第2話 消えた記憶と自分への自信

由紀子は、もう一度、手紙に目を落とした。

理性を取り戻そうとするように、行間を追う。


事実関係。

日時。

場所。

当時の学年、クラス。


どれも淡々としている。

感情の入り込む余地など、ないはずだった。


――それなのに。


最後から二段落目。

不意に、視線が止まる。


「先生、どうして助けてくれなかったの?」


由紀子の呼吸が、止まった。


その言葉は、責める調子でも、怒りでもなかった。

淡々と記されているだけなのに、

それはまるで、耳元で囁かれたかのように生々しかった。


「……っ」


椅子が、きしりと音を立てる。

思わず立ち上がりかけて、由紀子は周囲を見回した。


誰も、こちらを見ていない。

職員室は、いつも通りだった。


けれど、由紀子の中では、時間が逆流していた。


——放課後の廊下。

——人気のない理科室前。

——俯いたまま、小さな声で。


「先生……どうして、助けてくれなかったんですか」


思い出した瞬間、胸の奥が強く締め付けられる。


あの子だ。


川嶋桃乃。


あれは、確か。

クラスのことで、少し言い合いになった後だった。

泣きそうな顔をしていたのを、煩わしいと思った。


教師として、甘いことは言えない。

そう自分に言い聞かせて、突き放した。


「あなたにも問題があるのよ」

「被害者ぶるのはやめなさい」


そして、最後に。


——「助けてほしいなら、まず自分を変えなさい」


あの子は、その場で何も言わなかった。

ただ、深く頭を下げて、立ち去った。


だから、由紀子は安心したのだ。

問題は、解決したと。


「……違う」


由紀子は、封筒を強く握りしめた。

指が白くなる。


違う、はずだ。

教師として、正しいことを言っただけ。


助ける?

何を?


クラスを守ることが、最優先だった。

一人の生徒の感情より、全体の秩序。


それが、教育だ。


そう、思ってきた。


だが、今になって、その言葉が、

二十年の時を越えて、こうして戻ってきている。


「……思い出さなければよかった」


初めて、そんな感情が浮かぶ。


忘れていたのではない。

見ないようにしていただけだ。


助けを求める声を、

教師として、意図的に聞かなかった。


その事実が、

紙の上の一文となって、由紀子の前に突きつけられている。


喉が渇く。

胸が、ざわつく。


これは、ただの通知ではない。


問いだ。


答えを用意してこなかった問い。


由紀子は、初めて理解する。


——これは、逃げられない。


自己正当化は、まだ頭の中にある。

けれど、その土台に、はっきりと亀裂が入った。


二十年前、助けなかった少女は、

もう、黙って俯く存在ではない。


由紀子の中で、過去が音を立てて動き出す。



由紀子は、若い頃から「努力型」の人間だった。


特別な才能はない。

家柄も普通。

ただ、要領が良く、空気を読むのが得意だった。


だからこそ、教師になった。

努力が評価され、ルールがあり、序列が明確な世界。

そこでは、正しさは武器になる。


生徒たちを「導く」こと。

乱れた空気を正すこと。

クラスを、円滑に回すこと。


それが、教師の仕事だと信じていた。


川嶋桃乃は、扱いづらい生徒だった。

自己主張がなく、反抗もしない。

ただ、どこか空気を濁らせる存在。


クラスの調和を乱す――

由紀子は、そう判断した。


だから、少し厳しくした。

だから、失敗を指摘した。

だから、クラスの前で言葉を選ばなかった。


すべては、教育だった。


そう思っていた。

思わなければ、やっていけなかった。


「私は、悪くない」


由紀子は、何度も心の中で繰り返す。


いじめ?

そんな大げさな。


教師が生徒を指導しただけ。

弱い子が、勝手に傷ついただけ。


そう――

傷ついた側が、弱かった。


それが、彼女の中での「常識」だった。


だが今、その常識が、ゆっくりと崩れ始めている。


紙の最後に、冷たい一文があった。


「法廷で、あなたの『教育』について、伺います」


由紀子は、封筒を机に置いた。

手が震え、紙がかすかに音を立てる。


職員室の空気は、変わらない。

誰も、まだ気づいていない。


だが、由紀子の中では、すでに何かが終わっていた。


彼女は初めて、自分の過去を「見られる側」になった。


生徒を見下ろし、評価する立場から。

正しさを語る側から。


問いを突きつけられる側へ。


――どうして、助けなかったのか。


その問いは、由紀子の中では、まだ言葉にならない。

だが確実に、彼女の足元を、静かに侵食し始めていた。


正しさは、いつも安全な場所にあるとは限らない。


二十年前、見なかったことにした少女の声が、

今、彼女の世界を揺らしている。


崩壊は、まだ始まったばかりだった。


夜だった。


由紀子は、自宅のリビングで一人、明かりを落としたまま座っていた。

カーテンの隙間から、街灯の光が床に細く伸びている。


テーブルの上には、職員室で受け取った封筒。

現役教員として、まだその学校に籍を置いたままの自分宛に届いたものだ。


逃げ場はない。

そう理解していても、現実感は、まだ追いついていなかった。


携帯電話が震えた。


表示された名前に、胸が詰まる。


——娘。


由紀子は、少し間を置いてから通話ボタンを押した。


「……もしもし」


『ねえ、お母さん』


声は低く、感情を抑えた調子だった。

それが、かえって不穏だった。


『学校で噂になってるの。

 現役の教師が、生徒から訴えられるって』


由紀子は、何も言えない。


『しかも、名前が出てる。

 隠しきれてない』


心臓が、強く脈打つ。


『……それ、お母さんでしょ』


否定できなかった。


沈黙が、電話越しに重く落ちる。


『なんで、そんなことになるの?

