贋作/Falsificazione

その子四十路

贋作/Falsificazione

 政界の重鎮、大磯おおいそ 洸史郎こうしろうが急死した。九十歳、大往生の最期だった。

 秋雨が降りしきるなか、元総理の葬儀はしめやかに執り行われた。参列者は途切れることがなかった。


 四十九日の法要を済ませたあと、大磯の子どもたち三人は、父親の邸に集まった。

 全員母親が違う異母きょうだいである。顔を合わせればいがみ合う、犬猿の仲だった。

 父親の死を悼む者は誰もいない。ライバルを蹴落とし、弱者を踏みつけ、のし上がっていくのが、大磯 洸史郎の生きざまだった。子どもたちは、父親の気質を受け継いでいた。

 三人が集まったのは、遺言書の開封の立ち合いのためである。誰しもが一円でも多く、遺産をせしめようと画策していた。


「──父さんに孫、だって?」


 正妻の息子、一郎いちろうが声を上ずらせた。五十歳、三人のなかで最年長。髪を後ろに撫でつけ、眼鏡をかけた男は、いかにも神経質そうな容姿をしている。長年、父親の秘書を務めていた。

 顧問弁護士のたちばなが言うには、大磯は一郎の母親と結婚するまえに愛を誓った相手がいた。女性は二十代の若さで病死したが、息子をひとり生んだ。その息子も早死にするのだが、子どもを遺したというのだ。

 亡き父の隠し子ならぬ、隠し孫の登場である。

(まずい……まずいぞ。おれはバツイチ子なし、他のふたりも似たようなものだ。親父からすれば、初孫。しかも、愛した女の血を引く孫……死に際に血迷った遺言を残していてもおかしくない!)


 一郎の悪い予感は的中した。老いた弁護士の語る内容に、三人は耳を疑った。

 大磯は最愛の女性の子孫に、所蔵のバイオリンコレクションのなかから、“ストラディバリウスを譲る”と遺言書に記していたのである。

 父親にバイオリン蒐集しゅうしゅうの趣味があったことを、三人ははじめて知った。


「──橘センセ、ストラディバリウスって、名器と名高いバイオリンでしょう?」


 愛人の娘、二葉ふたばがハスキーな声で囁いた。ゆうゆうと紫煙を吐き出す。四十八歳、毒々しい美女である。喪服姿の二葉はすこぶる美しかった。匂い立つような義妹の色香に、一郎はこめかみをひくつかせた。

 一郎と二葉は二回、関係を持っている。水商売あがりの二葉にとって、義兄と寝るくらい、大したことではない。すべては、金のため。完璧主義者の義兄の弱みを握るためだった。

 二葉は血を分けた義兄と寝たのではなく、金と寝たのだ。

(──どうせ、地獄に堕ちる身だもの。罪状がひとつやふたつ増えたって、かまわないわ)


「よくご存じで。世界一高額な楽器と呼ばれています。バイオリニストなら、みなが憧れる逸品ですね」

「どうして、父はバイオリンを?」

「大磯先生の恋人だった女性は、プロのバイオリニストでした。先生は彼女からバイオリンの演奏を習っていたとか。最愛の女性を喪った先生は、嘆き哀しみ、胸に空いた穴を埋めるために、バイオリンを集めたのではないでしょうか……」


 知られざる父親の一面に、三人の相続人は言葉を失った。


「そのスト……なんちゃらは、どれくらいの価値がありますか?」


 四十三歳の三男みつおは、ひたすら汗を拭っていた。インテリふうの一郎とも、華やかな美貌の二葉ともまったく似ていない、凡庸な顔立ち。

 頭頂部は禿げ上がり、太りじし。一見笑っているようだが、目の奥が笑っていない。不動産屋を経営しているが、倒産寸前だ。借金で首が回らなくなっている。

(楽器だろうがなんだろうが、なんだっていい!! 金がほしい!!)


「最高額のストラディバリウスは、約22億円と言われています」

「にっ……??!」


 三人の相続人は身を乗り出した。他のバイオリン、不動産などの資産と合わせれば、たいそうな額になるだろう。


「──とはいえ、先生が所蔵されていたストラディバリウスは、贋作です」

「なによ、もうっ!! 期待しちゃったじゃないの!」

「いえいえ、お三人とも。贋作といっても、精巧な造りでしてね。おそらく、最低でも5億円はするそうですよ」

「偽物じゃあないのか?」

「名匠ストラディバリ父子の弟子が作ったバイオリンです。巷にあふれる粗悪なコピー品とはわけが違います」


 三人は押し黙った。所蔵のバイオリンは十数本あるようだが、ストラディバリウスの贋作は1本だけ。三分割するわけにはいかない。ましてや、そのお宝は、ぽっと出の孫に譲られるという……納得できない。

 一郎と二葉と三男は三すくみで睨みあった。

 それぞれの母親はすでに鬼籍に入り、遺産を受け取るのは自分たち三人だけ。他のふたりを蹴落としてしまおう……そう考えていた、孫の存在を聞くまでは。だが……

(こいつらといがみ合っている場合じゃない。どうにかストラディバリウスの贋作を渡さないように、阻止しなければ!!)

