バースデー・コネクト

辛口カレー社長

バースデー・コネクト

 壁掛け時計の秒針が、チクタクと無機質で規則的な音を刻んでいる。深夜の静寂に満ちたワンルームの中で、その音は私の鼓動よりも大きく、そして、冷徹に響いていた。私の視線は、白塗りの壁にかかった時計の文字盤に吸い寄せられている。まさに今、長針と短針が、頂点で重なろうとしていた。

「五、四、三、二、一……」

 心の中で呟いたカウントダウンがゼロになった瞬間、針が重なり、日付が変わった。世界は何一つ変わらないけれど、私の人生のラベルだけが静かに張り替えられた。

 ――三十五歳。

 三十代半ば。四捨五入すれば四十。アラサーの終わりであり、本格的なアラフォーへの入口。世間一般の基準に照らし合わせれば、それは一つの大きな節目と呼べるものなのだろう。でも、私にとってその数字は、ただの記号以上の意味を持たない。いや、むしろ意味を持たせたくないという、拒絶に近い感情があったかもしれない。

 三十代に突入してからの五年間、私は何を成し遂げただろうか。二十代の頃に描いていた、「三十五歳の私」は、もっと颯爽としていて、仕事もプライベートも順風満帆で、確固たる自信を持ち、誰かに必要とされているはずだった。さて、現実はどうだ。特に目立った進歩もなく、キャリアは停滞し、プライベートは砂漠のように乾いている。ただ時間だけが、指の間からサラサラと零れ落ちていったような、そんな喪失感だけが、胸の奥に、泥のように溜まっている。


 都心から電車で三十分。築二十年を超えるマンションの一室は、いつもと変わらず薄暗い静寂に包まれていた。空気清浄機の稼働音だけが、低い唸りを上げている。私はベッドの上で膝を抱え、ぼんやりとスマートフォンの液晶画面を眺めていた。

 今日は金曜日の夜だ。街は週末の解放感に浮き足立っている時間帯だろう。でも、私のスマートフォンには、誰かからの誘いも、祝いの言葉も届いていない。

 SNSのタイムラインを指で弾けば、充実した生活を送る友人たちの投稿が流れてくる。結婚、出産、昇進、海外旅行。光り輝くような、幸せの断片たち。それらを目にするたび、胸の奥がチクリと痛むのが嫌で、私はすぐに画面を閉じた。

 ローテーブルの上には、仕事帰りにコンビニで買った小さなロールケーキが一つ、ぽつんと置かれている。「プレミアム」と名のついた、ほんの少しだけ高いそのスイーツが、私にとっての精一杯の誕生日祝いだった。百円ショップで買った数字の形をしたローソクを立てる気力など最初からなく、ケーキはプラスチックのパッケージに入ったまま、テーブルの端で居所をなくして転がっている。

「ふぅ……」

 吐き出した息は短く、そして重かった。その呼気が部屋の空気に溶け込んだ、まさにその時だった。 手に持っていたスマートフォンが、突然ブルッと震えて、控えめな通知音が「ポロン」と鳴り響いた。 こんな時間に誰だろう。仕事の緊急連絡か、あるいは実家の母か。画面を覗き込むと、見慣れないSNSのアイコンと、メッセージのプレビューだった。


『お誕生日おめでとうございます! 素敵な一年になりますように!』


 差出人の名前は「Taka」。そのアイコンには、どこかの海岸で撮ったと思われる風景写真が使われている。

 ――え……誰? 間違いメール? 迷惑メール?

 記憶の糸を手繰り寄せるが、該当する人物は浮かんでこない。仕事関係者だろうか。いや、Takaなんてフランクな名前で連絡をしてくるクライアントはいない。昔の同級生……いや、それも違う。SNSで繋がっている同級生は一人もいない。

 首を傾げたのも束の間だった。その最初の通知を皮切りに、私のスマートフォンは発狂したかのように震え始めた。

 ――ブブブッ、ブブブブッ、ブブッ……。

 断続的だったバイブレーションが、やがて途切れることのない低い振動音へと変わる。まるで、嵐が到来したかのような勢いだ。Facebook、Instagram、X、そして、もう一年以上ログインすらしていない、パスワードすら忘れかけていたマイナーなSNSアプリまで。あらゆるコミュニケーションツールの通知が画面の上下左右から湧き出し、積み重なっていく。


