湖岸町奇譚

在原一二三

夜の道

 まだ肌寒さの残る、春の暮れ時だった。

 ミサキは人気のない校舎の中を歩いていた。

 既に陽は落ちて、辺りは暗くなっている。空には気の早い星がちらちら燃えて、遠くの山の輪郭が夜空に溶け出していた。

 校舎の中も、当然明かりは落ちている。教室はとっくに施錠されて、ぴったりと扉を閉ざしていた。無口な教室が並ぶ廊下は、外灯の光が差し込んで青白かった。

 ミサキは時間を確認する。十八時半になるところだった。

 少し考えて、最終のバスに間に合わないことに気がついた。

 湖岸町は、山間の小さな町だ。例に漏れず過疎化が緩やかに進み、それに伴い様々な部分で規模が縮小している。バスはその代表で、年々本数が減り、最終便の時間も早まっている。

 この春のダイヤ改正で、十九時台のバスは廃止され、最終便は十八時半になっていた。

 ミサキはそのことを忘れていた。

 さっきまで、バスで帰ればいいや、と呑気に思っていたのだが、そんなことを言っている場合ではなかった。

 ──覚えていれば、こんなに遅くまで居残らなかったのに。

 じんわりと後悔が胸に広がる。

 部活が終わった後、更衣室で忘れ物に気付いたのが、そもそもの始まりだった。課題のプリントを引き出しに入れて、そのまま忘れてきたことに気付いたのだ。

 気付いてしまったのだ。

 ああ、忘れてきたな、と。

 今思えば、そんなものは放っておいても良かったのだ。必要になるのは明日の五限だったし、内容も休み時間にちょっとやれば終わる程度のものだった。紛失ではなく、所在もはっきりしているのだから、焦るようなことでもない。

