第4話 記憶の余白
その日も研究所は静かだった。
空調の唸りだけが、無機質な蛍光灯の下に響いている。
昼休み、九条はいつものように自席で弁当のふたを開けていた。
いつもと変わらぬ白米の匂い。味気ないが、口に運ぶたび、なぜか咽るような違和感が喉に残った。
「……最近、眠れてるか?」
不意に声をかけてきたのは佐久間だった。
缶コーヒーを片手に、白衣の裾を翻しながら隣の席に腰を下ろす。
彼はウイルス学の主任研究員であり、九条の直属の上司でもある。
「眠れてはいますが、夢を見るんです。変な夢を、毎晩のように」
「変な……?」
「風景や物音がやけに鮮明なんです。古い日本家屋、囲炉裏、帳面に記された崩し字……見たことのない場所のはずなのに、どこか懐かしい気がする」
佐久間はしばらく黙って九条の顔を見つめた。
そしてコーヒーを一口飲むと、独り言のように言った。
「……昔、似たようなことを言っていたやつがいた」
「たしか学会誌にフィールドノートのような物が載っていた。記録のような、呪文のような、不思議な文章だったから記憶に残っていてね」
そう言うと佐久間は立ち上がり、自分の机の引き出しを開けて、中を漁り始めた。
山積みになった書類や封筒の奥から、やや黄ばんだ冊子を取り出す。
「これだ。ちょうど手元にあった」
表紙には、《東邦民俗学会誌》とある。ボロボロの表紙に「300円」と鉛筆で書かれているのが見えた。神保町でよく分からない本を漁るのが趣味とは聞いていたが、これもそうなのだろうか。
ページを繰ると、ひとつの記事に目が留まった。
《非言語的記憶と夢における継承構造の民俗的事例報告》
——著者:多胡真澄(東邦民族研究所)
夢の描写は、ほとんどそのままだった。
《火のそばで誰かが水を注ぐ音。帳面に滲んだ文字の意味が、なぜか“理解できてしまう”感覚。繰り返される手の動きと、視線の先にある何か——》
九条はページから目を離せなかった。
紙面に刻まれた記録は、彼の脳内にあった夢の断片と、恐ろしいほど一致していた。
これは偶然ではない。
自分の見ていた夢は、彼女が体験した“何か”と繋がっている。
・
その夜、九条は多胡真澄に連絡を取った。
古い学会誌に記載されていたメールアドレスだったが、驚くことにすぐ返事があった。
翌週、都内の喫茶店で、ふたりは顔を合わせた。
・
「……あなたが、九条さん?」
多胡真澄は、黒髪をひとつに束ねた痩身の女性だった。
眼差しは静かで、どこか虚無に似た冷淡さを湛えていた。
あの夢の中の登場人物のように、どこか現実から浮いていた。
「私も、まったく同じ夢を見ています」
九条は自分の名前を名乗ることもなく、多胡に自分が見ている夢について話始めた。
多胡は表情を変えることなく、九条の目を見続けた。
九条の話が終わると、沈黙が流れた。
室内の時計の秒針が、妙に強調された音を立てて進んでいく。
「……それを“奇妙だ”と感じたのは、なぜですか?」
多胡が静かに口を開いた。
「何故と言われても、記事と同じ夢を…」
「あなたはもがりに参加なさったのではないのですか?」
九条は言葉を失った。
まるで、それが“当然”であるかのように告げられたことに、頭がついていかなかった。
「もがり…?何のことですか?私は急に変な夢を見始めただけで…」
多胡の表情が固まった。
「新たに夢についての記録を残した後、改めてお会いしませんか?そうですね。今度の土曜日、15時は空いていますか?」
その夜、九条の夢の中には、初めて“火”が現れた。
静かに燃える、それは儀礼の始まりを告げる火だった。
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