矢沢永吉と沢田研二

ラジオから流れてきた。


日本のロック界における二人の巨星、矢沢永吉と沢田研二(ジュリー)。


この二人は、同じ時代を駆け抜けながらも、対照的な「陽」と「陰」、「歌謡界のプリンス」と「成り上がりのロックスター」として語られることが多い存在です。


矢沢永吉が沢田研二をどう見ていたのか、当時のエピソードや彼の哲学からその関係性を紐解きます。


1. 圧倒的な「ライバル心」と「嫉妬」

1970年代後半、キャロルを解散してソロになったばかりの矢沢にとって、沢田研二はまさに「越えなければならない壁」でした。


「テレビの向こう側」への意識:

当時の沢田研二は、ヒットチャートの常連であり、お茶の間のスターでした。一方、矢沢はライブハウスや地方回りで地道にファンを増やしていた時期。矢沢は自著『成りあがり』の中で、テレビで華やかに歌うスターたち(その象徴が沢田研二でした)に対し、強烈なジェラシーを抱いていたことを隠していません。


「ジュリーが動けば、日本が動く」:

矢沢は当時の沢田のパフォーマーとしての完成度を認めていました。きらびやかな衣装を纏い、計算し尽くされた演出で大衆を魅了する沢田に対し、「あっちが華やかな歌謡曲なら、俺は俺のロックで天下を取ってやる」という対抗心を燃やしていました。


2. 唯一無二の「プロフェッショナル」としての敬意

矢沢は、自分とはスタイルの違う沢田を単なる「アイドル」や「歌謡歌手」としては見ていませんでした。


セルフプロデュースへの共鳴:

沢田研二は、衣装や演出に徹底的にこだわり、自らのイメージを構築していました。矢沢もまた、マイクスタンドのパフォーマンスやロゴマークのブランディングなど、セルフプロデュースの天才です。矢沢は、沢田の中に自分と同じ「表現者としてのストイックさ」を感じ取っていたと言われています。


「スーパースター」の孤独を知る者:

矢沢は後に、トップに君臨し続けることの厳しさを語る際、同時代を戦った沢田に対し、戦友のような眼差しを向けることがあります。お互いに直接べたべたとつるむことはありませんが、「あの時代、あれだけの熱狂を背負ったのは自分と彼くらいだ」という自負が、無言の敬意(リスペクト)に繋がっています。


3. 伝説の共演と「雪解け」

長らく「対立構造」で語られてきた二人ですが、象徴的な出来事がありました。


2000年代以降の評価:

2000年代に入り、お互いがレジェンドと呼ばれる年齢になった頃、矢沢はインタビューなどで、かつてのギラついた敵対心ではなく、穏やかに当時を振り返るようになりました。


「沢田さんは凄いよ」:

矢沢が自身のラジオや対談などで、沢田の現役感(今もなおライブを精力的に行い、ファンを大切にする姿勢)について、「あそこまでやり通すのは並大抵のことじゃない」というニュアンスで称賛を送ったことがあります。




結論:矢沢にとっての沢田研二

矢沢永吉にとって沢田研二とは、「自分をより高くへ押し上げてくれた、最高に眩しい鏡」だったと言えます。


もし沢田研二という巨大な存在がいなければ、矢沢の「成りあがり」のエネルギーは、あれほど鋭く、熱いものにはなっていなかったかもしれません。二人は、ロックと歌謡曲という異なる道を選びながらも、「日本中に自分の名前を刻み込む」という一点において、深く魂で理解し合っていた。







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憎みきれないロク いしくらひらき @77hikoboshi

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