☆『おめでとうございます! 心から祝福します!』(MASARU)

☆『素敵な一年になりますように! 三十五歳、今が一番脂が乗っている時期ですよ。輝いてくださいね!』(やよい)

☆『ハッピーバースデー! 今日は世界で一番、あなたが主役の日です!』(ケンジ)

☆『お誕生日おめでとうございます! 遠い空の下から、あなたの健康と幸福を祈っています』(ユキ)


 画面を埋め尽くす通知の激流。スクロールしてもスクロールしても、次々と湧いてくる新しいメッセージ。そして、見たこともないアイコンと一度もやり取りしたことのない名前。その数は、瞬く間に五十を超え、百に迫ろうとしていた。

「ちょ……ちょっと待って。何これ。怖い、怖い」

 思わず声が漏れた。心臓がドクンと大きく脈打ち、嫌な汗が背中を伝う。

 ――ストーカー? サイバー攻撃? 個人情報の漏洩?

 私の誕生日が、どこかの闇サイトに晒されているのではないか。そんな最悪の想像が脳裏をよぎる。恐怖にも似たゾワッとした感覚が背筋を駆け上がる。

 メッセージの内容そのものは、どれも丁寧で、温かみに満ちている。悪意のある言葉や、不審なURLが添付されているわけではない。でも、その圧倒的な数と見知らぬ他人からの熱烈な祝福という事実そのものが、あまりに非現実的で不気味だった。一体、この人たちは誰なのか。どこで私の誕生日を知ったのか。私はSNSのプロフィール設定で、生年月日を非公開にしているはずだ。仕事関係者にも、誕生日はごく少数の人にしか教えていない。


 手が震え、スマートフォンを床に落としそうになった。画面の向こう側に、無数の顔のない他人がいて、私を凝視しているような錯覚に陥る。

 通知を切ろうと設定画面を開こうとした指が、ふと止まった。メッセージの洪水の中、ある一つの単語が、ぼんやりとした記憶の蓋をこじ開けたのだ。


『バースデー・コネクトより、愛を込めて』


 ――バースデー……コネクト?

 その響きに、覚えがあった。記憶の彼方から、半年ほど前の、あの惨めな夜の光景が蘇ってくる。

 半年前。季節は冬の入口だった。当時の私は、人生のどん底にいたと言っても過言ではない。勤めている中堅のデザイン事務所では、一年かけて温めてきた大規模なリブランディング企画が、最終プレゼンの直前で白紙に戻された。理由は「方向性の不一致」という曖昧なものだったが、実際には上層部の派閥争いに巻き込まれた結果だった。追い打ちをかけるように、信頼していた同期の男性社員が、私のアイディアの一部を盗用し、別のプロジェクトで評価されているのを知った。彼は私の抗議を、「偶然の一致だよ。被害妄想もいい加減にしろ」と鼻で笑って一蹴した。悔しさと無力感で、胃に穴が開きそうだった。

 プライベートも散々だった。二年半付き合い、結婚も視野に入れていた恋人から、突然別れを告げられた。「君といても、将来が見えない。いつも疲れていて、一緒にいて楽しくない」という残酷な言葉と共に。

 仕事での自尊心の欠如が、彼との関係にも影を落としていたことは否定できない。でも、一番支えてほしかった時に突き放された絶望感は、私を人間不信の一歩手前まで追い詰めた。

 自己肯定感は地の底まで沈んでいた。誰にも必要とされていない。誰にも理解されていない。自分には価値がない。そんなネガティブな思考のループが、重い鎖のように全身を縛り付けていた夜。

 私は帰宅途中に立ち寄った大衆居酒屋のカウンターで、一人、安酒を呷っていた。周囲は楽しそうなサラリーマンや学生のグループばかり。その喧騒が、余計に自分の孤独を浮き彫りにした。

