろうか。
そのことが、どうしても気にかかっていた。
彼女に会えない寂しさと、同じくらい強く、
心の奥に引っかかって離れなかった。
あのマンションは…… 彼女の部屋なのか。それとも、男のなのだろうか…… それとも、二人の……
休みの日、僕はあのマンションの前に立っていた。
僕を動かしたのは、好奇心だった。ただ、それだけだった。
しばらく立ち尽くしていると、偶然なのか必然なのか、彼がひとりでマンションから出て来た。手には、ゴミ袋を持っていた。
胸が、どくりと鳴る。
そして、視線が合った。
「お…… 確か、叙々苑のトイレで」
どうやら、その見た目だけじゃなく、記憶力も良いらしい。
「……はい」
僕は、小さく答えた。
「偶然? それともまさか…… 俺に会いに来たとか?」
その言葉に、小さくうなずいた。
「お、お前。ガチで俺のアソコを狙って……」
「いっ、いえ。ちっ、違います。違うんです」
そのまま黙ってうつむく僕に、彼は少し間を置いて言った。
「なんてね。冗談だよ。入るか?」
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
「……え?」
そのとき、僕はいったい、どんな顔をしていたのだろう……
数分後、僕は、あの男と一緒に最上階の部屋にいた。
「コーヒーでいい?」
「え…… あの、お構いなく」
「もう十分、構ってるだろ。知らない人間を部屋に上げてる時点でさ」
た、確かに…… つまり、いまさら遠慮するな、ということだよね。
「……はい。お願いします」
「了解」
そう返事をして、コーヒーを淹れにキッチンに向かった。
その間、僕は部屋を見回していた。
ここは…… 男性の部屋だ。
生活感は抑えられているのに、無駄がない。
考えてみれば当然だ。
彼女の部屋に、見知らぬ男を上げるはずがない。
男は、コーヒーを手に戻ってきた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
カップを置くと、彼は僕の向かいのソファに腰を下ろし、静かに口を開いた。
「それで、ここに来た理由は?」
僕は、口に運びかけていたカップを、そっとテーブルに戻した。
「俺に惚れたわけでもないのに、それでも会いに来たとなると…… あの日、叙々苑で俺が連れていた女性だろ」
「……え?」
どうして、そこまで…… そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。
そう思っているなら、僕は完全な不審者……
「今、それが分かってるなら、完全な不審者じゃないかって考えた?」
図星だった。心の声に被せられた僕は、何も言えず、ただ彼を見つめていた。
「そんなお前を部屋に入れた理由は……」
男は、少しだけ口元を緩めた。
「ただの好奇心さ」
「こ、好奇心……」
「そうさ。あの日、お前が俺たちの後をつけてきてたのは、気づいてた」
「えっ……」
「職業柄ね。どうしても、後ろを気にする癖がついてる」
あのとき、そんな素振り、まるでなかったのに。
「お前は客だろ? 彼女の」
……そこまで、知っているんだ。つまり、あの時、僕が後をつけていたことは彼女も……
男は、淡々と続けた。まるで、僕の心の中を
「安心しろ。そのことは、彼女には言ってない」
「……ど、どうして、それが?」
「材料はいくつか揃ってたしね。あとは、なんとなく。言葉にするのは難しいんだ」
「な、なんとなく……」
「あぁ。叙々苑で会ったのは、偶然なんだろ?」
そこまで……
「あれだけ人が行き来している場所で、確率で言えば低いんだろうさ。でも」
男は、コーヒーに口をつけてから、続けた。
「人と人が出会う理由は、数字じゃ測れない」
「……」
「出会いってのは、当事者にとっては、いつだって特別なんだ」
「特別……」
男は、まっすぐ僕を見た。
「そう。お前にとって、彼女との出会いは、特別だった」
「……」
「だからだ。リスクしかないのに、俺のところまで来た」
男は少し間を置いて、続けた。
「特別じゃなきゃ、お前はそんなことをしない」
どうして、どうしてそんなことがわかるんだ……
「それとも、俺と同じで、ただの好奇心だったのか?」
その言葉を聞いて、僕は一瞬、迷った。
自分は好奇心に負けて、ここまで来たのだと、そう思っていたからだ。
けれど、今は、分からなくなっていた。
いや、違う。
この男の…・・ 言う通りだ。
