後悔を売った日
@REDDAY
第1話
私は今日、自分の後悔を手放した。
なじみのバーで、私は相当に苦い顔をしていたのだろう。マスターから珍しく声をかけられた。
「今日は何かご不幸でもありましたか?」
「実は、大きな仕事を逃してさ。プレゼンテーションで失敗をしてしまってコンペティションに負けたんだ。もっと作りこんでいたらと後悔してもしきれないよ。」
「そうですか、、、仕事のチャンスはまたきっとありますよ。でもそんなに顔に出るほど後悔されているなら、一つご提案があります。その後悔売って忘れてしまいませんか?」
私はマスターが何を言っているかしばらく理解できなかった。
「記憶を買ってくれるってこと?」
「少し違います。買うのは後悔です。あなたが強く何度も考え直した記憶。」
半信半疑ながら私は続けて聞いた。
「何か危ない薬でも使うんじゃないだろうね。」
「いえ、小さな機械を頭につけるだけですよ。意識も失いませんし。」
すこしの興味と、不快な後悔これがなくなることに魅力を感じ、一瞬の逡巡の後、グラスを置き、私はマスターに「やってみよう」と伝えた。
マスターは慣れた手つきで淡々と準備をはじめ、小さな機械を頭につけた。
「それでは後悔を購入させていただきます。」マスターが言うと同時に機械が少しの起動音を発した。
「終わりました。ご気分はどうです?」
「・・・うん、特に何も・・・」といい、グラスの酒を少し飲むが味がわからない。
「酒の味がしなくなった気がするんだけど、これ大丈夫?」
「最初使われたお客様はそういう方もいますね。でもしばらくしたら味は元に戻りますよ。」
そういって笑うマスターを見ながら、私はそれを確かめるためにもう一度口につけた。味は確かにした。味覚ではない何かを捨てたような感触に胸の奥に苦く残った。
グラスを空け、いつものように会計を済ませてバーを出た。
夜の空気は少し冷えていたが、それも記憶している通りの感触だった。
「今日もありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
背中越しに聞いたマスターの挨拶も、いつもと変わらない。
振り返る理由は特になく、私はそのまま帰路についた。
翌朝、決まった時間に起き、決まった手順でPCの電源を入れる。
メールソフトを立ち上げ、未読の件数を確認するところまでは、体が勝手に動いた。
だが、画面を見たまま、指が止まった。
どれも見覚えのある件名だった。
昨日までなら、開く順番も、急ぎかどうかも、考える前に分かっていたはずだ。
それなのに、今日は違った。
重要だったはずのメールと、どうでもいい連絡の区別がつかない。
どれも同じ重さで、同じ距離に並んでいるように見える。
しばらく画面を眺めてから、私は一通目を開いた。
内容は理解できた。文字も意味も、問題なく頭に入る。
それでも、次に何をすべきかが浮かばなかった。
返信文を考えようとして、カーソルだけが点滅を続ける。
息を整えようとすると、呼吸が浅いことに気づく。
気がつけば、何も進まないまま時間だけが過ぎていた。
終業時刻になり、私は画面を閉じた。
やるべきことは、まだ残っていたはずだった。
それでも、不思議と焦りはなかった。
代わりに、胸の奥に、説明のつかない重さだけが残っていた。
今日は前回のコンペの残念会ということで、上司が飲みに誘ってくれた。
「お前、今回頑張ってたよ。ちょっと詰めが甘かったところはあったけどさ、先方の好みもある。あんまり気を落とすな。次、頑張ろうぜ」
「はあ……」
「なんだよ。燃え尽きちゃったか? 切り替えていこうぜ。お前ならできる!」
上司は、励ましているのだと思う。
その言葉の一つ一つも、状況としては理解できた。
ただ、胸のどこにも引っかからなかった。
「そうだ。次のコンペなんだけどさ」
上司は箸を置き、少し身を乗り出した。
「お前が昔、途中でやめた企画あったろ。今の技術なら、あれ、できると思うんだよ。あれで進めてみない? どう思う?」
「……ちょっと、すぐには決められないですね」
「いいじゃん。試しでいいからさ。とにかくやってみようぜ」
その企画のことは、覚えていた。
五年以上前、若手だった頃に、夜遅くまで残って資料を作り、技術検証を重ねたこと。
最終的に、当時の部長の一言で中止になったこと。
その日の明け方、例のバーで一人飲んでいたこと。
記憶は、どれもはっきりしている。
それなのに、そこに重さがなかった。
上司は「やり直すチャンス」だと言っているのだろう。
その意味も、理屈としては分かる。
だが、画面に表示された過去の資料を見ても、
それがなぜ重要だったのか、判断できなかった。
数字も、図も、説明文も、すべて理解できる。
ただ、それ以上でも以下でもない。
私は資料のウィンドウを閉じた。
上司の言葉に、すぐには返事をしなかった。
上司の提案から数日、私の足は無意識にあのバーへ向いていた。
「いらっしゃいませ、いつものお席へどうぞ」いつものマスターの挨拶。照明、音楽、酒の匂い。何も変わっていない。
いつもの席に着き、「マスターいつもの」と注文する。
「かしこまりました。」いつもの返事。
「あれからいかがですか?」
「あれからって?」
「後悔はちゃんと消えたでしょう」
「ああ、消えたよ」
「それはお役に立ててよかった」
「ただ、うまく言えないが、困っている。なにをしても身に入らないんだ」
「左様ですか。戻すことも可能ですよ。」
「え」意外な回答に私は驚いた。
「ただしお勧めしません。」
「なぜ?」
マスターは「ご準備いたしますか?」と私の問いには答えなかった。
私はまだ決められていない。ただ、選ばなければならないことだけはわかる。
マスターは何も言わず、カウンターの内側で静かに手を止めていた。
私が答えを出すまで、待つつもりなのだろう。
グラスに注がれた酒は、透明で、澄んでいた。
私はそれを一口飲んだ。
味は、確かにする。
それだけで、十分だった。
「戻さなくていいです」
自分の声が、思ったよりはっきり聞こえた。
マスターはわずかにうなずいただけで、それ以上何も言わなかった。
会計を済ませ、席を立つ。
背中に声はかからなかった。
店を出ると、夜の空気は冷たく、いつも通りだった。
街の明かりも、人の気配も、変わらない。
それでも、私の中には、何かが決定的に欠けたままだ。
後悔はない。
迷いもない。
ただ、選ばなかったものの重さだけが、
どこにも行き場を持たずに残っている。
私は歩き出す。
次に何を選ぶべきかは、まだ分からない。
それでも、選ばずにはいられないことだけは、
はっきりと分かっていた。
<了>
後悔を売った日 @REDDAY
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