 酔いが回った頭で、このどうしようもない寂しさを埋めるものを探して、スマートフォンの画面を無意味にスワイプしていた時だ。SNSのタイムラインに流れてきた、ある広告が目に留まった。


『誕生日に、誰かと繋がりませんか? ――バースデー・コネクト』


 それは、「誕生日にお祝いメッセージがほしい人」と「誰かにお祝いメッセージを送りたい人」を匿名でマッチングさせるという、少し変わったボランティアサービスだった。普段の私なら、そんな胡散臭い広告は一秒でスルーしていただろう。でも、サービス紹介ページに書かれていた一文が、泥酔した私の心に突き刺さった。


『現代社会では、自分の寂しさや、ただ祝ってほしいという素直な気持ちを誰にも言えない人が増えています。私たちは、その心の隙間を、見知らぬ誰かの純粋な優しさで埋めることを目指しています。あなたを祝うのは、あなたの人生に何の利害関係もない、ただ優しさを届けたいと願う人々です』


 ――利害関係がない。

 その言葉が、当時の私には何よりも魅力的に響いた。職場のような足の引っ張り合いもない。恋人のような重たい期待や責任もない。ただ、私が生まれたことを、無条件で認めてくれる誰か。

 ――誰でもいい。誰でもいいから、私を認めてほしい。私がここにいることを、肯定してほしい。

 それは弱々しい叫びにも似た衝動だった。私は震える指で登録ボタンを押した。

 入力項目は少なかった。ニックネームと生年月日を入力し、メッセージを受信したいSNSのアカウントを連携させるだけ。本名や住所、顔写真は一切不要。私は捨て鉢な気持ちで、あらゆるSNSを連携させた。


『あなたの誕生日に、心を込めたメッセージが届くことを願っています』


 登録完了画面に表示されたその定型文を見ただけで、当時の私は少しだけ救われた気がしたのだ。

 そして翌日、二日酔いの頭痛と共に目覚めた私は、そのサービスのことをすっかり忘却の彼方に追いやっていた。日々の忙殺される業務の中で、あの一夜の気まぐれな行動など、記憶の隅に追いやられて当然だった。

「そうか……あれが、これ、なんだ」

 ――バースデー・コネクト。

 記憶と、今、目の前で起きている現象が、ようやく一本の線で繋がった。恐怖や不気味さは、潮が引くようにゆっくりと静まっていった。代わりに、私の心臓の鼓動は、深く、重く、しかし温かいリズムを取り戻していく。

 私は改めて、画面に並ぶメッセージの羅列を一つ一つ、丁寧に読み返した。そこにあるのは、ストーカー的な執着でも、詐欺的な誘導でもない。ただ純粋な、祝福の言葉だけだった。


☆『三十五歳の誕生日おめでとうございます! 私にとって今日は、あなたという素敵な存在が地球上に生まれた、記念すべき日です。だから、心から感謝します。生まれてきてくれてありがとう』(サクラ)

☆『疲れた時は、空を見上げてください。私たちは世界中のどこかで、あなたを応援しています。あなたは一人じゃありません』(ジョン)

☆『新しい目標を見つけて、素敵な一歩を踏み出せますように。過去のことは忘れて、前だけを見て。勇気を持って!』(ミサキ)


 彼らは私のことを何も知らない。私が仕事で失敗したことも、恋人にフラれたことも、三十五歳という年齢に焦りを感じていることも。

 彼らはただ、私が登録した誕生日とニックネームだけを見て、自分の時間を使い、言葉を選び、送信ボタンを押してくれたのだ。見ず知らずの他人のために。何の見返りも求めずに。

 ふと、一通のメッセージに目が留まった。


☆『私も今日、三十五歳の誕生日なんです! 奇遇ですね! 今、コンビニで買った大好きなロールケーキを食べてます! 一人だけど、美味しいです(笑)。一緒に頑張りましょう!』(笹山)


 笹山さんという、おそらく同世代の女性からのメッセージ。読んだ瞬間、ハッとしてテーブルを見た。そこには、私が買ってきたコンビニのロールケーキがある。彼女も今、日本のどこかで、私と同じように一人で誕生日を迎え、同じようにケーキを食べているのだろうか。