彼女との出会いが、僕にとって特別だったから、僕はここに来てしまった。
「ちなみに、俺と彼女に肉体関係はない」
「……」
「安心したか?」
少し間を置いて、男は続けた。
「彼女は、女友達だ。その中でも、特別に信頼している一人だよ」
「……そうなんですね」
「俺の中の、ひとつの決め事でね」
「……決め事?」
「この先も、人生を通して付き合っていきたいと思った女性とは、肉体関係を結ばない。そう決めている」
「……」
「男と女の関係になると、関係そのものが、妙に消耗していくことがある」
「……」
「もちろん、すべてがそうじゃない。生涯を共にする夫婦もいる。ただ俺は、そうじゃなかっただけだ」
「……」
「彼女は、魅力的だよ。どんな職業であっても、彼女の中にある純粋さは、失われない」
「……ぼっ」
目の前の男は、何かを言いかけた僕を、じっと見ていた。
「ぼ、僕は、これからどうすればいいでしょう」
どうして、この人に聞いているんだ……
「さっきも言ったけど、お前が後をつけていたことも、このことも彼女に伝えるつもりはない」
「……」
「だから……」
男は、淡々と続けた。
「また彼女と会うのも、ここで関係を断つのも、どちらを選んでもいい」
「……」
「それは、お前が決めることだ」
10分後、僕はマンションから出て京急川崎駅に向かっていた。
その姿を、マンションの最上階から、男は見つめていた。
あいつは…… どちらを選ぶのだろうか。
そう呟いた彼の表情は、口元だけが、ほんのわずかに緩んでいた。それは、興味なのか、同情なのか、彼自身にも分からないほどのものだった。
僕はあのあと、真っ直ぐ自宅に戻っていた。
あの人は、彼女のことを、大切な友人だと言っていた。
それなら、ストーカーまがいのことをした僕を、なぜ咎めなかったのか。
なぜ、罰することもなく、自由にさせたのか。
それどころか、彼女に会うか、会わないか。
その選択を、僕に委ねた。
考えれば考えるほど、答えはひとつしか浮かばなかった。
あの人は、僕を脅威だとは思っていなかったのだ。
彼女を奪われる心配も、壊される不安も、最初から、持っていなかった。
だからこそ、あんなふうに、落ち着いていられた。
だからこそ、僕に選ばせる余裕があった。
その事実が、胸の奥に、じわじわと染み込んでくる。
怒りよりも、悔しさよりも、もっと静かで、もっと重たいものとして。
あれから10日後……
「ぎゃはははは。昨日もまた勝ったぜ! 元金はまたまた千円」
「また!? やばすぎだろ」
「近いうち死にそう」
「縁起でもないこと言うな! これが俺の実力なんだよ」
「なんの実力だよ」
「しかし凄いですね。今日ついて行こうかな?」
「おう、こいこい!
休憩中の、いつも通りの会話。
だけど、ここからがいつもと違っていた。
「……あのー」
「うん? どうした?」
「その…… もし良かったら、僕も付いて行っていいですか……」
僕の一言に、みんなは顔を見合わせて、そろって目を見開いた。
「……お、おお、いいよ。来い来い。お前も来い」
「おっとっとー、パチンコデビューかぁ」
「じゃあ俺も行こうかな~」
あの日、あの人と会話をしてから、今までの自分でいられないと、ずっと思っていた。
何かを変えないといけない。そんな衝動が、毎日、胸の奥をじわじわと締めつけていた。
そしてもうひとつ。何かに打ち込んでいれば、彼女のことを忘れられる気がしたからだ。
「どうだ!? ぜったい俺のおかげだろ!? みんな、俺をあがめたてまつれ!」
なんとその日、6人全員が勝った。その中でも、一番勝ったのは僕だった。
「お前、千円で確変引いてただろ? いくら勝ったんだよ?」
「……きゅ、9万円です」
「9万!? 昔ならともかく、この短時間ですげーなー。俺も2万勝ったけど」
そう。僕は、初めてのパチンコで9万円勝った。手取りの半分。それを、たった数時間で手にしていた。
「ぎゃははは、みんなで飲み行くぞー!」
この日、家に戻ったのは、0時を過ぎていた。
明日も朝から仕事なのに、けれど僕は、すぐには眠れなかった。
ベッドに入ってからも、ただひたすら、スマホの画面を見つめていた。
それは、初めて打って9万円も勝ったそのせいなのか。
それとも……
今思えば、それは間違いなく、後者だった。
次の日も、その次の日も、そして休日も。ずっとずっと僕はパチンコ屋に向かった。
「昨日も勝っちゃいました」
