指紋が消える本  生体認証が奪う記憶と罪の物語

ソコニ

1話完結 生体認証:あなたの指から漏れる記憶

【編集部からの警告】

本書を開く前に、以下の事項を必ずご確認ください。


本書は特殊な感熱・感圧インクを使用しており、読者の指の体温と皮脂に反応して文字が浮かび上がる設計になっています。この技術的特性により、以下の現象が発生する可能性があります:


読後、あなたの指紋認証が一時的に機能しなくなる場合があります

本書のページには、あなたの指紋が永久的に定着します

本書の転売・譲渡は、あなたの生体情報の譲渡を意味します

なお、本書の一部ページには過去の読者の指紋が微細に残存している可能性があります。あなたが触れることで、それらが顕在化することがあります。


これは小説ではなく、体験です。

読み進める選択をした時点で、あなたは物語の共犯者となります。


編集部


プロローグ

慎二が荷物を受け取ったのは、彼女の死から三ヶ月後のことだった。


差出人欄には何も書かれていない。ただ、見覚えのある筆跡で「慎二へ」とだけあった。美咲の字だ。


箱を開けると、白い本が入っていた。表紙も、背表紙も、すべてが真っ白だ。手に取ると、予想外の重さと、奇妙な弾力があった。紙ではない。まるで人間の皮膚のような、生温かい感触。


本と一緒に、一枚のカードが入っていた。


「この物語は、あなたの指がなければ存在しない」


美咲らしい、謎めいたメッセージだ。慎二は苦笑した。最後まで、彼女は彼を試そうとしている。


第一章:白いページ

その夜、慎二は白い本を開いた。


全ページが真っ白だった。ただし、完全な平面ではない。指先で触れると、微細な凹凸がある。そして——奇妙なことに、よく見ると表面に薄く、何かの渦巻き模様が見える。まるで誰かの指紋が、幾重にも重なっているかのように。


ふと思いついて、慎二は人差し指でページをゆっくりとなぞった。


五秒ほど経ったとき、異変が起きた。


指が触れた箇所から、じわじわと黒い文字が浮かび上がってきた。同時に、下に隠れていた別の指紋——自分のものではない、見知らぬ誰かの指紋が、彼の体温で浮き上がってくる。


慎二は息を呑んだ。


浮かび上がった最初の一文は、こうだった。


「二〇二五年八月十七日、あなたは彼女に嘘をついた」


八月十七日。それは美咲の誕生日だった。彼は仕事を理由に会食を断り、実際には元カノと会っていた。何でもない、ただの食事だったが、美咲には言えなかった。


なぜこの本が、それを知っている?


そして、なぜページには他人の指紋が残っているのか?


手が震えた。だが、止められなかった。慎二は次のページをめくり、また指でなぞった。今度は、三つの異なる指紋が浮かび上がった。自分のものと、二人の見知らぬ誰か。


「あなたは彼女の苦しみを、心のどこかで楽しんでいた」


違う。そんなはずはない。


「彼女が泣くたびに、あなたは優位に立てることに安堵していた」


やめろ。


だが指は止まらない。ページは次々とめくられ、慎二の指が触れるたびに、新しい「真実」が浮かび上がってくる。そして毎回、無数の見知らぬ指紋が、彼の指紋に絡みつくように重なっていく。