「ロールケーキ……」

 私は冷え切ったロールケーキの袋を、そっと手に取った。パッケージを開けると、甘いクリームの香りがふわりと漂う。先ほどまで感じていた部屋の冷たさが。少し和らいだ気がした。三十五歳という数字に感じていた重圧や虚無感が、不思議なほど軽く、溶けていくのを感じる。

 このメッセージの数々は、ただのデータではない。誰かが私を想ってくれた時間そのものだ。名前も顔も知らない、住んでいる場所も、職業も、何もかもが分からない人たち。でも、彼らの送ってくれた言葉は、確かに三十五歳になった今の私に届き、凍り付いていた心を内側から温めている。まるで、冷え切った体で熱い湯船に浸かった時のような、じわじわと広がる安心感。これは、無理やり自己肯定感を上げるための自己啓発本や、義務感から送られる義理のプレゼントとは違う。もっと根源的で、純度の高い善意の結晶だ。

 その時、視界が滲んだ。

 鼻の奥がツンとし、熱い塊が喉元にこみ上げてくる。これまで、仕事の理不尽な仕打ちや、失恋の痛み、裏切りのショックなど、あらゆる負の感情に直面するたび、私は泣くことを自分に禁じてきた。泣いたら負けだ。弱さを見せたら、この厳しい都会の街では生きていけない。そうやって歯を食いしばって生きてきた。でも、今、私の頬を伝って落ちた雫は、悲しみや怒りの涙ではなかった。


「ありがとう……」


 誰も見ていない部屋で、私は掠れた声で呟いた。一度口に出すと、もう止まらなかった。声が震え、途切れ、やがて嗚咽になった。

 私はスマートフォンの画面を握りしめたまま、ベッドの上で膝を抱え、子供のように泣いた。誰にも言えなかった寂しさ。認めてほしかったという素直な願望。そして、それでも一人で必死に頑張り続けてきた自分。それら全てが、見知らぬ人たちの優しさという光に照らされ、許されたような気がしたのだ。

 ひとしきり泣いた後、私は大きく深呼吸をした。部屋の空気が、前よりも澄んでいるように感じられて、涙で洗われた瞳に映る世界は、少しだけ輪郭がはっきりとして見えた。寂しさは消えていないかもしれない。でも、その寂しさすらも、愛おしい感情の一部のように思えた。

 私は冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出し、グラスに注いだ。そして、フォークを手に取り、ロールケーキを一口食べた。ふわふわのスポンジと、濃厚なクリームの甘さが口いっぱいに広がる。

「うん。美味しい……」

 生まれて初めて、誰かの善意と共に食べるケーキは、どんな高級パティスリーのケーキよりも格別だった。


 翌日の土曜日。

 いつもなら昼過ぎまで惰眠を貪り、頭痛と共に起きるのが常だったが、今日は朝の八時に自然と目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む朝陽が、やけに眩しく、心地よかった。

 枕元のスマートフォンを確認すると、昨夜からの通知はまだ止まっておらず、メッセージの数を知らせる赤いバッジは「99+」になっていた。

 私はゆっくりと起き上がり、コーヒーを入れた。香ばしい香りが部屋を満たす中、私は恐る恐る、しかし晴れやかな気持ちで、「バースデー・コネクト」のサービス連携を解除する手続きをした。もう、これ以上の祝福は必要ない。十分すぎるほど受け取ったから。

 そして、届いたメッセージへの返信を始めた。昨夜の涙のおかげか、心は軽やかで、指先が踊るように画面をタップしていく。


『Takaさんへ  一番最初のメッセージ、本当にありがとうございました。深夜の静けさの中で、あなたの通知音にどれだけ救われたか分かりません。心から感謝します』


『やよいさんへ  三十五歳、輝けるように頑張ってみます。あなたの言葉が、私の背中を押してくれました』


『笹山さんへ  お誕生日おめでとうございます! 私も昨夜、あなたと同じようにロールケーキを食べましたよ。一人だったけれど、あなたのメッセージのおかげで、誰かと一緒に食べているような気分になれました。お互いにとって、最高の一年になりますように!』


