元勇者は現代ダンジョンで世界一を目指す――妹の待つ家へ帰るために

塩塚 和人

第1話 帰還者の日常

 目を覚ましたとき、天井に走る細いひびが最初に視界に入った。

 東群市の古い集合住宅。築四十年を越えているが、雨漏りはしない。妹と二人で暮らすには、十分すぎるほどだ。


「……朝か」


 久瀬アラタは静かに上半身を起こし、時計を見る。午前五時半。

 ダンジョンに潜る日としては、ちょうどいい時間だった。


 顔を洗い、台所に立つ。昨夜の残りのご飯を軽く温め、卵を焼く。特別なことはしない。火を通しすぎないようにだけ気をつける。それだけだ。


「おはよ」


 背後から、少し眠そうな声がした。

 振り返ると、パジャマ姿のミオが立っている。


「早いな」

「今日もダンジョン?」


 アラタはうなずいた。それ以上、言葉は続かない。

 ミオもそれ以上は聞かなかった。


 二人の間には、説明しない約束がある。

 危ないかどうか。怖くないか。――そういう話は、もう何度もした。そのたびに、何も変わらなかった。


「いってらっしゃい」

「行ってくる」


 それだけでいい。


 玄関を出る前、アラタは一瞬だけ立ち止まり、ミオの方を見る。

 彼女はエプロンを着け、フライパンを洗っていた。いつもの朝だ。


 ――帰る場所がある。

 それだけで、十分だった。



 東群第七ダンジョンは、市の北側にある。

 外見は、巨大な穴だ。直径三十メートルほど。縁には金属製の柵と監視設備が並んでいる。


「久瀬アラタ。ソロ、ですね」


 受付の女性が端末を操作しながら言った。

 探索者管理機構――通称EMB。ダンジョンを管理する半公的組織だ。


「はい」

「ランクA。入坑許可出します」


 女性は一瞬、画面に表示された数値を見て、眉をひそめた。


「……魔力測定、まだ更新されてませんね」

「壊れたままです」


 事実を言っただけだ。

 女性は困ったように笑い、端末を閉じた。


「では、気をつけて」


 アラタは軽く頭を下げ、ダンジョンへと足を踏み入れた。


 中に入った瞬間、空気が変わる。

 湿り気を帯びた冷気。遠くで何かが動く気配。


 ――懐かしい。


 そんな感想が浮かんだ自分に、アラタは小さく苦笑した。

 ここは異世界ではない。だが、似ている。似すぎている。


 かつて、彼は勇者だった。

 召喚され、剣を持たされ、戦い、魔王を倒した。


 英雄と呼ばれた。

 その結末が、死だった。


 目を開けたとき、彼は赤子で、泣いていた。

 意味もわからず、声を上げていた。


 ――二度目の人生。


 それが、久瀬アラタという青年だった。



 第一階層は静かだった。

 低級魔物――ゴブリンに似た小型種が二体。動きは鈍い。


 アラタは武器を抜かない。

 一歩踏み込み、手刀で首を打つ。それだけで魔物は崩れ落ちた。


「……やっぱり、弱いな」


 独り言が漏れる。

 この世界の魔物は、総じて力が抑えられている。人類が対応できるよう、どこかで調整されているようにも感じた。


 素材を回収し、奥へ進む。

 第三階層。第四階層。


 周囲の壁に刻まれた傷跡を見るたび、アラタの脳裏に、別の景色が重なる。

 血。炎。仲間の叫び。


 ――思い出すな。


 今は勇者ではない。

 探索者だ。


 そして、兄だ。


 魔物の群れを殲滅し、階層を抜ける。

 時間はまだ午前中だ。


 ダンジョン内で休憩を取り、水を飲む。

 心拍数は平常。息も乱れていない。


「……これで、Aランクか」


 自嘲ではない。

 ただの事実確認だった。


 魔力測定器は、彼を測れない。

 触れた瞬間にエラーを起こし、最悪の場合、内部が焼き切れる。


 だから彼のスキル欄は「不明」のままだ。

 それを、不満に思ったことは一度もない。


 強さは、証明するものじゃない。

 生き残るために、使うものだ。



 ダンジョンを出たとき、空はまだ明るかった。

 受付で報酬を受け取り、簡単な報告を済ませる。


 その途中、声をかけられた。


「久瀬アラタさんですね」


 振り返ると、スーツ姿の女性が立っていた。

 柊カナエ。EMBの職員だ。


「少し、お話を」

「手短にお願いします」


 彼女は一瞬だけ目を丸くし、それから微笑んだ。


「魔力測定の件です」

「直りません」


 即答だった。

 柊は苦笑する。


「ええ。ですので……別の方法を検討しています」

「必要ありません」


 アラタはそう言い、歩き出した。

 柊は追ってこない。


 ――関わると、面倒だ。


 それが正直な感想だった。



 夕方、アラタは帰宅した。

 玄関を開けると、香ばしい匂いがする。


「おかえり」

「ただいま」


 ミオは笑った。

 それを見て、アラタは少しだけ安心する。


 今日も、無事に帰れた。


 それだけで、十分だった。


 ――世界一は、まだ遠い。


 だが、彼は歩き続ける。

 帰る場所を、守るために。


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