 だから、明日やればよかったのだ。

 ほっといて帰ってよかったのだ。

 だというのに、どういうわけかミサキはその時、教室に取りに戻ることを選んでしまった。

 ──教室って、この時間には鍵掛かってるんだ。

 全く知らなかった。

 教室の鍵なんて、存在すら忘れていた。

 部室棟から教室まで、わざわざやってきたミサキを迎えたのは、しっかりと施錠された教室のドアだった。

 完全な無駄足だったわけである。

 はあ、とため息が出る。

 ぱたぱたと足音を響かせながら、ミサキは階段を下りた。

 そんなつもりはなくとも、自然と早足になる。

 人の気配がない校舎はどこか不気味で、長居をしたくない雰囲気があった。

 昼間、生徒が賑やかに行き交う様を知っているからだろうか。

 しん、とした校舎内は暗く虚ろで、心細かった。

「!」

 一瞬。

 窓の外でなにかが動いた気がした。

 はっとしてそちらを見るが、なにもない。

 窓の外の景色は、死んだように静まりかえっている。

 誰もいない。──なにも、いない。

 ミサキはバッグを背負い直すと、小走りに昇降口を目指した。

 自分の足音が、ぎょっとするほどに大きく反響した。

 人がいないだけで、どうしてこんなに静かなのだろう。

 夜になっただけで、どうしてこんなにも怖いのだろう。

 ぐっとつばを飲み込む。

 張り付くような不快感が、喉を塞いだ。

 駆け下りた中央階段の踊り場で、上靴と床が擦れて悲鳴のような音を立てた。

 甲高い音に、思わず身を竦める。

 左右の三つ編みにまとめた長い髪が、尾のように跳ねた。

 たっ、と外に出た瞬間、一瞬、影が差したような気がした。

 見上げてみても、なにもない。

 墓標のような校舎があるだけだ。

「──……」

 予感、だろうか。

 なにか、嫌な。

 嫌な気がした。

 逃げるように、帰路につく。

 白々とした外灯が照らす道を走り抜ける。

 ぱたぱたと、おさげ髪を跳ねさせながら学校前の坂を下る。

 湖岸中学は、高台に建つ学校だ。

 明るいときであれば、この坂道から町を一望できる。

 周囲を囲む山々。

 山間に広がる田畑と住宅地。

 そして、町の中央に座す丸い望月湖。

 それらは今は、どれも闇に沈んでいる。

 山は夜空と混じり合い、地には家々の明かりが星のように灯っている。

 そして望月湖は、ぼっかりと空いた黒い穴のようだった。

 その姿は、さながらブラックホールのよう。

 馴染みのある景色も、今はただ、不安を煽るだけだった。 ぽつ、ぼつ、と。

 白い街灯が道を照らしている。

 LEDの光は強烈だが、それでもこの町の夜を駆逐することはできていない。

 ──湖岸町の夜は、怖い。

 ミサキは時々、そう感じる。

 例えば、友達と居佐戸市に行ったとき。

 あるいは家族で、遠方に出かけたとき。

 今日のように、帰りが遅くなったとき。

 そんなときに、よく思う。

 湖岸町の夜は、暗く、深く、怖い。

 他の街の夜とは、明らかに違う闇がある。

 べったりと、幾重にも塗り込んだような闇。

 底なしの井戸のような、果てのない暗さ。

 暗闇の中を蠢く、なにかの息づかい。

 影の中に潜む、密やかな気配。

 それが、怖い。

 ミサキが小さい頃と比べると、街灯はずいぶん明るくなった。

 けれどそれが、むしろ夜の闇を深くさせた気がする。

 強い光が照らすことで、暗さが一層強調され、影が濃くなったように思える。

 曖昧だった輪郭が明確になって、より一層、暗さが深くなったように思える。

 あんなにも明るい光が照らしているのに、道はなお暗い。

 あれほど強い光にも関わらず、道の暗さに呑まれている。

 それが、怖い。

 光すら呑む夜の闇が。

 夜の闇に潜む気配が。

「………………………………」

 じっ、と。

 すぐそこに。横に。背後に。

 暗闇に。

 気配が。

 視線が。

 じっ、と。

 じいっ、と。

 見ている。

 探っている。

 こちらを、じっ、と。

「────っ」

 ローファーが立てる足音が、暗い道に響く。

 近所迷惑だとか、そういうことを考える余裕はなかった。

 いや、そもそも──

 人の気配が、ない。

 なさすぎる、と言っていい。

 あまりにも静かすぎる。

 まだ寝静まるには早い時間。

 むしろ、賑やかな団欒の時間だろう。

 なのにどうして、こんなに静かなのだろう。

 どうしてこんなに暗いのだろう。

 明るい窓が一つもないのだろう。

 話し声の一つもしないのだろう。

 こそりとも音がしないのだろう。

 目眩がするくらいに。

 耳が痛いくらいに。

 息を呑むほどに。

 静かで。

 暗くて。

「────?」

 ごおん、と。

 低い音がした。

 重い音がした。

 ミサキは思わず、足を止めた。

 ちょうど、十字路の真ん中だった。

 四方に延びた道には、誰もいない。

 ミサキの乱れた呼吸音以外、音はない。

 はっ、はっ、と息をする音だけがする。

 周囲は静かだ。

 そして、暗い。

 白々と、皓々と。

 明るく照らされた、暗い道が伸びている。

 ごおん、と。

 また、音が。

 上から降ってくる。

 はっと、顔を上げた。

 青く暗い、夜の色。

 そこに、影が

 黒く。

 深く。

 暗い。

 なにかが。

 ぬるり、と。

 横切った。

「────────」

 それが。

 身をくねらせて。

 そして。

 夜のような。

 影のような。

 大きな、穴が。

 ぐうっと広がって。

 こちらに向かって。

 あれは。

 あれは、まるで。

 魚の口のような──。

「────ミサキちゃん」

「ひ……っ!」

 突然の呼びかけ。

 喉が、壊れた笛のような音を立てた。

 足を縺れさせながら、声のした方を振り返る。

「あ……さくら、さん」

「うん」

 ──アサクラさんが立っていた。

「こんな時間まで、部活?」

「あ──はい」

「そう。大変だね」

 少しも大変そう出ない口ぶりで、淡々と言う。

 アサクラさんは、ミサキにとっては一応お隣さんだ。

 なぜ一応なのかというと、お隣といってもかなり距離があるからだ。具体的には、アサクラさん家は山の上の方にあり、ミサキの家は山の麓にある。そういう位置関係なので、一般的なお隣さんという感じはない。