 数百通すべてのメッセージに返信することは物理的に不可能だったが、特に心に響いた十数通には、ありったけの感謝を込めた。すると、送信してすぐに笹山さんから返信が届いた。


『まさかご本人から返信いただけるなんて! とても嬉しいです。ロールケーキの仲間ですね!(笑) 実は私も、仕事で失敗して少し落ち込んでいたんです。でも、誰かを祝うことで、自分も少し元気をもらえました。お互い、三十五歳を楽しみましょう!』


 そのメッセージを読んだ途端、私は再び涙が出そうになった。でも、それは昨夜のような激しい感情の奔流ではなく、穏やかな喜びの涙だった。彼女もまた、誰かを祝うことで、自分の寂しさや傷を癒そうとしていたのかもしれない。

 ――優しさの循環。

 自分が誰かに優しくすることで、自分自身が救われる。それが、この「バースデー・コネクト」というサービスの本質であり、真髄なのだろう。

 私は迷わず返信を打った。


『笹山さん。私も、あなたを心から祝福します。今日という日が、あなたにとって特別なリスタートの日になりますように。またいつか、どこかで』


 そのやり取りを最後に、私はすべてのSNSアカウントの通知をオフにした。

 静寂が戻った部屋。でも、そこにかつてのような冷たさはない。私はもう、ただ優しさを乞うだけの「受け手」ではない。優しさの温もりを知り、それを誰かに渡すことができる人になれた気がした。


 それから一か月が過ぎた。

 私の日常は、表面的には劇的に変わったわけではない。同じ電車に揺られ、同じオフィスに通い、同じデスクに向かう日々だ。でも、私の内側、心の重心のようなものは、あの誕生日の夜を境に、確実に変化していた。

 私は、世界から忘れられていない。見知らぬ誰かに、純粋に存在を祝福されている。その確信は、私の背骨を一本通したように、揺るぎない自信となって私を支えていた。

 その変化は、まず行動に現れた。長年、「どうせ誰も見ないし」とか「今さら遅いし」と言い訳をして放置していた、個人のポートフォリオサイトを更新したのだ。週末を使い、今の自分のスキルと感性を詰め込んだ作品をアップし、デザインも一新した。それは、自分というクリエイターの存在証明でもあった。

 次に、職場での態度が変わった。同期に企画を盗用されて以来、私は同僚との関わりを極力避け、自分の殻に閉じこもって仕事をしていた。「余計なことをして傷つくのはごめんだ」と。

 ある日、休憩スペースで入社二年目の後輩が、頭を抱えて唸っているのを見かけた。以前の私なら、見て見ぬふりをして通り過ぎていただろう。でも、今の私は違った。

「どうかしたの? 随分と難しい顔をしているけど」

 声をかけると、後輩は驚いたように顔を上げた。

「あ、先輩……。実は、今回のキャンペーンのデザイン案がどうしても決まらなくて……。ターゲット層への訴求が弱いって言われてしまって」

「見せてもらってもいい?」

 私は彼のタブレットを覗き込み、率直かつ建設的なアドバイスをした。

「ビジュアルは綺麗だけど、少し情報量が多すぎるかもね。ターゲットが二十代女性なら、もっと余白を活かして、エモーショナルな一点突破にした方が響くと思うわ。例えば、ここのフォントを……」

 私が提供した視点は、彼の中で霧が晴れるような気づきを与えたようだった。彼の表情がパッと明るくなる。

「なるほど! そういう切り口があったんですね! すごい! 全然思いつかなかったです。ありがとうございます、先輩!」

 後輩の心からの感謝の言葉と、尊敬の眼差し。それを受けた時、私の胸の奥に、あの誕生日の夜に感じた温かいものが灯った。

 私は笹山さんの言葉を思い出していた。


『誰かを祝うことで、少し元気をもらえました』


誰かの役に立つこと。誰かに、自分の持っているものを分け与えること。それは、自己肯定感を高めるための最も確実で、健全な方法なのだ。私は、小さな優しさや技術を誰かに届けることが、巡り巡って自分自身を救うことになると、身をもって知った。