 異母きょうだいははじめて、心をひとつにした。遺産をどこぞの馬の骨にやりたくない一心で。


「その……孫というのは間違いなく、父の血を引いているのですか?」

「こちらが、DNA鑑定結果報告書になります」

「………………」


 三人がごねると想定していたのか、弁護士は動じなかった。

 医学的証拠を突きつけられると、なにも言えない。下手に掘り下げて、大磯と自分の父子鑑定でもされたらこまる。

 三人とも、自分は実子だと信じているが、真実は母親しか知らない。

 藪をつついて蛇を出し、血縁関係が立証されなかったら、相続人から外れてしまう。


 弁護士は一枚の写真を見せた。

 大磯と孫は対面を果たし、交流を育んでいたという。車椅子に腰かけた大磯が、中学生くらいの男児に頬ずりしている。

 豪胆な政治家、厳しい父親の顔ではない、優しい祖父の顔をしていた。


「なによ……お父さん。いい笑顔じゃない」


 二葉は声を震わせた。嫌味を言ったつもりだったのに、口調は柔らかかった。

 正妻の子ひとりに、愛人の子ふたり。誰のことも愛さなかったのに、孫は愛したというのか──

 あの傲慢な男は愛を知り、死んだのか。

 腹立たしさ半分、どこかほっとした気持ちが半分。

 一郎も三男も、うっすら苦笑している。


「橘さん。この子に逢わせてもらえないだろうか?」


(5億円のバイオリンが惜しくないと言えばうそになる。しかし、故人が孫に託したいというのなら、仕方がない)

 せめて、孫の人となりを知り、判断したいと一郎は思った。


「じつは、お呼びしています。──ヒカルくん、いらっしゃい」


 緊張した面持ちの少年が、リビングへと足を踏み入れた。

 三人の子どもたちよりもずっと、孫のヒカルは大磯に似ていた。眉は濃く、眼力が強い。生き写しと言っても過言ではない。


「──はじめまして。一郎さん、二葉さん、三男さん」


 異母きょうだいはほう……と、ため息をついた。隠し子だったら感情的になったかもしれないが、甥っ子となると、ふしぎな感慨を覚える。

 ヒカルを見ていると、胸の柔らかいところをくすぐられるような感じがするのだ。既視感に近いような……。


「ああ、ヒカルくん。はじめまして」

「緊張しなくていいのよ」

「ええっと、ジュースでも飲むかい?」


 三人それぞれが、少年を気遣った。ヒカルが白い歯をこぼす。笑顔はあどけなかった。


「ヒカルくんは、バイオリニストを志しておられます。聴いてやってくれませんか?」


 弁護士に促され、三人の相続人はうなずいた。ヒカルがバイオリンを構える。美しいバイオリンだった。あれが、ストラディバリウスの贋作なのだろうか……

 沈黙のなか、澄んだ音色が響き渡った。物悲しく、優美で、心の奥にまで沁み入るような一曲だった。


「これは……」


 音楽に疎い一郎でもわかる。ヒカルの才能は天賦のものだ。この少年の才能の芽を摘み取ってはいけない。

(ああ……だから親父は、高価なバイオリンを彼に与えたかったのか)


 一郎は立ち上がり、万感の拍手を送った。二葉は涙を浮かべ、三男も感極まった表情で、熱心に手を叩いている。

(親父は死んだ……いつまでもきょうだいでいがみ合っているのはみっともない。親父の最期の望みを叶えてやろう。ヒカルにはあのバイオリンが必要だ。今後の生活も保障してやらねば。邸に引き取ってもいい。遺言書に従い、二葉と三男にも、遺産を平等に分け与える。これが、最年長のつとめだ)

 憑き物が落ちたように、一郎は目を細めた。



 ──最高の演奏を終えたヒカルは、満面の笑みを浮かべながら、これまでの歩みを思い返していた。

  として、生を受けた自分の数奇な半生を……

 ヒカルは、大磯の心臓移植のドナーになるために製造されただ。

 試験管のなかで誕生し、二年まえまで培養液に浸かって育てられていた。

 ようやく心臓移植が可能な大きさにまで成長したため、出荷されようとしていた矢先、大磯が急死した。

 最愛の女性の孫だの云々は、弁護士の橘がでっちあげたほら話である。

 大磯が死に、不要となったヒカルの存在を、遺族に押しつけようとしているのだ。


 大磯がヒカルに頬ずりしていたのは、愛情からではない。“寿命を延ばしてくれる道具”として、愛でていただけだ。

 グロテスクな感性を持ったあの男と、自分の遺伝子配列が同じなんて、ヒカルは信じたくない。

(ぼくが、性悪男のコピーだなんて、ぞっとする。でも、極めてあの男に近い存在のぼくは、どこまで上に上り詰めることができるかな?)


 手はじめにヒカルは、大磯の子どもたちを攻略することにした。大磯家を乗っ取り、支配下に置く。手駒は多いに越したことはない。

 夜のしじまに、澄んだ音色が鳴り響く。真心を込めて、大磯への鎮魂歌レクイエムを奏でた。

 大磯 洸史郎はもうこの世にいない。贋作のヒカルが、本物を超える日はそう遠くないだろう。了

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