 おそらくは二十代半ばの、物静かな男性だ。

 これといって特徴はない。服装も体格も普通で、印象に残らない。端正といっていい顔立ちではあるけれど、個性には欠ける。そういう人なので、全体的に印象が曖昧というか、漠然としている人だ。

 唯一、印象に残るのは目だろうか。

 ぼんやりとした、夢を見ているような目。

 焦点が曖昧で、どことなく不安になる目。

 ぼんやりとした全体像の中で、僅かに印象を残すパーツだが、それすらも曖昧模糊としている。

 アサクラさんは、ゆらりとこちらに歩いてきた。

 足音がしない。

 いつものことだ。

 この人は、あまり物音を立てない。

 それがまた、現実味の乏しさに拍車をかけている。

 立ち尽くすミサキの隣に来ると、アサクラさんはそのぼんやりした目で、ミサキを見下ろした。

「それで──なにしてるの」

「なに、って……」

 上を見る。

 筆で掃いたような青灰色の雲と、ちらちらと燃える星。

 なんの変哲もない、夜の空。

 そこには、なにもない。──なにもいない。

 視線を降ろすと、アサクラさんは手にしていた紙袋のを開けて中を覗いていた。

「食べる?」

「え?」

「おまんじゅう」

「わあ」

 紙袋から出てきたのは、白い紙の包みだった。

 ぽん、と手のひらの上に包みが乗せられる

 まだほんのり温かい。

 驚いた。

 この辺りに、蒸かし立ての饅頭を扱っているような店なんてあっただろうか。

 包みを留めているシールは紺色で、白抜きで日暮庵と書かれていた。聞いたことのない店名だ。新しく出来た店だろうか。

「いいんですか」

「うん」

 シールを剥がして、包みを解く。

 淡い桜色の、ほんわりとした饅頭が姿を現した。

 桜の花の塩漬けがちょんと乗っていて、愛らしい。

「つかれてるときはね、なにか食べた方がいいよ」

「疲れてますか、私」

「うん」

 アサクラさんは小さく頷くと、自分の分の饅頭にかじりついた。ふかふかと饅頭をかじりながら、歩き出す。

 慌てて追いかけて、隣に並んだときだった。

 ごおん、と。

 遠くで低い音がした──気がした。

「今の──」

 聞こえましたか、と聞くと、うん、と返事があった。

「あまり、気にしないように」

「どうしてですか?」

「気にすると、寄ってくる」

「……なにがですか?」

 アサクラさんは少し首を傾けて、

「怪異、としか」

 と言った。

 ああそうだ、と思い出す。

 この人は、そういうものに詳しいのだ。

 いつもはとても普通で、そんな風には見えないけれど。

 この人は本来、そういうものを専門にしている人なのだ。

 界守、という。

 この町に古くから存在する、怪異の専門家。

 この町に現れる怪異を退ける、守人の一人。

 アサクラさんは、当代の界守だ。

「怪異なんですか、あれ」

「そのものではないけど、そう」

「どういうことですか?」

「うん」

 アサクラさんは少し考え込んだ。

「追い立ててるんじゃないかな」

「え?」

「音で」

「なにをですか?」

「さっき、見なかった?」

 ああ、と納得する。

 黒く。

 深く。

 暗い。

 夜色の空で。

 身をくねらせた。

 あれは、そう、魚の──。

「つかれているとね」

 アサクラさんは、饅頭の最後の一かけを口に放り込んだ。

「ああいうところに迷い込みやすい」

「ああいう……」

「あわいの場所。こちらとあちらの、合間の場所」

「あちらっていうのは……」

「境界の向こう側。異界とか、常世とか、隠世とか、呼び方は色々あるけれど」

「異界……ですか」

 そう、と答えて、アサクラさんは時間を確認した。

「時間も悪いね。この時間は薄暗くて、色々なものが曖昧になるから」

 ああ、そうだった。

 遅ればせながら、思い出す。

 こういう時間は、危ないのだ。

 黄昏時とは、誰彼時。

 そこにいるのは何者ぞ、と問う時刻。

 闇に紛れて、何者かが入りこむ時刻。

 逢魔が時とも呼ばれる、魑魅魍魎の沸く時刻。

「こういう時間には、出歩かないのが吉だよ」

 その言葉に被さるように。

 ごおん、と。