 週末の午後。

 私は久しぶりに自分の部屋ではなく、少し遠出をして表参道の街を散策した。ショーウィンドウに映る自分の姿は、一か月前よりも少しだけ背筋が伸び、表情も明るく見える。

 ガラス張りのモダンなカフェに入り、窓際の席でカプチーノを注文した。洗練された空間と、行き交う人々の活気。以前なら気後れしていたかもしれない場所に、今の私は自然と馴染んでいるような気がする。

 ふと、スマートフォンを取り出した。「バースデー・コネクト」のアプリは、まだ削除せずに残してある。私はアプリを開き、以前自分が登録したページではなく、「お祝いしたい人」を探すページをタップした。そこには毎日、何人もの誕生日を迎える人たちがリストアップされていた。ニックネーム、年齢、そして、誕生日を迎える心境。

 画面をスクロールしていく。


『ニックネーム:シンジ(42歳)

心境:仕事で大きなプロジェクトが終わり、燃え尽き症候群気味です。誰かに背中を押してほしい』


『ニックネーム:七海(18歳)

心境:来月からの大学生活と一人暮らしでいろいろ不安です。大人になるってどういうことなんだろう』


 それぞれの人生の、それぞれの切実な想い。

 私は今日のリストの中から、私と同じように孤独と不安を感じていそうな一人の女性を選んだ。


『ニックネーム:ユカ(38歳)

心境:数年ぶりに転職活動を始めました。年齢的な壁を感じて、不安と焦燥感でいっぱいです。新しい一歩を踏み出す勇気がほしい』


 三十八歳。かつての私が恐れ、今の私がこれから向かう年齢。彼女の不安が、痛いほどよく分かる。

 私は深呼吸をして、画面に向かって心を込めてメッセージを打ち始めた。あの夜、私に温かい言葉をくれた見知らぬ善意の人たちに、恩返しをするように。そして、過去の自分自身に語りかけるように。


『ユカさん、お誕生日おめでとうございます。

私も数年前、あなたと同じような不安の中にいました。新しい一歩を踏み出すのは、本当に勇気がいることです。足がすくむ夜もあると思います。でも、その「不安」は、あなたが本気で人生を良くしようともがいている証拠です。その勇気を、私は心から讃えたい。 三十八歳という年齢は、決して「遅い」のではありません。「これから何を始めるか」を、経験という武器を持って自分で選べる、最も自由で素敵な年齢だと思います。

あなたの人生は、あなたが主役です。今日は自分の好きなものを食べて、ここまで頑張ってきた自分をたくさん褒めてあげてください。

ユカさんの転職活動が、素晴らしい未来に繋がることを、遠い場所から心から願っています』


 推敲すいこうを重ね、送信ボタンを押した。「送信完了」の文字が出た瞬間、心の中に小さな、しかし確かな満足感が広がった。ユカさんは、このメッセージを受け取るだろうか。受け取ったとしても、返信は来ないかもしれない。それでもいい。誰かの心に、一瞬でも温かい火を灯すことができたなら。

 私の言葉が、かつてのTakaさんや笹山さんのように、彼女の孤独な夜を少しでも照らすことができたなら。

 私はスマートフォンをテーブルに置き、窓の外の賑やかな街並みを眺めた。初夏の日差しが、街路樹の緑を鮮やかに照らしている。


 ――三十五歳。


 人生の折り返し地点なんかじゃない。微妙な年齢だと思っていたが、今は違う。この年齢は、過去の自分を清算し、未来を自分でデザインし直せる、最も自由で、最もエキサイティングな時期なのだと、今は胸を張って思える。

 あのメッセージの洪水が、私の人生のリセットボタンを押してくれた。見知らぬ人たちの純粋な優しさによって、私は再び歩き出すことができた。

 カプチーノを一口飲み、私は静かに立ち上がった。

 ――今年の誕生日は、悪くない。

 いや、この三十五歳という一年の始まりは、私の人生において最高に温かく、意義深いものになった。

 誰かに与えられた優しさを、また誰かに繋いでいく。その温かい循環の中に、私は生きている。

 それが、私の新しい人生のテーマであり、これからの私が歩む道だ。


(了)

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