「ちきしょー。俺の運がお前に移っちまった。くっそー!」
「あれれ? 実力とか言ってませんでしたっけ?」
「うるせー!」
そう。僕が毎日勝つようになってから、叙々苑を奢ってくれた人は、まるで入れ替わるように負け始めていた。
「次はお前が叙々苑に連れて行ってくれよー」
「ほんとほんと、楽しみにしてるからなー」
このとき、僕は返事をせず、薄く笑ってごまかした。
パチンコをするようになってから、この日までに僕が勝った金額は80万円を超えていた。そのほとんどを使うことなく、貯金していた。
そして、休日の今日もまた、僕はひとりパチンコを打っていた。
「ジャラ、ジャラ」
流れ落ちる玉の音が、絶え間なく降ってくる。
「ピロリン、ピピピピ、ドゥルルル」
機械の電子音が、好き勝手に鳴り続けている。
派手なリーチ演出が、今の僕の心を満たしてくれていた。そしてこの日も、大勝ちした。
だけど……
家に戻ってひとりになると、僕は決まって、彼女のことを思い出していた。
会いたい……
スマホでサイトを見ると、彼女は出勤していた。
以前と違って、お金ならある。月に一度どころか、何度でも呼べるくらいには勝っていた。だから、会おうと思えば、簡単に会える。
だけど……
彼女のことを考えると、必ずあの人のことが頭をよぎる。
まるで、ハンバーガーに付いてくるフライドポテトみたいに。
僕の心を見透かしていた、あの人が……
「……くっそー」
ひとりで
そして一時間後、川崎のラブホテルにいた。
「何分にする?」
なんだよこいつ…… 全然画像と顔が違う。それに、態度悪すぎる。
「ねぇ、何分にするの?」
「……じゃあ、60分で」
「はいはい」
その女は僕に背を向け、店に電話をかけた。
「60分だって。うん。だめだめ、金なさそう」
小声だったけど、はっきり聞こえた。
僕がお金を持ってないだって? お前にいったい何の関係があるんだよ! それに、お金ならある。
電話を切ると、彼女は面倒くさそうに言った。
「はぁー。シャワーいく?」
怒りで心が震えていた僕は、少し間をおいてから、無言でうなずいた。
だけど僕は、この女ではイカなかった。
帰り道。いつものように、スピードの速い京急電車の窓から、流れる景色を見ていた。
多摩川の河川敷には、ホームレスの小屋がいくつか建っていた。
撤去されては、また建てる。
増水で流されても、また建てる。
その繰り返しで、景色はいつも変わらないままだった。
そう。僕の心も変わらなかった。
彼女じゃないと、駄目だった……
大森町駅で降りてマンションに向かうあいだ、僕は無我夢中で電話をかけていた。
そして数時間後、以前と同じように、僕はドアの前に立っていた。
時間通りに聞こえて来たエレベーターの音。
「ブゥィーン」
それから、懐かしいあの足音。
「コツン、コツン、コツン」
間違いない。今そこに、彼女がやって来た。
ドアスコープから覗く僕の目に、会いたくて、会いたくて仕方なかった彼女の姿が映った。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
しばらく会わないうちに、彼女の髪型が、変わっていた。
「ピンポーン」
僕は返事もするのも忘れて、一心不乱に彼女を見ていた。
「ハァハァハァ」
僕の右手は、自然と股間へ伸びていた。
うっ。で、出る……
「ウッ、ウゥ」
思わず漏れた声が届いてしまい、ドアの向こうで、彼女が不思議そうな表情を浮かべていた。
しまった……
「あ、ちょ、ちょっと待ってね」
慌ててティッシュを取りに行き、ドアに付いたものを拭き取ってから深呼吸をひとつ。
「スー、ハー」
そして、ゆっくりとドアを開けた先に立っていた彼女は、優しい笑みを浮かべていた。
彼女は、小さく、ゆっくりとつぶやく。
「ひさしぶり」
その瞬間、僕の頬が赤く染まっていくのを、はっきりと感じていた。
やっぱり、この人じゃないと駄目なんだ。
この日の僕は、少しおかしかった。
いつも受け身だった僕が、激しく彼女を責めていた。
「アッ…… アア、アー」
彼女の喘ぎ声も、以前とは明らかに違っていた。
演技ではない。本気で感じている。
そう思った僕は、禁止されている行為に及ぼうとしていた。
僕は、自分のそれを、彼女にゆっくりと当てた。
そのとき彼女は、虚ろな瞳で僕を見つめたまま、小さくうなずいた。
「アッ、アアッ、アッ、アアア」
彼女は、僕を否定しなかった。
どうだ…… どうだ!
