セレスティア・ホライズン・オンライン 〜僕とあいつの仮想冒険記(バーチャル・クロニクル)〜

chisyaruma

序章:境界線を超える夜

深夜十一時五十八分。 世界中のゲーマーたちが息を潜め、その瞬間を待っていた。


部屋のカーテンは閉め切られ、わずかな隙間から漏れる街灯の明かりだけが、散らかった机の上を照らしている。コンビニで買ったエナジードリンクの空き缶、読みかけのゲーム雑誌、そして――机の中央に鎮座する、真新しい流線型のヘッドギア。


僕、春日井 湊(かすがい みなと)は、震える指先でスマートフォンの画面をタップした。メッセージアプリには、親友である良太(りょうた)からのメッセージが着信し続けている。


『あと2分! マジで吐きそう』 『準備はいいか? 俺はもうヘッドギア被った』 『初期スポーン地点は「王都」な。絶対迷うなよ』


その文面を見るだけで、良太の紅潮した顔が目に浮かぶようだ。 僕は苦笑しながら、『了解。向こうで会おう』と短く返信し、スマートフォンをベッドに放り投げた。


今日、二〇三X年十二月二十五日。 世界は一つの歴史的な転換点を迎えようとしていた。


従来のVRゲームを遥かに凌駕する演算能力と、完全なる五感の実装。開発期間十年、総製作費は国家予算並みとも噂される次世代VRMMO、『セレスティア・ホライズン・オンライン(CHO)』の正式サービス開始日である。


「……よし」


短く息を吐き、僕は愛用のゲーミングチェアに深く身体を沈めた。 机の上のヘッドギア――最新鋭フルダイブ専用デバイス『ニューロ・リンク・ギア』を手に取る。ひんやりとした金属の感触が、高鳴る鼓動を少しだけ落ち着かせてくれた。


このゲームの売りは、単なるリアルさではない。「第二の現実」と称されるほどの自由度だ。 剣を振れば腕に重みが伝わり、魔法を放てば熱を感じる。食事をすれば味がし、風が吹けば草の匂いが鼻をくすぐる。 現実世界で冴えない毎日を送る僕らにとって、それは夢にまで見た桃源郷(ユートピア)へのパスポートだった。


ヘッドギアを頭に装着する。 視界が暗闇に覆われ、耳元で微かな駆動音が鳴り響いた。 こめかみ付近にあるセンサーが、僕の脳波と同期を開始する。


『生体認証、完了しました。アカウント名:ミナト。リンクを開始しますか?』


無機質だがどこか優しさを感じるAIの音声が脳内に直接響く。 僕は目を閉じ、暗闇の中で強く念じた。


「フルダイブ、スタート」


その瞬間、身体が浮遊するような感覚に襲われた。 重力という鎖から解き放たれ、意識が肉体という殻を抜け出していく。 極彩色の光のトンネルを猛スピードで駆け抜けるような、強烈な疾走感。 現実世界の部屋の匂いも、椅子の感触も、遠くで聞こえていた車の走行音も、すべてが彼方へと消え去っていく。


『――Welcome to Celestial Horizon.』


光が弾けた。


***


「……っ、うぶっ!?」


次に意識が戻ったとき、僕は強烈な光に目を細めていた。 そして最初に感じたのは、顔全体を撫でる柔らかな風と、鼻腔をくすぐる土と緑の匂いだった。


「ここ……は……」


恐る恐る目を開ける。 そこには、息を飲むような光景が広がっていた。


見渡す限りの青い空。現実世界では見たこともないほど透き通ったセルリアンブルーだ。 遠くには雲を突き抜けるほどの巨大な白い塔がそびえ立ち、周囲には中世ヨーロッパを思わせる石造りの街並みが広がっている。 賑やかな喧騒。市場の呼び込みの声、馬車の車輪が石畳を叩く音、そして、どこか遠くで響く鐘の音。


広場の中央にある噴水の縁に、僕は座り込んでいたらしい。 自分の手を見る。革のグローブをはめた手。握りしめると、革が擦れる「ギュッ」という確かな感触がある。 立ち上がり、石畳をブーツで踏みしめる。コツン、という硬質な音が足の裏から脳へと伝わる。


「すごい……本当に、現実みたいだ」


解像度なんて言葉では表現できない。空気の密度そのものが違う。 僕は興奮のあまり、その場で軽くジャンプしてみた。現実の体よりも少しだけ軽く、そして力強く動くアバターの肉体。これなら、何時間走り回っても息切れしなさそうだ。


「おーい! ミナトーーッ!」


不意に、聞き覚えのある声が雑踏を切り裂いた。 声のした方を振り向くと、巨大な両手剣(グレートソード)を背負った、赤髪の剣士が手を振りながら走ってくるのが見えた。 現実世界の友人と顔立ちは似ているが、身長は高く、目つきはより精悍にカスタマイズされている。


「リョウタか?」 「おうよ! へへっ、どうだこのアバター! イケてるだろ?」


目の前で止まったリョウタは、自慢げに鎧の胸板を叩いた。金属の硬い音が鳴る。 その表情は、子供のような無邪気な笑顔で輝いていた。


「ああ、似合ってるよ。お前らしい」 「だろ? ミナトは……おっ、魔法使い(メイジ)か? 初期装備のローブだけど、なんか雰囲気あるな」


リョウタが僕の肩をバシバシと叩く。痛覚設定はオフにしているはずだが、衝撃はしっかりと感じる。この距離感、このノリ。姿形は変わっても、確かにここにいるのは親友の良太だ。


「さあ、感動してる暇はないぜミナト。チュートリアルなんて吹っ飛ばして、さっそく狩りに行こうぜ!」 「おいおい、操作方法もまだろくに確認してないんだぞ?」 「体で覚えるのが一番だって! この世界は、俺たちの新しい遊び場なんだからさ!」


リョウタが僕の手を掴み、強引に引っ張り上げる。 その手の温かさに、僕は自然と笑みがこぼれた。


現実世界では明日も学校があるし、テスト勉強もしなきゃいけない。 でも、今この瞬間だけは。 この果てしなく広がる空の下では、僕たちは何にでもなれる。


「……そうだな。行こうか」


僕はローブの裾を払い、広場の出口へと続く大通りを見据えた。 視界の端に表示された『Status』のウィンドウが、冒険の始まりを告げるように淡く点滅している。


剣と魔法、未知なる怪物、そしてまだ見ぬ絶景。 僕とあいつの、長い長い冒険が、今ここから始まろうとしていた。

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