 訴えられるって、どういうこと?』


娘の声が、少しずつ鋭くなる。


『私も教員だからわかる。

 “現役”ってだけで、どれだけ立場が危うくなるか』


由紀子は、ソファの背に身を預けた。

天井を見上げる。


「……指導の、行き違いよ」


自分でも、頼りない言葉だと思った。


『行き違い?』


短く、切り返される。


『生徒が、法的手段を取るほど追い詰められたってことよ?

 それを、行き違いで済ませるの?』


由紀子は、唇を噛んだ。


「……そんなつもりは、なかった」


『つもりの話じゃない』


娘の声が、初めてはっきりと怒りを帯びる。


『教師は、“守る側”でしょう?

 それなのに訴えられるって、何をしたの』


由紀子の胸に、あの一文が蘇る。


——先生、どうして助けてくれなかったの?


言葉が、喉の奥で凍りつく。


『……お母さん』


娘は、少し声を落とした。


『今、現場はね、すごく神経質なの。

 教師が疑われるってだけで、生徒も保護者も距離を取る』


由紀子は、目を閉じた。


『私は……正直、味方だって言い切れない』


その一言が、静かに突き刺さる。


『同じ教師だからこそ、

 “何があったのか”を聞かないと、庇えない』


由紀子は、何も答えられなかった。


『ごめん。

 今は、それだけ』


通話は、唐突に切れた。


携帯を手にしたまま、由紀子は動かなかった。


現役教師。

肩書きは、まだ剥がれていない。


けれど、その肩書きは、

もはや盾ではなく、重たい鎖になっていた。


味方がいない。


その感覚が、じわじわと身体に染みていく。


これまで、由紀子は守られる側だった。

組織に属し、評価され、

「教師」という立場に立っていれば、正しさは自動的に与えられると信じていた。


だが今、誰も前に立ってくれない。

誰も声を上げてくれない。


——味方がいないということは、

こんなにも、息ができないものなのか。


その苦しさは、

かつて自分が見ないふりをした生徒の孤独と、

残酷なほど、よく似ていた。


由紀子は、暗いリビングで、

封筒と携帯を交互に見つめながら、

初めて、自分が完全に一人であることを悟った。


翌朝。


由紀子は、いつもより早く家を出た。

眠れたかどうか、思い出せない。

鏡に映った自分の顔は、どこか他人のようだった。


校門をくぐった瞬間、空気が違うとわかった。


挨拶の声が、途切れる。

視線が、一瞬だけこちらに向き、すぐ逸らされる。

誰も何も言わない。

それが、何より雄弁だった。


職員室に入ると、教頭がすぐに立ち上がった。


「山口先生。

 校長室に来てください」


声は、いつもより低く、短かった。


校長室には、すでに数人が集まっていた。

校長、教頭、事務長。

そして——見慣れないスーツ姿の男女。


名刺を差し出される。


「教育委員会です」


由紀子の指先が、わずかに震えた。


机の上には、書類の束。

昨夜まで、自分の中だけの問題だったものが、

すでに“案件”として整理されている。


「本件についてですが」


淡々とした説明が始まる。


過去の生徒からの申立て。

調査の開始。

当時の指導内容の確認。

関係者への聞き取り。


一つ一つは、事務的な言葉だった。

だが、そのどれもが、由紀子の立場を確実に削っていく。


「教育委員会としては、

 事実関係が明らかになるまで、

 山口先生には——」


言葉の続きを、由紀子は聞かなくても理解した。


授業から外れる。

生徒と距離を取る。

“配慮”という名の隔離。


「……現役の、教師です」


思わず、そう口にしていた。


教育委員会の職員は、一瞬だけ視線を落とし、

すぐに書類へ戻した。


「だからこそ、です」


その一言が、すべてだった。


廊下に出ると、

ちょうど一時間目のチャイムが鳴った。


教室へ向かう生徒たちの足音が、遠ざかっていく。

かつては、自分もその流れの中心にいた。


今は、ただ立ち尽くすだけだ。


職員室に戻ると、机の上が片付けられていた。

教科書。

ノート。

赤ペン。


必要最低限だけが、箱に入れられている。


誰かが、気を遣ってやったことだとわかる。

だが、その配慮が、由紀子には冷たく感じられた。


昼休み、

校内放送が流れる。


「本日、一部教職員に関する対応について——」


名前は出ない。

それでも、十分だった。


噂は、すでに廊下を走っている。

生徒の間にも、保護者の間にも。


由紀子は、自分の机に座りながら、

初めて理解する。


これはもう、

一人の教師の問題ではない。


学校。

教育委員会。

そして、社会。


歯車は、すでに回り始めている。


——止められない。


そう思った瞬間、

胸の奥に、かすかな既視感が走った。


逃げ場のない状況。

説明の機会も与えられず、

ただ判断される側になる恐怖。


二十年前。


あの少女が、

同じように、教室で感じていたもの。


由紀子は、机の下で、そっと手を握りしめた。


大事になっている。


想像していたよりも、

ずっと、ずっと大きく。


そして初めて、

「教師」という立場が、

自分を守るものではなく、

裁くための看板になり得るのだと、思い知らされた。

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どうして助けてくれなかったの? 涼風琉生 @Rui_Suzukaze

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