「ア、アア」
お前は……
自分に課したおかしなルールなんかで……
「イイ。アー」
こんな素晴らしい女性と結ばれることもない。
なのに僕は……
「アアアアッ、キモチイイ」
彼女とひとつになっているんだ。
「イイ、イク…… イクー」
どうだ…… どうだ。どうだぁー!!
彼女は、僕の手を強く握りしめたまま、静かに眠っている。
まるで、天使のような寝顔で。
なんて…… なんて、幸せな時間なんだろう。
目を閉じて、もう一度開けると、煙のように消えてしまう夢のようだ。
ここにある温もりを確かめるように、僕はそっと彼女の髪に触れた。
その瞬間、僕は確信した。
この人は、間違いなく、僕の運命の人だ……
「ピピピピピー、ピピピピピー」
スマホのアラームが鳴り、彼女が目を覚ました。
「ご、ごめんなさい。寝ちゃってたみたいで」
「う、ううん。今から帰りの準備するの大変だよね。延長できないかな?」
「え? うん。電話してみるね」
お願いだ…… 頼むから、このあとは空いててくれ。
もっと…… もっと彼女の寝顔を見ていたいんだ。
「はい…… はい。わかりました」
電話を切った彼女の表情が、少しだけ悲しそうに見えた。
「ごめんなさい。予約が入ってるみたい」
この瞬間、僕の心は、現実へと引き戻された。
彼女が慌ててシャワーを浴びているあいだ、僕はひとり、俯いたまま動けずにいた。
「あ、あのー、これ……」
ドアまで見送りにきた僕の手には、料金とは別の5万円が握られていた。
「……いいの?」
彼女は、小さな声で尋ねてきた。
「う、うん。もちろん」
僕の手に視線を落としていた彼女は、ゆっくりと僕の瞳を見つめた。
「……ありがとう」
「う、ううん。僕の方こそ、今日はありがとう」
僕の言葉に、彼女は頬をピンク色に染めて、そっと視線を逸らした。
その仕草が、たまらなくかわいかった。
お金を受け取った彼女は、いつもより早足に去っていった。
たぶん今頃は、遅いエレベーターにイライラしているかもしれない。
乗り込んだ音を聞いた僕は、ベランダに走った。
マンションの入り口から、彼女が出てくる。
迎えの車のドアを開けて乗り込む直前、彼女は上を見上げた。
洗濯物に隠れずに見ていた僕に、彼女は微笑んで、優しく手を振ってくれた。
僕もそれに応えるように、小さく手を振った。
彼女が乗り込んだ車が見えなくなるまで、僕はずっと手を振っていた。
あの曲を口ずさみながら。
「Oh yeah, I’ll tell you something」
そして次の日から、僕は彼女が出勤している日は、毎回、家に招くようになった。
僕は、彼女を呼ぶたびに、料金とは別に5万円を渡し続けていた。
それは、彼女の喜ぶ顔が見たかったからだ。決して
事実、初めて彼女とひとつになったあの日、彼女はお金を要求しなかった。渡したのは、僕のほうだった。
そんな日々を続けているうちに、パチンコで勝って貯めていたお金は、すぐに底をついた。
僕からの奢りを待ち望んでいた会社の同僚たちは、いつまでたっても奢ろうとしない僕に、次第に距離を置くようになった。
「くっそ! くそくそっ! また負けた!」
パチンコで負け始めてお金が尽きた僕は、消費者金融に手を出すようになっていた。
そこはまるで、魔法の箱のようにお金が出てきた。
これでまた、彼女と会える。
金が尽きるたび、その魔法の箱へ走った。
僕の借金は、あっという間に三桁になっていた。
もう、僕にお金を貸してくれる店なんてなかった。
仕方なく、闇金に手を出した。
一度だけ…… 十万円だけ……
そのお金で僕は、また彼女とひとつになれた。
やがて返済できなくなり、取り立ては家に、そして会社にまで及ぶようになった。