 また、あの音が。

「あ──」

「とはいえ、困るな」

「え?」

「あれはあれで、困る」

「悪いものなんですか」

 アサクラさんは首を傾けた。

「ミサキちゃんはさ」

「はい」

「熊って、悪いものだと思う?」

「熊って、熊ですか。動物の」

「山から下りてくるよね、時々」

「そうですね。うちのお爺ちゃん、よく呼び出されてますよ」

 ミサキの祖父は、もうだいぶ高齢だが、まだ現役の猟友会員だ。人手不足なので、引退しようにも出来ないでいる。

「うーん、熊は、危ないですよね。大きいし。力強いし。爪とかすごいし」

「そうだね」

「そういうのが、町中に出てきて、畑荒らされたりするのは困りますよねえ。恐いし。というか襲われた死んじゃいますし」

「うん」

「でも、悪いっていうのはちょっと違う気ような……うーん、熊って、悪気ないじゃないですか」

 熊は別に、人を襲ってやろうという考えをもっているわけではない。

 たいていの場合、彼らは食べ物を求めて里に下りてくる。その結果、人を襲う。それは人と出くわしたことに驚いての事故の場合もあるし、人を餌と認識しての場合もある。

「でもそれだって、悪意とかじゃないですよね。単に、こう、ごはんの一種というか……」

「そうだね」

「なんていうか、やっぱり危ない生き物なんで、困るし、恐いんですけど……でも、悪いものっていうのはちょっと違う気がします」

「うん」

 アサクラさんは饅頭を食べ終えて、包み紙を畳んでいた。

 よく見ると、ただ畳んでいるのではない。

 紙飛行機を作っていた。

 その紙は折り紙には向かないと思ったが、指摘するより前にアサクラさんが口を開いた。

「あれも、同じようなもの」

「同じ」

「悪くはないけど、危ないし、困る」

 そう言って、アサクラさんは足を止めた。

 つられて足を止めたミサキを、ちらと見やる。

「ミサキちゃん」

「はい」

「振り返らないように」

「えっ? はい……」

「まっすぐ、前を見て」

「はい」

 ミサキが頷き、前を向くのを確かめて、アサクラさんは背後を振り返った。

 なにか、あるのだろうか。

 今、自分の背後に。

 近くの街灯を眺めながら、考える。

 相変わらず、暗い。

 どころか、暗さが増しているような気がする。

 一層、暗く、黒く。

 塗り込めたような。

 夜の、闇が。

「────」

 ごおん、と。

 また、音がする。

 さっきより、さらに近い。

 そんな気がした。

「しっ」

 獣を追い払うような声。

 傍らで、人が動く気配。

 そして、ふっ、と。

 花のような。

 森のような。

 蒼く、それでいて瑞々しい香りがした。

 その香りが鼻をくすぐったとたん、なぜだか、視界がさっと開けたような気がした。

 まるで、薄い膜が一枚取り除かれたように。

 薄雲が退き、月明かりが差し込んだように。

 視界が少し、明るくなった──ような気がした。

「もういいよ」

 アサクラさんが言う。

 そちらを見ると、アサクラさんはぱたぱたと手についたゴミを払うような仕草をしていた。

 紙飛行機は、見当たらない。

「なにしたんですか?」

「ちょっと気を逸らしただけ」

 アサクラさんは両手を上着のポケットに突っ込むと、さっさと歩き出した。

「帰ろう。あまり遅くなると、親御さんが心配するよ」

「あ、はい」

 慌てて、その背中を追いかける。

 ──ごおん……。

 遠くで、微かに音がした──ような、気がした。

 振り返りかけて、動きを止める。

 ──振り返らないように。

 先ほどの言葉が、頭をよぎる。

 もういいよ、と言われた。言われたけれど。

「……っ」

 振り切るように前を見て、足早にアサクラさんを追いかける。

 気のせいだ、きっと。

 そう言い聞かせて、脚を動かした。

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湖岸町奇譚 在原一二三 @ariwara123

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