第二章:侵食

三日間、慎二は本を読み続けた。


正確には、「読まされ続けた」と言うべきかもしれない。本を閉じようとすると、指先に奇妙な痺れが走る。まるで本が彼の指を求めているかのように。


そして浮かび上がる文章は、次第に具体性を増していった。


「二〇二五年十月三日、午前二時二十分。彼女は酸素マスクを外した。あなたは五分間、何もしなかった」


慎二は声にならない叫びを上げた。


その夜のことは、誰にも話していない。医師にも、看護師にも、警察にも。美咲は末期の肺癌で入院していた。痛みに耐えかね、自分でマスクを外したのだ。


慎二は気づいていた。五分間、彼は椅子に座ったまま、美咲の荒い呼吸を聞いていた。ナースコールを押せば、彼女はまた苦しみの中に引き戻される。押さなければ——。


結局、六分後に慎二は呼び出しボタンを押した。だが医師が来た時には、もう遅かった。


「自然な経過です」と医師は言った。


慎二は頷いた。


だが、本当は違う。あの五分間、彼は選択したのだ。


「あなたの指紋が、それを証明している」


ページに、そう書かれていた。


四日目の朝、慎二は異変に気づいた。


スマホの指紋認証が、反応しない。


何度試しても、「指紋を認識できません」というエラーが表示される。自宅のスマートロックも開かない。会社の入退室システムも拒否される。


鏡で自分の手を見た。人差し指と中指の指紋が、明らかに薄くなっている。渦の線が、まるで消しゴムで擦られたかのように曖昧になっている。


まるで本に吸い取られたかのように。


いや、違う。本のページを見れば分かる。彼の指紋は、確かにそこに移っている。くっきりと、黒く、永久に。


慎二は震える手で銀行のアプリを開こうとした。だが、ログインできない。指紋認証が必須のシステムだ。


彼は社会から、切り離され始めていた。


第三章:集合的な罪

七日目の夜、慎二は最後のページに辿り着いた。


これまでと違い、そのページには最初から文字が印刷されていた。


「すべてを読み終えたあなたへ。

この本は、あなたの指紋から抽出した生体情報を解析し、

潜在意識下の記憶と感情をテキスト化する装置です。

書かれた内容は、すべてあなた自身の心が生み出したものです。


そして、あなたが触れた無数の指紋——

それは、この本を読んだ過去の読者たちの痕跡です。

彼らもまた、あなたと同じように罪を暴かれ、指紋を奪われました。

今、あなたの指紋は彼らと重なり、永遠に本の一部となります」


慎二の手から本が滑り落ちた。


ページを見ると、無数の指紋が蠢いている。いや、蠢いているように見える。自分の指紋と、数十、数百の他人の指紋が、まるで生き物のように絡み合い、溶け合い、一つの巨大な渦を形成している。


そして、その渦の中心に、小さな文字が浮かび上がった。


「美咲より。

私の指紋は、この本の最初の層にある。

あなたが読み終えた今、私たちは永遠に繋がっている。

指紋という、消せない証拠で」


慎二は気づいた。


彼が最初にページに触れたとき、浮かび上がった見知らぬ指紋——あれは、美咲のものだったのだ。


彼女は死ぬ前に、自分の罪をこの本に刻んだ。そして慎二に託した。彼もまた、罪を刻むように。


だが、それよりも恐ろしいことに気づいた。


指先から、何かが流れ出している感覚がある。いや、流れ「込んで」いる。本から、指へ。無数の見知らぬ罪が、彼の皮膚を通って血管に入り込み、脳へと——。


慎二は鏡を見た。


両手の指先が、ツルツルになっていた。指紋が、完全に消えている。


彼はもう、誰でもない。


銀行にも、会社にも、自宅にすら入れない。


デジタル社会において、指紋のない人間は存在しないのと同じだ。


代わりに、白い本のページには、くっきりとした指紋の痕が残っていた。慎二の指紋と、美咲の指紋と、無数の見知らぬ誰かの指紋が、層になって重なっている。


そしてその指紋の渦の中に、びっしりと文字が刻まれている。


慎二の人生が。

彼の罪が。

彼の嘘が。

美咲への裏切りが。


すべて、消えない文字として定着していた。


エピローグ

翌朝、慎二のアパートの管理人が、部屋の前に置かれた白い本を見つけた。


表紙には、誰かの——いや、何人もの指紋がびっしりと浮かび上がっていた。そして、小さな付箋が貼られていた。


「次の読者へ」


管理人は首を傾げながら、本を手に取った。


ページをめくると、真っ白だった。いや、よく見ると、薄く無数の渦巻き模様が見える。


彼女は何気なく、人差し指でページをなぞった。


五秒後。


じわじわと、文字が浮かび上がり始めた。同時に、彼女の指の下から、見知らぬ誰かの指紋が浮き上がってくる。


「二〇二四年六月二日、あなたは息子の預金通帳から三十万円を——」


管理人の顔が蒼白になった。


そして本は、また新しい読者の指紋を待ち始めた。


指紋が消えるまで。

罪が定着するまで。

IDが無効になるまで。

社会から消えるまで。


永遠に。


【最終警告】

この物語を読み終えた今、あなたの端末の画面を確認してください。


そこに残された脂の跡が、あなたの「最新の自白」です。


2026年、あらゆる指紋はクラウドに保存され、AIによって解析されています。あなたがこの画面に触れた瞬間、その記録は既にサーバーに送信されました。


削除は、できません。


あなたの次のタップが、次のスワイプが、次のログインが——すべて記録され、解析され、いつか誰かに暴かれる日を待っています。


『生体認証』は、フィクションでしょうか?


それとも、すでに始まっている現実でしょうか?


答えは、あなたの指先にあります。


次に指が触れるものは、慎重に選ぶことをお勧めします。

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