ある日、家に戻った僕は、闇金業者の男たちにどこかへ連れ出された。
返済を迫られたけれど、僕には払えるお金なんてなかった。
そこで彼らは、僕に仕事を持ちかけてきた。
一度きりの仕事で、借金はすべて帳消し。
おまけに高額の報酬まで出すという。
その話を断るという選択肢は、もう僕の中には残っていなかった。
その仕事は、拍子抜けするほどあっさり終わった。
そして彼らは、約束通り、高額の報酬を支払ってくれた。
これでまた、彼女と会える……
「お、これ焼けてるぞ。食えよ」
「ありがとう。ふー、ふー。うん、美味しい」
店内には、甘い煙が静かに立ちのぼり、落ち着いた音楽と、グラスの氷が触れ合う小さな音が聞こえていた。
「ねぇねぇ」
「うん?」
「昨日のニュース見た?」
「なんの?」
「トクリュウ犯罪の実行犯が捕まったってニュース」
「さぁ……」
彼女はスマホをいじり、男に画面を見せた。
「これこれ、このニュース」
男は、スマホに映った犯人の画像を静かに見つめていた。
「この犯人ね、私の常連客だったの」
「……そうか」
「びっくりしちゃった。前は月に一度だったのに、急にお金回りが良くなって、私が出勤するたびに呼んでくれてたの」
「……ふーん」
「こういうことだったのね。そんなふうには見えなかったんだけどなー」
彼女は唇を尖らせて、グラスの縁を指でなぞりながら、視線を落とした。
「人は……」
男は、ぼそっとつぶやいた。
「え、なに?」
「人は、見かけにはよらないものさ」
「うん、ほんとそうだよね~。今回のことで身に染みたー。気をつけようっと。それで……」
「うん?」
「この人、どれくらいの罪になるのかな?」
「……強盗殺人は、無期か死刑しかない」
「えーー!? ガチで!?」
彼女は、後ろにのけぞった。
「準備しとけよ」
「なんの?」
「お前のところに警察が来るかもしれない」
女性は、きょとんとした表情を浮かべていた。
「どうして?」
「犯行で得た金の使い道の裏を取るんだ、警察は」
「えー、ほんとそれ? もうー、ガチでうざい。店長にLINEしとく」
女性がLINEをしているあいだ、男は自分のスマホで犯人の画像を見つめていた。
決めたのは…… お前自身だ。
そうつぶやいてから、しばらくして、男は静かに画面を閉じた。
審判の日、僕に下された判決は、無期懲役だった。
一人暮らしの老人を殺害し、大金を奪ったこの事件は、世間を大きく騒がせていた。
裁判所の前には、いつも大勢のマスコミが張り付いていた。
テレビカメラが並び、レポーターがマイクを構え、通りすがりの人たちが、野次馬のように立ち止まっている。
マスコミは、僕の元同僚たちにも取材していた。
「あいつはね、人付き合いが悪くてね」
「そうそう。いつかとんでもないことを起こしそうだって、いつも言ってたんですよ」
みんなは、こぞって僕を悪く言ってた。
たぶん、奢らなかったからだ。
裁判中は、怒り、軽蔑、憐れみ。いろんな感情が、傍聴席からこちらへ投げつけられていた。
だけど、そんなことは、どうでもよかった。
僕はただ、ただ彼女を探していた。
だけど、その姿を一度も見ることはなかった。
判決から一カ月後。
刑務所へ移送される車の中で、スモークガラスの向こうを、光と影だけが流れていた。
そのわずかな光を感じながら、僕は無意識に口ずさんでいた。
「I want to hold your hand, I want to hold your hand……」
僕の彼女は…… いすぱる @isuparu
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